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【歴史】「孫殿英」軍閥で匪賊で闇商人~そして"物語"の巨悪に擬された男

孫殿英がヤバい。そんな話を耳にしたのが、この記事の始まりです。

なんだこの軍閥時代でも傑出したやべーやつは、たまげたなあ……。

そんなわけで、百度百科くんを始めにいろいろ掘り下げようと思ったんですが、人生で一番体調が悪い時節を迎えているので、ほとんど百度百科くんの受け売りです。情報ソース単一化による誤認可能性を高めていくスタイル。

こうした軽いつもりで始めたところ、「いや、これは絶対に怪しいぞ」という、"歴史的事実の主観と客観"に立ち返るきっかけになりました。あまり広く踏査できませんでしたが、むにゃらむにゃらという雑感混じりの言上にお付き合いください。

記事全体だと長いとは思うので、最初に結論かつ要約としての「概要」欄を置いておきます。


孫殿英、その概要

孫殿英。生年は1889年(光緒15年)、没年は1947年(民国36年)。乳名は金貴、字は魁元。帰徳府永城県の人。現代の行政区分では、河南省商丘市永城市馬牧鎮丁辛荘。

では、採用サイト「Wantedly」方式で、孫殿英の人となりをさらりと概観し、詳細は記事の後段に託しましょう。

【何をやっていたか】
「河北省の盗賊退治に派遣されたけど、敵が多いから兵士を集めるための資金がほしいな……」
「せや、乾隆帝なんかの陵墓が近くにあるやん。略奪、もとい人民の流した血と汗の結晶たる宝物を返してもらおう」

【何故やっていたか】
「よく考えよう。お金は大事だよ」

【どのようにやったか】
「匪賊が盗掘をやってるだって? なんてやつらだ。あとは俺に任せろ!(詳細はWEB(この記事)で)」
「奪う? 返してもらうのさ」

気になりましたら、目次から興味が湧いた箇所をお読みください。だいぶ直接の関係のない話が多いので。

孫殿英、河南省永城市に爆誕

孫殿英。乳名は金貴。日本でいう幼名ですね。なんかもう名は体を表すモードを感じます。阿瞞または吉利にしよう!

字は魁元。帰徳府永城県の人。この行政区画は1913年(民国2年)に中華民国によって廃止され、1945年には雪渦県と雪楓県に分割改名されたものの、1949年に中華人民共和国が誕生してからすったもんだの改廃を繰り返し、1996年に現在の基本となる河南省永城市(県級市)となりました。

この永城市、河南省の最東端に位置しているのですが、「曹操と華佗の出生の地」という説があるらしく、論争が起きているとのこと。「曹操も華佗も現在の安徽省亳州市譙城区やろがい」と思ったんですが、地図を見ていただければわかるとおりにまあ近いんで、「実は正確な行政区画ではこちらだったんだぜ」は起きうる感がありますね。

そんな孫殿英、百度百科の「要約するとこんな人」の一文がいきなり偏ってます。

「中国近现代史上著名的土匪军阀」
(中国の近現代史における著名な匪賊の軍閥ヤロー)

ひどい言われようですが、何しろ孫殿英は本当にえぐいことをやったのでした。

孫殿英、生誕から成人までの時代背景

西暦1889年(光緒15年)に生まれた孫殿英。当時の中国こと大清帝国といえば、1840年(道光20年)から1842年にアヘン戦争でイギリスからボコボコにされ、1851年(咸豊元年)には太平天国の乱まで勃発。朝廷はもはや独力での事態解決が不可能となり、各地の有力者である郷紳に"郷勇"の編成と、そのための"団練"の組織を認可。のちの軍閥時代の布石が打たれます。

郷勇は半世紀前の白蓮教徒の乱の時にも編成されていましたが、今回の太平天国の乱は規模が桁違い。もはや各地の有力者がそれを編成することは、「故郷(と権益)を守る」のに不可欠でした。有名なのは、やはり曽国藩の「湘軍」と李鴻章の「淮軍」ですね。

なお地味に間違えやすいポイントとして、同時期に活動した「捻軍」があります。こちらは自警組織ではなく、太平天国と同じく飢餓と貧窮に耐えかね、また彼らの活躍に発奮して安徽省を中心に決起した武装集団です。大清帝国の威厳はもうボロボロ。

しかも、1856年にはアヘン戦争で成し得なかった経済的アドバンテージ獲得のため、イギリスが第二次アヘン戦争とも呼ばれる「アロー戦争」に突入。ナポレオン3世が権益拡大の誘いに乗ったことで、フランスも参戦してきます。

英仏が手を組むという悪夢のような状況を、19世紀後半の大清帝国が覆せるはずもありませんでした。1860年には、北京までも占領されてしまいます。風雅な庭園として知られた円明園が英仏軍に破壊され、芸術品や工芸品が略奪されました。

アヘン戦争の主戦場は広東だったものの、アロー戦争では華北までたっぷり焼かれる形。もはや事態は北京にとっての「辺境の出来事」に収まらず、列強による「大清帝国わからせRTA」へと移行したのです。

こんな状態で、太平天国、英仏軍、捻軍と立て続けに相手にしたのが、モンゴル族出身の将軍センゲリンチン。14年間、中華全域で勝利を重ねたものの、英仏軍に子飼いのモンゴル族騎兵隊を撃滅せしめられ、長年の戦いもあって兵員の品質も品格も低下。1865年(同治4年)、捻軍によって包囲された高楼寨の戦いで全滅し、彼も戦死しました。

これは女真族(特に満洲族)が鍛え上げ、大清帝国の象徴でもあった八旗の信頼が低下し……というか精鋭の生き残りもほとんどいなくなったことを意味します。曽国藩や李鴻章ら郷紳の私兵たる郷勇が、帝国の主力になるのは必然でした。

また、上海などの国際貿易都市の商人が租界の外国人傭兵を雇い、これがすさまじい強さを見せたことで、「洋務運動」の波が一気に拡大。軍制改革、政治改良、装備改善につながり……。

同時に、諸外国勢力がアロー戦争の終結後に現政府を利益の共有者と位置づけ、太平天国や捻軍を敵と認定して軍事力を行使したことは、「世界の列強の考え方」を中華思想とまるで違う次元から示したとも言えるでしょう。

1864年には天京攻防戦(太平天国が占領した南京の呼称)において、曽国藩の湘軍を主力とする清軍が勝利。指導者たる洪秀全はすでに前月に病死していたなか、清軍は「自称キリストの弟に感化された者たち」を皆殺しにし、「天命を失った王朝での殺戮は何よりも恐ろしい」と感じさせる地獄絵図を作り上げます。

1865年には先述のセンゲリンチン戦死もありながら、郷勇を主力として戦争は続行。1868年、太平天国の残党が合流した捻軍も粉砕し、以後数年に渡る残党狩りを実施していきました。

とはいえ、この激動は1世紀は続くことになるわけで、それは英仏の圧力によって1861年(咸豊11年)に「総理各国事務衙門(清の外務省)」が誕生した点にも見えるように、「華夷思想の終わり、近代へ向けた改革(洋務運動など)と流血の始まり」でもあったでしょう。

実際、1862年(同治元年)には、

  1. 太平天国の乱と捻軍の蜂起が始まる

  2. 陝西省でも自衛のための団練(民兵組織)が生まれる

  3. 回民(ムスリム)がこれらの脅威から自衛の武装と訓練を始める

  4. 基本的に回民は大清帝国と対立してきたので、今回は最大規模の蜂起へ

という「行き過ぎた自警組織の乱立」と「政府機能の著しい弱体化」と「少数民族および宗教の弾圧」のマリアージュによる、地獄のピタゴラスイッチがお披露目。

この回民反乱に乗じて、東トルキスタンにはコーカンド・ハン国の将軍ヤクブ・ベクが進軍。湘軍の影響が大きい楚勇の左宗棠が捻軍を掃討したのちに、これを討伐するために遠征し、1877年にヤクブ・ベクおよび回民たちを完全に制圧しました。

そして、このヤクブ・ベクの乱の裏にあったのが、アロー戦争からわずかの間に蠢動した列強たち。ロシアがヤクブ・ベクの進軍からすぐにコーカンド・ハン国を占領。イギリスはその南下を食い止めるため、ヤクブ・ベクをインド経由で支援。ヤクブ・ベクはオスマン帝国からもムスリムの同胞として価値を認められたものの、左宗棠ら清軍はドイツの支援によって大幅に軍備を増強したことで、見事な快進撃を達成しました。

こうなると、ロシアは出兵してでも東トルキスタンの権益確保に動きたかったのですが、時は1878年です。ロシア帝国とオスマン帝国は「(何度目かわからんくらい繰り返してきた)露土戦争」に突入しており、1881年のイリ条約による外交解決と国境画定へ至りました。

まさしくグレート・ゲームの一環であり、「これら複雑怪奇な思惑の絡み合いの頂点が、マクロでは2度の世界大戦を、ミクロでは死と絶望の蔓延する中国の軍閥時代を生んだ」とも言えそうです。

そうした回民反乱で限界を覚えたムスリムのなかで、辛亥革命時に独自国家創設ではなく中華民国側での働きを選び、ついに軍閥となったのが西北三馬で語られる馬家軍でした。

加えて、1884年から1885年までには阮朝越南(ベトナム)を巡る争いから、清仏戦争が勃発。結果はフランスの勝利なものの、戦争のなかではフランス軍の旅団が潰走した戦闘もあり、時のジュール・フェリー首相が辞任するほどの衝撃を与えます。

戦争全体でも、チワン族などの少数民族が組織した団練の黒旗軍が大きく奮闘したこと。対して、洋務運動によって編成した福建水師が11隻のうち9隻を失う大敗北を喫したこと。結果として、洋務運動は不十分なもので、軍制を含む諸制度が機能不全な今、大清帝国の解体が必要という考えが生まれました。かくて、激動の19世紀末から20世紀へと進みます。

で、ようやくですよ、皆さん。時代背景がなんとなく見えたところで、今回の主役たる孫殿英おじさんがご来臨です。

孫殿英、やっと登場したけどまだ時代背景

先の項目で、左宗棠の中央アジア地域遠征に触れました。この遠征に参加していた郷勇のなかに、宗慶がいます。山東省蓬莱県の人で、捻軍討伐で功績をあげ、この捻軍から投降した兵士を含めて「毅軍」を創設しました。

毅軍は日清戦争にも参加するものの、明治維新とそれに続く複数の戦いを経て、劇的な改革と装備更新を行った大日本帝国軍の前に敗北。1894年(光緒20年)には宗慶も74歳となっており、大清帝国の横の連携が取れない軍制は健在。兵員の質も長い戦乱で上がってこないということで、東アジアの趨勢が大きく変わることとなります。

宗慶は1902年(光緒28年)に世を去りますが、毅軍は改名や再編をしつつも残りました。そんな各地を転戦した歴史ある毅軍に入ることになるのが、孫殿英です。

彼が出世し、指揮官として名前を売るのが1926年(民国15年)。この頃の中国は辛亥革命によって民主化……されてたら苦労しなかったんだよという軍閥時代に突入していました。

1912年(民国元年)に袁世凱が設立した北京政府(北洋政府)は、蔡鍔らが起こした護国戦争によって独裁体制の確立に失敗。袁世凱は失意のうちに56歳で死去するものの、反袁世凱の旗頭だった蔡鍔も結核により30代半ばで無念の夭折。

北洋政府の内部は「直隷派」「安徽派」「奉天派」「山西派」「西北派」とディアドコイ戦争ばりに分裂します。

また、地方も蔡鍔の衣鉢を継ぐ「雲南派」を始め、「広西派」「広東派」「四川派」「貴州派」「湖南派」「新疆の馬家軍」「チベットのガンデンポタン」と乱立。

しかも、これらの勢力を国内のみならず、イギリス、日本、アメリカ、ソ連といった大国が、権益やイデオロギーに沿って支援したりしなかったり。

そんな「後漢や五胡十六国みたいな戦乱を、機関銃と思想で武装してもう一度やろうぜ」な状態です。もう大陸中どこも死体だらけや。気が狂う。

1926年は、そんな「悪夢を治そうとして薬を飲んだら、悪夢が現実のものになった」みたいな時代も終盤戦です。この年は、張作霖の奉天派と呉佩孚の直隷派による、第二次奉直戦争が続いていました。

前年末には、日本からの支援で力をつけ、えげつない統治で「狗肉将軍」と呼ばれた張宗昌が直魯聯軍総司令を自称。この直魯聯軍第14軍軍長兼大名鎮守使として、孫殿英が表舞台に現れるのです。やったぜ、フラン!

孫殿英、あの「中国四千年の道徳の体現者」と対峙する

孫殿英が率いる直魯聯軍第14軍は、北伐を開始した「中国四千年の道徳の体現者」こと蒋介石こと蔣中正さんにぶちのめされました。嫌われ者だけど、本当に強いんだ、蒋おじさんは……黄埔軍官学校はソ連で学んだ蒋おじさんなくして成り立たなかったんやなって(なおだいぶ早期に反共化するもよう)。

ともあれ、中華民国臨時大総統の孫文の遺志を継ぐ存在として、国民革命軍を率いて北伐戦争を開始した蒋介石。弱っていた直隷派の呉佩孚を叩きのめし、その次にいた孫殿英ら山東省の軍も撃破。

これによって、北京政府では奉天派の張作霖が抜きん出たリーダーとなるも、上海クーデターで曰く「清党」を成し遂げた蒋介石が万全の態勢で北上してきます。

張作霖は本拠地の奉天へ撤退しましたが、わりと面倒な扱いになっていた張作霖の「有効活用」を考えたのは一体誰か?

かくて関東軍の手によるものとされる、ただし他説もやたら多いし、その動機持ちが世界中にいる張作霖爆殺事件が発生しました。

息子の張学良は軍閥を継承すると、軍閥内の親日派を粛清し、蒋介石ら国民政府に降伏。北京政府(北洋政府)の五色旗から、国民政府の青天白日満地紅旗へと旗を換えたことにたとえ、「易幟」と呼ばれる一大転向となりました。蒋介石ら国民政府および国民革命軍は、とうとう中華統一を成し遂げたのです。形の上では。

でも、真の地獄はこれからだし、孫殿英おじさんの「活躍」もこれからなのです。

孫殿英、"おくすり"と宗教で頭角を現す

国民政府による北伐戦争の成功に伴い、直魯聯軍第14軍は国民革命軍第6軍団第12軍に改組されました。孫殿英は、第12軍の軍長にスライドです。

国民革命軍の主力はドイツ式訓練を受け、師団の編制も装備も列強水準。一方、かなりの数の「孫殿英ケース」があり、この場合は師団の兵員数は半分以下、装備の充足率も練度も規律も悪く、「督戦隊の督戦経験がやたら豊富」という事例まで……。

西洋の識者からは「お前ら本当に20世紀の軍隊か」とさえ言われ、しかし、「こんな世紀末の状態で、高い徳性や倫理観や戦力投射が得られるわけ無いだろ常考」な現実のある一部の師団。

孫殿英。その名が中国史に残る蛮行へ至るのは、必然でした。彼の前史について、もう序盤からけちょんけちょんです。

「孫殿英は貧寒の出身だ。幼くして頑固にして劣悪な性格を見せ、歳を取っても正業に就かず、賭博に精を出し、世間を放蕩。ごろつきや悪党や役人らと結託し、賭場を開き、麻薬を売り、金を詐取した」

これはひどい。

荒廃した時代や軍隊で悪事を覚えた孫殿英。その大きな力の源となったのが、1844年(道光24年)設立の宗教団体「廟道会」との出会いでした。出会いと言ってもドンパチから避難した先がこの組織だったようですが、組織の掌握力にすぐれた傑物の一面もあったらしく、2年後にはこの廟道会の会首になっています。

すでに「紅丸」というやべー薬を売りさばいて大儲け、その金で自前の私兵を持っていて、そんな兵士たちとともに丸ごと入信したらしいので、計画的な組織乗っ取りにも見えますね……。

白蓮教徒の乱や太平天国の乱、それこそ黄巾の乱や紅巾の乱や義和団の乱にいたるまで、中国史はとりわけ救いとなる宗教を基軸とした団結と蜂起が強力ですから、「力」を求めるならこうした組織にたどり着くのかもしれません。

孫殿英、覚醒して陵墓を破壊する

かくして訪れた、運命の1928年(民国17年)。河北省には軍閥だった人間が匪賊化し、とりわけその東部「冀東」の治安は悪化の一途を辿っていました。この地名を見ると、「冀東防共自治政府」を思い出しますね。

ともあれ、孫殿英おじさんは河北省の匪賊の掃討作戦のために派遣されます。その道すがら、彼は感心します。

「いやあ、大清帝国の墓はすげえや。奪うか」

さすがにこの発言は妄想ですが、それでも同地には乾隆帝の陵墓を始めとして有力な皇族の墓が複数あり、したがって副葬品も豪華なものが眠っていると考えられました。

ここまで多くの悪事の経験があるからか、きっちり下準備を行います。まずは第12軍所属の第8師団に命じて、匪賊を掃討。それから各地に「第12軍が演習を実施する」布告を住民に出し、"陵墓盗掘"の計画を進めました。

なんで演習を名目にするかって、そりゃあ、「封印を爆破して吹き飛ばし、最速でお宝ゲットだぜ」のためですよ。もはや女真族、そう、満洲人は中華の支配者ではないのです。これが区分化の代償ちゃんですか。

そして、作戦は見事に成功。2つの墓の盗掘というか略奪に成功しますが、これがいずれもビッグネーム。

  1. 大清帝国の最盛期の皇帝である第6代乾隆帝の裕陵

  2. おなじみ清末期の激ヤバなあの人、慈禧太后(西太后)の定陵

当然、この行為に対して激怒した方がいます。大清帝国第12代皇帝にして「最後の皇帝」、愛新覚羅溥儀その人です。死者と歴史をないがしろにする「東陵事件」に対し、すぐに国民政府に対して抗議。

ところが、国民政府はこの訴えを受けてなお、孫殿英を罰しませんでした。ここがやはり良くも悪くも「人間の才能」を感じさせるのですが、国民党の上層部に略奪品を賄賂として贈っていたことが、ひとつの大きな要因と考えられています。

あとはここまで述べてきたとおりの暗い時代の世相、それと「もう古い時代ちゃうもんな」という時代の風潮もあったという分析がありますし、何より古今東西「豪華に埋葬しても、寝かしてたら意味ないわな」という現実主義的な見地は受け継がれてきました。

もっとも、次の項目であらためて「東陵事件」の詳細を少しだけ見てみますが、これはもう盗掘ではなく、単なる略奪でもなく、"破壊"な点はお伝えしておかねばならないでしょう。

孫殿英、彼は如何にして乾隆帝と西太后の陵墓を"破壊"したか

前の王朝の陵墓です。護陵のための部署もあり、警護要員としての兵士もいました。ただ、「かつては」という文言をひとつ付け加えることで、「帝国末期から革命以後に推移するにつれての、土地と人心の荒廃」をまるごと感じられます。こんな欲張りセットは、どんな地域、どんな時代でも必要ないですが。

ともあれ、「爆発物をたっぷり使った演習やるでよ」と布告し、実際に爆発物をたっぷり使って盗掘を始めました。

孫殿英は宝物が大量にあることを考えてか、事前に「食料を現地調達するのはいかんよね。よそから食料を運ぶわ。馬車が来るけど、それメシだから気にせんでええよ」と当地の行政機構への通達を欠かしません。

あとはもう、「爆破して、金目のものは全部持って帰る」……『天空の城ラピュタ』における略奪シーンそのまんまの光景だったようです。棺もすべて暴いて、宝物や珍しい品々を取得。帝国末期の西太后の陵墓だけでも結構な収穫でしたが、最盛期の乾隆帝の陵墓は圧巻でした。真珠、翡翠、玉璧、象牙、彫刻、宝剣と、デバッグモード状態でなんでも手に入ります。

この時の「回収」について、孫殿英はのちにこう語ったそうです。

「乾隆の墓は堂々したものだった。棺の中では乾隆の遺骸が溶けていて、辮髪だけが残っていたよ。副葬品はさすがに少ないものでなかった。その中でも、最も貴重なのは朝珠(ごく限られた高貴な人々が身につけた首飾り)かな。108粒の中でも最大の2粒は、朱色をしていた。九龍の宝剣には鞘に9つの龍が、また剣の柄には宝珠がはめ込まれていた……」

生 来 盗 賊

人は生まれで決まると軽々に言えたもんじゃないですが、「貧しく生まれ、奪う生き方で育った。困ったことに、それが時代の要請に適っていた」という点に、容易ならざる悲劇がありますね。

孫殿英、悪行がバレてもた

大規模な盗掘に加え、孫殿英ら第12軍のゆかいな仲間たちは「盗品の換金」を急いだようで、あっさり足がつきました。また、青島で捕まった第12軍の脱走兵3名からは、宝珠36個が押収されています。警察の調べに対し、「1人で46個の宝珠を持ってったやつもいる」と供述し、一兵卒がこれなら軍長の孫殿英や師団長、それに旅団長クラスはどれくらい手に入れたか。あまりフェルミ推定をしたくないのは確かですね。

天津においても、多数の密輸出されかけていた東陵の文物が押収されます。合計35箱。「大明漆長卓1枚」なども押収品目に入っていることから、とてもとても段ボール箱なんかで想像できません。大型のものを準用する必要があるでしょう。

さらに、孫殿英は政府に査問を受けた時も平然としたもの。一方で、蔣介石、宋美齢(蔣介石夫人)、何応欽、戴笠、閻錫山……軍閥時代から国共内戦および八年抗戦の主役たちに"分け前"を送ったとのこと。

贈り物の内容がしっかりしていることと、こうビッグネームが並んでいると、「中華人民共和国側の史観に沿った情報戦の可能性は十分にあるわね」と、ナンボ話半分で見聞きしてても警戒してしまいます。

ネタバレすると、孫殿英おじさんに誅罰を加えたのは、共産党の"功績"(と形容するであろうもの)なので……。

ただ、最もアレなのが、「あの時代、逆に収賄を拒んで恨みを買う人間が高位に昇れるのか。むしろ、長生きできるのか」で、事実無根ならきっちり明快な動きがあるはずなので、「あいつはアカン時代に出てきた例外的なアカンやつ。『中国四千年の道徳の体現者』は騙されただけ」というスタンスになりそうです。

さすがに「ラスト・エンペラー」のみならず、清の遺臣たちからも多数の請願が寄せられたので、軍事法廷が開廷されます。よくわからん。無罪。責任者は略奪品を受け取った1人と見られる閻錫山ですが、孫殿英が2万人以上の徴兵に成功という功績をあげ、いよいよ罰するには惜しい存在になりました。

孫殿英は引き続き閻錫山、馮玉祥ら軍閥の指導者たちとの連絡を密にして覚えもよく、共犯者だった師団長も釈放。

主犯である孫殿英に至っては処罰も勾留もなく、安徽省主席ならびに第5軍臨時軍長へと出世しました。

孫殿英、中原大戦も余裕で生き残ります

なんだか見出しがWebノベルっぽくなってきましたが、ダークヒーローと呼ぶにはちょっと気後れするし、ピカレスクロマンと呼ぶには組織の使い方が強すぎるので、「悪を任ずる」方向で進めるしかないですね……。

こんな有様なので、「宣統帝溥儀」の大看板は中華民国への失望を深くし、大日本帝国に接近するきっかけのひとつとなります。

と、国民政府、中国国民党、国民革命軍がアレな状況でホンマに収まるんかいなとお思いでしたら、ご安心ください。「出世するごとに敵がモリモリ増えていく英雄」枠の蒋介石さんが、複数の軍閥の手綱を握った状態で年月が過ぎるわけですから、見事に激発します。

1930年(民国19年)。蒋介石とともに軍閥の連合体としての統治は、いよいよ終わりを告げます。彼は自らと国民党の権限強化を目指し、国軍としての再編を実施。とりわけ軍閥の戦力の削減に手をつけますが、軍閥の指導者には相応の野心を備えた逸材がそろっています。強権的なやり方で簡単に黙るようなら、死ぬか失脚していたことでしょう。

かくて、閻錫山、馮玉祥、李宗仁、白崇禧、汪兆銘、唐生智などが次々に「反蒋」の旗のもとに集結。西洋の対仏大同盟に向こうを張る対蒋大同盟を結成し、時代の勝利者への道を歩み始めていた彼に挑戦状を叩きつけます。

南京を拠点とする蒋介石の国民党政権。

北京を拠点とする閻錫山らの国民党政権。

中国国民党の主導権を掴み取るための、同時に軍閥時代にひとつの決定的な終止符を打つための血の漆喰。「中原大戦」の始まりです。

ちなみに、蒋介石の北伐戦争が完了した時点で、「北京はもはや昔の都である」ということで、旧称の「北平」に名称が変更されました。これは中華人民共和国が成立する1949年(民国38年)まで続きますが、当記事内では中原大戦終了まで馮&閻の呼称する"北京"を使用します。トム&ジェリーみたいだな。

この段階で、蒋介石支持を明言したのは、西北軍閥の馬家軍だけでした。先の項目でも触れた、回民反乱の末裔たち。その中でも「体制側に阿って権力を獲得した」と言われていた彼らは、遠交近攻の原則、およびムスリムとしての自立を図るため、地理的に最大の敵である馮玉祥を排除する必要がありました。本来なら軽視されやすい"西域"から、自分たちを売り込むには最大の好機だったと言えるでしょう。

物量では勝る軍閥連合も、誰もが想像し、当時も危惧されたであろう陥穽にハマります。横の連携がボロボロで、数的優位を活かせません。蒋介石が傑出していたのは、この点を決して見逃さず、配下の部隊に至るまでを可能な限り統制し、いくつもの勝利を積み重ねたことです。

当初は北京政府有利と見られていた情勢が、一気に南京政府有利へと傾き始めます。

ここにおいて、中立として静観していた東北軍の張学良が蒋介石支持を表明。猛烈な勢いで要所たる山海関を突破し、北京を電撃的に占領。軍閥連合の士気は崩壊し、閻錫山や馮玉祥といった北京政府の主要メンバーは辞任しました。総勢で100万人以上の兵員が投入された戦いは、半年で決着がついたのです。

張学良もまた、最適なタイミングで横合いから殴りつけたと言えそうです。もっとも、1929年(民国18年)には中ソ紛争が勃発し、東北軍は最前線で大きな損害を出していたこと。そもそも前身の奉天軍閥から不倶戴天の敵だった直隷派や安徽派と組むよりは、親蒋介石を続けるのが妥当であること。中立を保っていたこと自体がフェイクだった可能性など、いくつもの要因があるでしょう。

さて、皆様も気になっていたでしょう。今回の主役である孫殿英は、この「勝利者」を決める戦いでどのように振る舞ったのか。

もちろん、蒋介石総統に見切りをつけ、閻錫山や馮玉祥ら軍閥側につきました。そうした姿勢を買われて、第4方面軍第5路総指揮兼安徽省主席を任され、中原大戦に華々しく出陣します。

負けました。

包囲された孫殿英は、直ちに閻錫山や馮玉祥ら上層部に支援を要請。3ヶ月かかって、やっとこさ解囲に成功します。

逃げた先で追撃を受けて、軍が壊滅しました。

そうこうしているうちに、張学良ら東北軍が北京に入城。なんだかんだこの激動の時代に生き残る"高級人士"は貴重で、名目上でも軍の階統構造を派手にぶっ壊すとえらいことになるのは、これから10年弱後にソ連が冬戦争で証明するとおりです。

よって、孫殿英は降格こそされたものの、第40師団長として改めて国民党に奉職することになりました。生命力がすごい。

孫殿英、熱河作戦に出撃します

1931年(民国20年)。中国においては、「九・一八事変」と呼ばれる事件が起こります。何やろなあ……石原莞爾くんはどう思う?

というわけで、満洲事変のお時間です。関東軍が絵図を描き、朝鮮軍の林銑十郎司令官が鴨緑江の即時渡河を命じたことで、東アジアは新たな局面へと入りました。

何しろ中原大戦が終わって1年もしないうちに、「恐れていた事態のうちのひとつ」が発生。東北軍の主要幹部は、精鋭を率いて華北の掌握を続けていたうえ、指導者の張学良は病を得ていました。1901年6月生誕、2001年10月逝去。そんな100歳の長寿をまっとうする人物でも、間の悪い時というのはあるものです。本当に。

そもそもにして、蒋介石も張学良も、「大日本帝国との戦闘は不拡大」の基本方針がありました。なんといっても、北伐戦争中から共産党の活動が大いに活発化しており、現代中国の人民解放軍が建軍記念日に定めている「南昌蜂起(南昌起義)」が1927年(民国16年)8月1日に発生。

背後にソ連およびコミンテルンの指導があったことで、蒋介石は反共へと転じて上海クーデターに踏み切り、毛沢東や朱徳といった後の最高指導部が"革命聖地"の井崗山に立てこもり……と目白押し。

「偉大なる蒋総統」を目指す身にしてみれば「まずは内憂たる"共匪"の排除が先なんだよなあ」と、ソ連で軍事思想と政治思想とその現実を見てきたからこそ、危険性を高く評価していました。

しかし、そんなことを訴えようにも、世はまさに帝国主義時代のクライマックス。大日本帝国としても、事変の不拡大方針を放棄し、関東軍の絵図に乗ることを決めたからには「最良の結果」を得るほかありません。

ここで登場するのが、我らが孫殿英です。主語がでかい。

満洲事変の同年には第41軍の軍長になっていましたが、2年後の1933年(民国22年)にはついに日本軍が要衝たる熱河へ侵攻。世に言う「熱河作戦」の始まりであり、先年には張学良ら東北軍が突破した山海関などでの戦闘が始まりました。

孫殿英は第41軍とともにこの「長城抗戦」を良い形で終わらせ中略負けました。

塘沽協定によって、ともあれ日中間の軍事衝突はひとときの終わりを迎えます。4年後に再開しますが。

今回も「敗北を知りたい」と望むまでもなく敗勢になった孫殿英ですが、逆に考えれば、東北部に派遣されていたことで、国内の激戦からはいったん距離を置けました。

このころ、江西省瑞金を首都として、中国共産党が中華ソヴィエト共和国の建国を宣言。とはいっても、当時の毛沢東は提唱していた遊撃戦術を否定され、党指導部の方針に従って伝統的な正面対決を強いられていました。

それでも、4回に渡る囲剿作戦を退けていた共産党。ただ、5回目の囲剿作戦は規模が違いました。蒋介石総統はこの一戦で「共匪を根絶する」ことを目標に、かのハンス・フォン・ゼークトなども一時的にやってきていたドイツの軍事顧問団からの支援も得て、大規模な攻勢を実施。

第五次囲剿作戦はちょうど1年ほど続き、ついに共産党指導部は瑞金の放棄を決意。三々五々に落ち延びる「長征」を開始し、その中途において毛沢東らが実権を握るひとつの要因となった遵義会議があり……という「第一次国共内戦」のクライマックスが訪れたのです。

ですが、孫殿英は大したもの。話はさかのぼって熱河作戦のころ、「自らの影響力向上とともに、事態がどのように転んでも大丈夫であること」を狙ったのでしょう。改革派、保守派、共産党員をそれぞれ身近な役職に任命し、国民党の首脳部から排撃されていた左派勢力の所属者も積極的に隷下部隊に受け入れました。

あれ、やっぱりピカレスクな主人公やれるんじゃね?

孫殿英、モテモテのち失脚

勢力を拡大した孫殿英は、狙いどおりに結構な影響力と兵力を有していた様子。馮玉祥らが「察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍」を結成し、防衛線が隣接していた孫殿英にも参加するように粉をかけてきます。

連合軍への参加は、すなわち「蒋介石なんて捨てて、俺んとこ来ないか?」という誘い。塘沽協定によって国民党の蒋介石ら首脳部は停戦したものの、熱河は非常に"おいしい"土地でもありました。張学良、ひいては奉天軍閥の資金源であるアヘンの一大産地だったからです。

他方、蒋介石としても敵を増やしたくて増やしているわけではないので、「きみを察哈爾省主席にしてあげよう」とのうまそうな餌。裏切り者とはいえ、「御せる人物」と見られていたのでしょう。

両方の勢力から誘いを受けた孫殿英。どうしたものかと迷った挙げ句……何もしませんでした。ラブコメ主人公みたいなことしとる。

こうなると、名目上は孫殿英も馮玉祥も、国民革命軍の一員。それも今はかつてより少し降格した状態です。蒋介石は2人が手を組んでしまうのを避けるため、「孫殿英よ、馬家軍を討伐せよ」との流れで中央アジアへの遠征に送り出します。

負けました。

孫殿英軍は7万人。馬家軍の総勢4万人。そのように記録されています。

負けました。寧夏省を攻め取れず、配下の旅団長たちはもはや言うことを聞かず、蒋介石には軍権を含む各役職を返上させられ、率いていた軍は閻錫山の指揮下に吸収されました。

その後、山西省太原へと移り、隠遁生活を送ります。馮玉祥らの「察哈爾民衆抗日同盟軍」は一時的にチャハルを占領したものの、再度兵を集めた日本軍および満洲国軍に敗退し、半年経たないうちに軍の解散を余儀なくされていました。

1936年、上記の軍の残党を吸収した冀察政務委員会の宋哲元委員長から、察北保安司令官に任命されます。ただ、これも名誉職に過ぎませんでした。とうとう、彼の物語も終わりに近づきつつあるようです。ただし、翌年から何が起こるか、そのうえで辿る経緯とは……。

孫殿英、日本軍にも受け入れられる

1937年、盧溝橋事件。日中戦争が始まる。中国側にとっての「八年抗戦」。孫殿英は冀北民軍司令官に栄転。

1938年、孫殿英は武漢で蒋介石総統と面会。このころには藍衣社が解散し、軍統が設立。辣腕を振るう戴笠の紹介によって、この面会は実現したと言います。孫殿英は「彼こそ我が親」と感激したとの記録が残っていますが、さて、真相はどんなものか。

『日露戦争物語』のラストかなってくらいの駆け足に見えたかもしれませんが、まさしく"駆け足"で戦局が推移し、「世界は地獄を見た」へとつながっていくわけです。何しろ1938年には、日本軍が多くの主要都市を奪取していました。

ともあれ、戦争の長期化は、ある意味では孫殿英の本領発揮の場面でもありました。戦ったら負けてきましたが、それ以外のところでの手腕が秀でているからこそ、ここまで生き残って将官であり続けられたわけです。

この日中戦争において、孫殿英が指揮下に入ることになったのが、龐炳勲の軍です。中原大戦では馮玉祥支持。察哈爾抗日同盟軍の結成時にいったん加わるも、蒋介石から察哈爾省政府主席のポストを提示されて寝返り。つまり、孫殿英がまごまごしていた結果、龐炳勲がそのギャンブルに乗って、結果的に馮玉祥を打ち負かす功績をあげた形になります。

そんな龐炳勲。国民革命軍が一気に日本軍を内地へ引きずり込みつつ、愛国心と民族心による団結を固めた流れのなかで、司令官としての才覚を発揮します。

日中戦争は日本軍が終戦まで耐え続けた戦線を構築しましたが、八年に渡る出血を互いに強いた戦線でもありました。龐炳勲は孫殿英らを率いて、山東省の臨沂で大きな勝利を獲得。

ここで一敗地に塗れた大日本帝国陸軍第5師団は、支那駐屯軍のち北支那方面軍隷下としてチャハル作戦、太原攻略戦、徐州会戦、広東作戦、崑崙関の戦いといった激戦を経験し、精鋭となった兵士たちは仏印進駐を経てマレー作戦に参加しました。

一方、太平洋戦争初期ののちは南方戦線での絶望的な支隊全滅、ババル島事件での民間人虐殺、捕虜に対する人体実験記録、そして終戦直前の国際法違反による橘丸事件と重すぎる醜聞も抱え込むわけですが……。

そんな第5師団と戦った孫殿英。悲壮感の漂う末期戦のエピソードに触れたあとに見ると、もはや清々しいまでの生き残る能力が披露されました。まず龐炳勲の指揮下にあることで、汪兆銘政権に代表される同じ国民党の直系部隊との戦闘を回避します。

さらに、側近に共産党員を加えていたことで、合作中から仲違いのエピソードにも事欠かない八路軍との関係も良好。被服や弾薬を入手し、自らの懐と部隊の満足度および戦闘力の維持を達成していきます。

こう見ると、不倶戴天の敵である日本軍とのみ激しく戦った……というわけでもないのが、孫殿英パワー。敵対者である日本人すらも可能と見るや交流を持ち、彼の軍司令部の至近には「国民党」「八路軍」「日本人」、それぞれの重要人物を歓待する施設が設けられました。

百度百科には「いわゆる『狡兎三窟』である」という評価がついていますが、いや、これは相当なもんです。言ってみれば、海千山千の商売人ともいえる立ち回り、一種の合理主義ともいえる考え方なわけですが、互いに愛国心を高揚していた時節の最前線で、死に触れ合う兵卒同士の同情などではなく、軍長クラスでこれをやれたわけですから。

しかし、軍組織として見れば「不良どころの騒ぎじゃない」うえ、その後の歴史から見ると「絶対的な悪人として歴史の磔刑に処するほかない」と判断されるのを避けられないでしょう。

また、「イタリア戦線の多くの場所でやる気のない兵士たちの姿が見られた」という風説が存在したように、「中国戦線はほかの戦線に比べて楽な戦線だった」という風説もまた吹き飛ぶような攻勢も、やがて現実のものとなります。

1943年(民国32年)、和暦では昭和18年。日本軍は江北殲滅作戦、続いて江南殲滅作戦を実施。太平洋戦線に総力を投じるため、中国戦線をより安定させる攻勢作戦はいずれも成功。このとき、孫殿英の軍も包囲されたため、彼は観念して投降。ここから親日の「和平建国軍」として再編成されたため、「漢奸(裏切り者)」の罪過を背負います。

孫殿英は龐炳勲を誘い、彼もまた鞍替えを決意。これによって2人は日本軍の指揮下のもと、重慶にて徹底抗戦を続ける蒋介石と、形式上は敵対することになりました。

2人の転向は、百度百科ではとことん貶める方針に従って醜聞が補記されています。他方、他の情報をいくつか照合すると、実際には蒋介石の了解を得ての投降だった可能性が示唆されている点に、注意が必要でしょう。

事実、2人はこのまま1945年の終戦の時を迎え、再び蒋介石に降伏。すると、日本軍との戦いの功績もあって、なんら罪に問われずに軍籍に復帰できたのです。

孫殿英、その最期~筆者が"歴史の相克"に覚えた寂寥感

とはいえ、国民革命軍には終わらぬ死闘が待っていました。それは、他ならぬ蒋総統自身がよくよく知っていたはずです。

第二次国共内戦。

長きに渡る戦乱に加え、「農村から都市を包囲する」毛沢東"中央委員会主席"の戦略が、なおも貧しい農家がマジョリティだった庶民の心を掴み、その支配力は八年抗戦の期間を通じてより強大になっていました。

同時に、この事実こそが孫殿英の命脈を断ちます。国民党、共産党のみならず日本人にも知己を作っていた孫殿英が、結局は日本軍の大規模攻勢によってその安寧を失いました。それでも、まだ彼は生き残ることができた。利用できる価値があったからです。

しかし、すべての人間がその価値に重きを置くわけではなく、思想によってはほとんど利益を共有し得ないことも往々にしてあるもの。とりわけ「イデオロギーの世紀」となった20世紀の、よりフォーカスを絞るなら、第二次世界大戦とその前後に起きた戦争や内戦にかかわる人々にとっては、決して逃れられない因果でさえありました。

「和平建国軍」はやがて「第24集団軍」となり、再び蒋介石政権のもとで「国民党先遣軍」に再編成され、「中国解放区抗日軍(共産党が八路軍と新四軍を合流させて新設、1947年9月に中国人民解放軍へ改称)」との内戦再開によって戦場へと舞い戻ります。

河南省安陽市湯陰県に駐留していた彼の軍は、これまでの戦歴が示してきたとおり、粘り強い防衛戦を続けました。なんだかんだで、軍閥時代から西へ東へと転戦し、満州事変からの熱河作戦も第一次国共内戦も生き抜き、日中戦争さえも敵味方の屍を踏み越えてやってきた道。

ですが、中国共産党とその軍隊は、毛沢東曰くの「革命とは暴力である。ひとつの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである」を体現した、「破壊」のための軍隊です。

なお恐ろしいことに、WW2の終結に伴って、大量の武器と弾薬がソ連から中国共産党に供給されました。労農赤軍の縦深攻撃を可能とする極大火力を支えた火器群が、希望と絶望の入り乱れた赤い奔流となって東アジアへ押し寄せる時、孫殿英は決して最後まで投降せずに戦いました。

あるいは、彼はわかっていたのかもしれません。自らの違法なビジネスや懐柔策を通じて共産党員と交わっていたからこそ、「異なる階級や価値観との絶えざる闘争」を旨とする思想のもとで、自分が生き残れるはずはないと。

国共内戦に関連した内容ともなると、現在の中華人民共和国に本拠がある百度百科と、それ以外の情報の描写も内容もかなり乖離してくるあたり、「何がそこで優先されているのか」を感じ取ることができます。

「孫殿英は紛れもない悪党であり、高貴な人々の墓を暴く悪辣非道の徒であり、これこそ中国国民党の代表的な人物にして、その本性たる匪賊そのものである」という位置づけは、実に構築しやすいナラティブです。

しかも、情報戦は少量の真実に多量の虚構を混ぜ込むことで、その真実性の範囲を不明瞭にし、時として多量の真実と少量の虚構へと再構築を進めます。

ところが、悲しいかな。あらゆる証拠は「偉大な皇帝」と「冷血ながらも愛国心のあった太后」、2人の墓を暴いた大罪人"孫殿英"にすでに多量の事実が含まれていることを指し示します。

もっとも、乾隆大帝と慈禧太后。2人の高評価は、大清帝国とその壮健に重きを置く立場の話。

乾隆帝はその治世の長きゆえに、「派手好きで浪費家」「凌遅刑を複数回実行した酷薄性」「文字の獄(明の洪武帝ほどではないものの、康煕・雍正・乾隆の康乾盛世みんなやってる)」「最大版図を実現するだけの大規模遠征の実施」などの特性が、大清帝国を破滅へ導く要素になりました。

西太后は酷薄な人物像が史書に残されることになりましたが、その実像は「乾隆年間の負債に苦しむ皇族の姿そのもの」という側面もあります。もっとも、あがけばあがくほど、当の本人の振る舞いが積弊になってしまう悪循環。そのうえ、権力闘争で見せた苛烈さは間違いなさそうなので、「残酷じゃない側面を探すほうが大変」とも言えそうですが……。

特に、第二次国共内戦における人間「孫殿英」についての描き方は、ソースによって大きく異なります。「抗日戦争」までは概ね一致するWikipediaと百度百科が、第二次国共内戦において大きく色合いを別にする。前者はソースの提示を重視し、客観性を求めます。後者は残された豊富な資料と"説話"までをもとに、強い悪感情も含めた文章でもって指弾します。

百度百科の歴史カテゴリ、とりわけ中国共産党の正当性にかかわる国共内戦、日中戦争、以後の戦後史については、検閲の目が光っているのかもしれません。いや、それも雑多な憶測です。柱のない感想に過ぎません。

メランコリックな気持ちになりました。なぜなら、最近になって「歴史戦」という呼び名すらついた"史的戦略"の一部を垣間見て、「歴史の物語化」の事例をひとつ垣間見た心地だからかもしれませんね。

孫殿英は共産党と最後まで戦い、これまでのように逃亡したり降伏したりして許されることもなく、虜囚の身となりました。

百度百科。「人民解放軍の攻撃に対し、孫はよく固守した。解放軍の砲撃にも抵抗し、猛烈な砲撃によって応戦した。脱出路さえも作り出したが、(1947年)5月2日に捕らえられた。同年冬、孫殿英は獄中で病死した」。

Wikipedia。「河南省湯陰防衛戦で、劉鄧率いる晋冀魯豫野戦軍(第2野戦軍)と激戦を繰り広げた。市は破壊され、占領された。1947年9月30日、孫殿英は河北省武安の人民解放軍捕虜収容所でハンガーストライキにより死亡した」。

劉鄧は、十大元帥の1人である劉伯承、および未来の最高指導者である鄧小平を指します。第2野戦軍の司令員が劉伯承、政治委員が鄧小平で、いずれも四川省の出身。同郷ということもあり、生涯その友情は変わりませんでした。

劉伯承は、十大元帥で最も長生きした95歳での逝去となっています。1892年生、1986年没でした。戦闘中(1916年の若年時)に片目を失明し、写真でも左右が非対称なものになっていますが、治療の際に脳への悪影響を避けるために麻酔を拒否し、ドイツ人医師から「軍神」と絶賛されました。関帝聖君のようなエピソードではあります。

鄧小平も1904年生で1997年没の93年。こちらは文化大革命で失脚しながらも、劉少奇が悲惨な末路を迎えたのとは別に、鄧小平は強制労働さえも乗り切り、周恩来の工作によって復権を果たします。

一方の劉伯承は、文化大革命よりも前に、同じ十大元帥にして内戦を戦った同志であり、朝鮮戦争に抗美援朝義勇軍を率いて出征した彭徳懐から「軍事教条主義者」として批判され、失脚。名誉職にまでは戻れたものの、残る目の視力が段々と低下し、その実務能力は早期に失われます。ただ、ゆえにこそ、晩年の毛沢東の警戒心と紅衛兵による暴力の嵐に巻き込まれず、光こそなくしながらも栄誉のなかで旅立ちました。

その意味で、孫殿英は運のダイスを転がしすぎたのかもしれません。中国語(簡体字版)のWikipediaには、死に関する詳細が併記されています。

「孫殿英が抗日戦争中に八路軍と良好な協力関係にあったことを考慮し、彼の勾留中、晋冀魯豫野戦軍区政治局軍法課は、劉伯承の指示によって特別待遇を行った。捕らえた護衛のうち1人が孫の命の世話をすることを承認し、アヘン中毒の彼のためにその購入費用を惜しまなかったのだ。だが、孫はすでに『喫煙後の赤痢』の症状に悩まされており、深い中毒によって1947年9月30日に病死した」

こちらは「寛大で慈愛のある十大元帥劉伯承」と「皇帝と太后の墓を荒らしたうえにアヘン中毒になった哀れな孫殿英」という対比が際立つ、他のサイトでも多く見られる俗説です。このパターンの場合、死の直前の孫殿英が「国民党政権よりずっと良い」と共産党の良さに報謝した言葉まで添えられることも。

眉唾モノではあります。しかしながら、これまで辿ってきたように、孫殿英の基本にあるのは自己の快楽と生命の保全でした。それが達成されるなら、国民党も共産党も日本も変わるところなく、"柔軟な裏切り"に抵抗を持ちません。

日本軍、ひいては汪兆銘政権の場合、和平建国軍が特殊な扱いだったというのもありますが、蒋介石総統は汪兆銘政権ならびに対日協力者に「漢奸裁判」で報復を与え、この"効果的な前例"は共産党政権でも踏襲されました。それだけに、処罰なく復帰できる存在の異様さが際立ちます。

かくのごとく、「悪のスケールとして人気が出ないほうの存在」の立ち位置がピッタリくるし、「死を感じた人間の改悛」が世界に数多あるからこそ、虚構であると断言もできない。

共通していることは、「孫殿英は非常に貧しい出自で、早々に郷勇を渡り歩きつつ、悪事を覚えていった」「乾隆帝と西太后の陵墓を無体なやり方で略奪した」、これに加えてもうひとつの事実があります。それをもって、当記事の締めに向かいましょう。

孫殿英、彼の住居と悪行の事実

孫殿英には、彼が住んでいた居宅が残されています。現在の天津市和平区にあり、当時は諸外国に解放された天津市のうち、英国租界に位置していました。彼は中国や日本だけでなく、西洋列強さえも取引相手にしていたのです。

というのも、この家。3番目の愛妾のために購入するとともに、自らの「違法ビジネス」の事務所としても使用していたとのこと。

英国の建築様式で建てられた、4階建ての住居兼事務所の屋敷では、麻薬販売、兵器密輸、偽札贋造といったあらゆる悪事が計画および実行されていました。

天津市は彼が戦うことになった熱河にも近く、国民政府の資金源だったアヘンの優良地域は関東軍に引き継がれ、彼らがその収益を吸い取ることになったので、地理的に至近である孫殿英もその流通に一役買ったようです。

これらの犯罪の証拠は中華民国も中華人民共和国も確認しており、やはり1940年代より前の一致している記録に関しては、「異論の疑いなくやった。被害額がわからんレベルでやった」という悪方面の不明が残るだけの"弁護不能"なところでしょうか。

もちろん、その略奪の理由として、「そもそも政府が金を払わない。上官たちで給料をピンハネするから、兵卒への給与は遅配する。下のほうから脱走も考えるが、それだと軍隊は弱体化する。どうすればいいかと思っていたら、匪賊が最低限まで削られた護陵部隊を蹴散らし、盗掘を続けている。どうせ地元住民も静かにやっているのだから、『革命資産の接収』くらい良いじゃないか」が現代に至るまで提唱されるのは、客観的な事実の伝承か、それとも「解放される前の人民像」の描写か……。

孫殿英、映画において"悪"の象徴となる

孫殿英は、映画の題材にもなりました。彼を悪逆の人物として描いた歴史映画『东陵大盗(東陵大盗)』がそれです。1987年にエピソード1が公開されたのを皮切りに、エピソード5まで制作されたとのこと。それぞれ、概略を並べてみましょう。読むのがしんどいかもしれないので、飛ばしてもいいように結論だけ書くと、「"抗日神劇"と同じ構築法を感じる」というものです。

■エピソード1(1986年)/あらすじ

 1928年秋。蒋介石は軍隊再編によって権力強化を図り、これに服することを望まない孫殿英は自立のための資金を欲し、軍事演習を口実に東陵を略奪する準備を整えた。彼はこの企みを確実に成功させるため、愛国者である那辛庭を遠ざけたうえで副司令官から解任し、自分に忠実な張厚岐に置き換える。

 かくして始まった陵墓への突入。侵入者を拒む仕掛けに対し、兵士たちの命を犠牲に侵入を続け、ついに金銀財宝へとたどり着いた。すると、たちまち欲深い兵士たちは狂ってしまい、とうとう陵墓内で同士討ちを始める。孫殿英は第5師団の師団長である譚温江とともに、陵墓への入り口に機関銃を設置し、略奪態勢を固めた。

 那辛庭は孫殿英の真意に気づいて急行したが、すでに略奪は始まっていた。それどころか、孫殿英への忠誠を示したい、師団長の譚温江に暗殺されかける。文化財の略奪への怒りに震える那辛庭は、ただちに平津(北平と天津)駐屯軍の司令部へ通報。ところが、これを知った司令部参謀長の朱綬光は、かえって略奪品の一部を自分のものにしようとした。

 陵墓盗掘のニュースは、全世界を驚かせた。愛国の志士や団体は真相の解明と犯罪者の厳罰を要求したが、一部の軍閥と政治家たちはかえって盗掘を奨励し、自分たちに分け前を求めようとした。さらには、外国人がコレクターや商人を自称して珍しい宝物を買い漁り、国外への持ち出しを企む。遵化の街が、怪しい雰囲気に包まれる……。

■エピソード1/登場人物

那辛庭:オリジナルキャラクター。愛国的で道徳を備えた主人公。

張厚岐:オリジナルキャラクター。孫殿英に忠実で、那辛庭の地位を奪う。

孫殿英:史実。ここまで触れたとおり。

譚温江:
 史実。馮玉祥が長じたころの直隷派に属していたものの、孫殿英が山東省にやってきたことで、奉天派の張宗昌に編入され、さらに孫殿英に従って蒋介石につく。記事内で固有名を出さなかったが、実際に孫殿英との共犯関係によって略奪を実行。第12軍隷下の師団長だったものの、資料によって第1師団だったり第5師団だったり第8師団だったりする。

 しかし、孫殿英は贈賄で上手く罪を逃れたものの、こちらはその点で後手を踏んだらしく、あるいはスケープゴートとして一時的に収監された。釈放後は孫殿英と決別し、天津市で隠遁生活。

 内戦に勝利した(共産党曰くの"全国解放")後の共産党政権およびその自治指導に忠実だったからか、「彼は進歩的な人々と交流し、大義の支援に全力を注ぎ、人生を人民のために捧げた数少ない軍閥出身の将軍となりました」と百度百科では好意的に書かれている。好意的すぎる。

朱綬光:
 史実。1873年(同治12年)、湖北省襄陽の生まれで、始めは閻錫山の山西派に属した。1893年、なんと日清戦争前に日本へ留学し、陸軍士官学校の第6期歩兵科で学んでいる。この同期にまさしく閻錫山(山西派)がいたほか、孫伝芳(直隷派)、程潜(国民政府)、李烈鈞(国民政府)、李根源(国民政府/反孫文派)、唐継尭(雲南派)と、大清帝国の近代化を担うバリバリのエリートたちである。

 そうした経歴もあって、卒業後には北洋軍閥が設置した保定陸軍軍官学校の教習(教官)も務めた。のちに孫文が設置し、蒋介石が校長に就任した黄埔軍官学校を支える人材も複数、この保定の卒業生から現れている。

 1917年(民国6年)には、WW1の期間中、かつ2年前の対華21カ条要求で対日関係が悪化している中だったものの、陸軍大学校へ留学。両勢力がこれを認めているあたり、朱綬光の才覚および陸士留学経験が活きたのと、両国関係の壊滅的な状態への移行がまだ先なのが窺える。一方、袁世凱の独裁強化による混迷のあいだ、ほかの同期たちも多くが日本に再留学している。

 特に、当時から多くの留学生を迎えていた、早稲田大学の政治経済学部に留学した李根源。彼は欧事研究会を組織し、そこには同じく発起人として程潜が名を連ねたほか、"革命三尊"の黄興、孫文と対立した聯省自治提唱者の陳炯明、国民党の重鎮となる汪兆銘、すぐれた教育者として名を馳せる蔡元培、そして『新青年』を発行して中国共産党の初代総書記になる陳独秀などが会員として所属した。

 閻錫山の誘いに乗って山西派に属したことで、必然的に1928年に蒋介石の同盟者として北伐戦争に協力して北京に入城。このときに平津駐屯軍司令部の参謀長を務めており、映画の時期と合致する。しかし、孫殿英の記事では国民党のお偉方への贈賄が列挙されていたものの、そこに朱綬光の名前はなかった。

 また、これほど敵対した国民党で、のちに共産党に転向しなかった人間に厳しい百度百科でさえ、「『孫殿英東陵財宝盗難事件』の捜査を命じられた朱綬光は、盗品の販売ルートを辿ることで、譚温江の逮捕に成功し、事件の詳細を明らかにした。彼は軍事法廷を組織したが、閻錫山も蒋介石も"匪賊軍閥"たる孫殿英を自勢力に取り込むことをたくらみ、かえって収賄を受けることで、この衝撃的な事件は最終的に未解決となった。朱綬光は、これに関して無力だった」と書いている。

 やがて、山西派は蒋介石の軍閥を対象とした軍隊再編に反発。中原大戦を経て敗北し、朱綬光は北平(北京)に下野。やがて第一次国共内戦の激化とともに、閻錫山ともども国民党によって登用され、1937年には上将(二級上将/大将に相当)に昇進。

 日中戦争の勃発後は第2戦区にて閻錫山の参謀長を務め、時として閻錫山の代わりに山西省北部での前線指揮をとるも、やがて政治での働きが望まれて前線からは遠のき、1948年に湖北省武漢市武昌区にて76歳で死去。共産党政権の誕生前に死去したこともあり、この映画では「国民党の一味」として描かれたか。

 なお、日本人の陸士第6期(1895年卒業)としては、満洲事変時の陸軍大臣だった南次郎陸軍大将が目立つ一方、目が止まるところとして松尾伝蔵陸軍歩兵大佐の名前もある。歩兵畑でシベリア出兵にも従軍。岡田啓介総理大臣の妹と結婚したために義弟になったのみならず、すべての公職を辞して無給の秘書として岡田首相を支え……1936年(昭和11年)の二・二六事件において身代わりとなり、首相官邸を襲撃した反乱部隊によって惨殺された。「15発ほどの銃弾が体内に残存。胸や顎に銃剣でえぐった痕跡あり」という検視結果が、無抵抗のところを機関銃で銃撃された斎藤実元総理(当時:内大臣)や、82歳にして奉職しながら6発も撃ち込まれて絶命した高橋是清元総理(当時:大蔵大臣)、玄関に設置された機関銃の掃射で肉体の一部が粉々になった渡辺錠太郎教育総監(陸軍大将)、さらに身を挺して殉職した警察官5名の検視結果や多数の負傷者ともども、「40年という歳月の先にあったもの」を思わせる。

■エピソード2(1986年)/あらすじ

 陵墓の盗掘と破壊が明るみに出たため、孫殿英は慌てて宝物を処分することに躍起になった。張厚岐を青島経由で日本へ送り、略奪した宝物を競売へとかけることを計画。これを知った朱綬光は捜査隊長として劉清林を派遣し、青島埠頭(山東省)において張厚岐を誘拐した。

 一方、孫殿英は宝物が奪われたことにショックを受け、盗難の証拠が他人の手に渡ることを心配し、これに対処すべく兵員を送り込む。劉清林らとのあいだに銃撃戦が起き、張厚岐は流れ弾で落命したものの、宝物の奪還には成功する。劉清林は重傷を負って平津駐屯軍司令部へ帰還したが、朱綬光は機密の漏洩を恐れ、彼を秘密裏に処刑した。

 事態は拡大し続ける。孫殿英は腹心らを派遣して宝物を売り捌こうとし、共犯たる譚温江に北平で記者会見を行う権限を与え、他方で陵墓の盗掘は匪賊の仕業であると虚偽の主張をして人民を欺く。

 朱綬光は孫殿英への報復のために譚温江を生け捕りにし、拷問を加え、宝物のありかを自白させた。第6軍司令官の徐源泉は事件に関与することを拒否するも、孫殿英が何度も助けを求めてきたために、とうとう朱綬光と対峙せざるを得なくなり、隷下の軍隊を派遣して平津駐屯軍を妨害し始めた。

 この時、劉清林の弟である劉清森は、兄の仇討ちを決意。朱綬光と閻錫山の2番目の愛妾が交わした手紙と私生活の写真を徐源泉に渡し、もって朱綬光を脅迫させ、譚温江の解放につなげた。

 同じころ、孫殿英はアメリカ人の詐欺師であるウォレスと、2トンの金と宝飾品を提供するかわり、軍需物資を引き換える取引を成立させた。那辛庭は宴会で酔ったという名目で孫殿英を出し抜き、これらの宝物を奪取することに成功する。

 しかし、偶然にもその移送を行っているところを孫殿英に見つかり、孫は那辛庭の拘束を命じた。こうして双方の激戦が繰り広げる中、覆面をした男たちが空から降下してきてすべての宝物や文物を盗み、那辛庭の身柄さえも拐かすのだった。

■エピソード2/新規登場人物

劉清林:オリジナルキャラクター。朱綬光が派遣した特務部隊の隊長。張厚岐の身柄を確保するも、孫殿英の刺客たちとの銃撃戦でこれを失い、自身も重傷を負って復命したところ、政治的都合から処刑されるという象徴的な扱いを受ける。

劉清森:オリジナルキャラクター。劉清林の弟。朱綬光に兄を殺されたため、復讐を企図する。清々しいくらいのネーミングで、逆に採用したくなる。

徐源泉:
 史実。1886年生、1960年没。武昌起義(辛亥革命の端緒)に呼応し、学生部隊を率いて革命側に参加。その後、上海光復軍騎兵連隊長、新疆総督府参謀、江蘇軍第6混成旅団第2連隊副連隊長などのキャリアを積む。

 やがて第2次奉直戦争にて、奉天派の張宗昌に追従。ここで功績をあげて有力視されるも、国民革命軍の北伐の進展から奉天派を見限り、蒋介石への易幟を実行。早期の服属が奏功し、1929年(民国18年)には早くも陸軍上将(大将)へ昇格。中原大戦でも蒋介石に従い、討逆軍第3軍団左路司令の責務を果たし、この戦役の勝利に貢献した。

 戦後は沙市(湖北省)へ移動し、土地を購入して自らの邸宅や庭園を建設し、工場や商店を誘致して地盤強化に励む。ただ、日中戦争が勃発すると、武漢会戦で独断での撤退を行ったことで李宗仁および蒋介石の不興を買い、西安で収監されてしまう。しかも、撤退の時に統制を怠ったことで、部隊はまるごと日本軍によって壊滅させられた。その後、国民党の台湾脱出にも従い、1960年に台北市で享年75にて死去する。

 現代の湖北省沙市市の繁栄の基礎となる商工の充実や学校建設、現代的衛生観念の浸透などを精力的に行い、これはまた蒋介石が主導した新生活運動の「珍しいほうかもしれない成功例」になった。一方、八路軍との戦いの合間に国内のアヘン貿易(流通)も実施したとされており、その点での評価は分かれている。

ウォレス:
 おそらくオリジナルキャラクター。アメリカ人の詐欺師。しかし、F・ルーズベルト政権で副大統領を務め、1944年には蒋介石との会談のために重慶を極秘訪問した、ヘンリー・A・ウォレスを暗に示唆している可能性がある。元ネタの人物の思想的には、ルーズベルトと同じく容共なんだけどなあ……。

■エピソード3(1987年)

 東陵の財宝が消え失せた。その知らせを聞き、蒋介石と閻錫山がそれぞれ北平に到着する。蒋介石はただちに軍および統治行政の要員を呼び、朱綬光が真っ先に密告して歓心を買った。蒋介石は閻錫山に対し、東陵の墓廟を暴いた犯人を早急に裁くように命じる。

 一方、孫殿英は宝物がなくなったことで、夜を徹して3番目の側室を尋問した。そのころ、那辛庭は宝物を横取りする道士集団に遭遇し、目隠しをされて山奥へと連れて行かれる。道士集団の長の孫娘である沈作虹は那辛庭に恋心を抱いたが、道士の沈慧の嫉妬までも生んだ。沈慧は、山に見知らぬ人間を連れていけないという口実で那辛庭を殺そうとするも、沈晋修と沈作虹に厳しい言葉で制止されて事なきを得る。

 郭頌は那辛庭を救出するために朱綬光の軍に身を投じたが、蒋介石は郭頌が愛国行為から宝物を守った功績を称え、朱綬光を北方軍副総司令官に昇格させた。一方で、閻錫山には陵墓盗掘の首魁の確保、および軍事法廷の組織をあらためて命じる。老獪な閻錫山は蒋介石に対抗する勢力を温存するため、この対応をわざと遅らせる考えを巡らせ、那辛庭を捕まえなくては軍事法廷を開廷できないと提言した。

 これらの動きによって、孫殿英は一息つく機会を得る。彼は行方不明の宝物と那辛庭のゆくえをいち早く掴むために人員を派遣しつつ、一方では多くの関係者に賄賂を提供することを欠かさない。

 このころ、那辛庭はなお山寨に押し込まれていたものの、真実を知るために飲食を断つハンガーストライキに入っていた。沈作虹は山と道士の掟を破って、恋した那辛庭に集落の秘密の場所へ案内する。

 他方、那辛庭の殺害を果たせなかった沈慧は宝物を盗み出して山を降り、これを売り払った。だが、この行動は孫殿英の手下である秦得禄に見つかるきっかけとなり、ついに宝物と那辛庭の場所を知られてしまった。

 孫殿英の3番目の愛妾は、彼が軍を動かして山を包囲する密命を知り、山へ登って那辛庭を救うよう郭頌に依頼する。だが、もはや下心と鬼欲の虜となった沈慧が扇動したことで、道長の沈九がとうとう那辛庭を柱に縛り付けるように命じたため、彼の命運は瞬く間に旦夕に迫ることとなった。

※記事執筆中の所感:もうだいぶしんどい。

■エピソード3/新規登場人物

蒋介石:史実。海外での呼び名は主に「蔣中正」。この当時の肩書は南京国民政府の政府主席。

閻錫山:史実。山西派の指導者。舞台となる1928年当時は蒋介石と同盟し、危うい安定の中にある。

沈作虹:オリジナルキャラクター。道士集団の長である沈九の孫娘。那辛庭に恋をする。

沈慧:オリジナルキャラクター。作虹に想いを寄せていたのか、那辛庭に嫉妬し、彼を殺すための策を巡らす。

沈晋修:オリジナルキャラクター。突然出てきた。

沈九:オリジナルキャラクター。道士集団の長。

郭頌:オリジナルキャラクター。どこからか出てきた。

秦得禄:オリジナルキャラクター。宝物と那辛庭のゆくえを知るため、孫殿英が送り出した手下のひとり。

■エピソード4(1987年)/あらすじ

 沈九は感心した。那辛庭はまさに死を間近にしながらも、胆力と愛国心を存分に示したからだ。那辛庭はすべての宝物を政府に返還するように主張するが、沈九は激怒しつつも、彼の愛国的な言葉に衝撃を受けたのだ。

 ここで、薬草採りに変装して山に入った秦得禄が生け捕りにされ、孫殿英の第12軍が山を包囲するために出兵するとともに、那辛庭の身柄には10万大洋もの懸賞金が懸けられたことがわかる。

(銀本位制のまま20世紀を迎えた大清帝国ならびに中華民国の統治下では、複数の貨幣や地方通貨が乱立しており、1933年にようやく廃両改元で秤量単位の"銀両"廃止と単一通貨"元"への移行が進んだ)

 この事実は、那辛庭に残っていた政党国家への幻想が打ち砕かれるのに十分だった。事ここに至り、沈九は再び那辛庭に目隠しをさせ、人に命じて峡谷を渡って蔵兵洞(軍需物資の保管や伏兵の配置を行うために使われた洞窟)へと導かせた。

 目隠しを解かれた那辛庭は、その神棚に無数の兵士の位牌が備えられているのを見た。それらはかつて勇敢に夷狄と戦った義和団の将士たちを弔うものであり、地面にはたくさんの洋式銃と東陵の宝物が積み上げられていた。那辛庭は本物の炎黄子孫に深く感動し、涙を流した。

(炎黄子孫:いずれも五帝である炎帝と黄帝の子孫を意味し、狭義では漢民族、広義ではその他の選ばれし支配民族の正統性を担保するために使われた。国民党も共産党も使用したこの概念だが、相当な数の少数民族をカバーしきれる概念ではなく、すなわち現代の統治にそぐわないとして、使用議論が起きている。なお、第6代中華民国総統の馬英九は使った記録がある。というか、今年2023年も「台湾海峡の両側はともに炎黄子孫なのだ」という文脈で使った。台湾で「1つの中国」論を警戒する陣営は抗議している)

 第12軍は山寨を包囲した。朱綬光もやってきた。沈慧は混乱に乗じて秦得禄を逃し、さらには日本の大陸浪人を引き連れて蔵兵洞へ直行した。ここで、郭頌が指揮下の軍とともに反乱を起こし、那辛庭の救出のためにその後を追う。

 だが、すでに兵士たちが蔵兵洞に殺到していた。道士たちは必死の抵抗を行うも、多勢に無勢であり、道長の沈九も戦死してしまった。那辛庭は蔵兵洞の中から飛び出し、生き残った道士と宝物を守るため、閻錫山を利用することに決めた。

 幸い、那辛庭は郭頌によって保護され、秦得禄を重要参考人として北平までやってきた。秦得禄は孫殿英の悪事を自白し、これを新聞に掲載するとともに、朱綬光を通じて閻錫山に3つの条件を提示する。

  1. 日付を選んで、宝物の公開展示を行う。

  2. 孫殿英を早急に軍事法廷にて処罰する。

  3. 国立博物館の建設を計画する。

 閻錫山から蒋介石にこれらの情報が伝わり、彼はこれらの条件をすべて受け入れるように命じた。今や孫殿英のもとから勝機が去りつつあったが、彼は失敗を受け入れることなく、ウォレスと手を組んで那辛庭の暗殺によって逆転を狙うも未遂に終わる。一方で、再び人を派遣して贈賄に躍起になる。

 ここで、日本人の大陸浪人が沈慧を使って宝物の展示会場に爆弾を仕掛けさせたが、この企みは沈作虹によって暴かれ、彼女は悪の限りを尽くした賊徒を荒野で討ち滅ぼした。

※記事執筆中の所感:抗日神劇の黄金パターンまで押さえて、リレー小説みたいな展開になってきた。

■エピソード5(1988年)/あらすじ

 閻錫山は自ら「清朝東陵文物展覧会」を主宰し、那辛庭を国家文物保護委員会の委員長に任命すると発表した。郭頌はこの振る舞いに詐欺的なものを悟り、袖を払って立ち去った。

 展覧会の終了後、閻錫山は宝物を登録のうえで箱詰めにして保文会へ護送する。溥儀はこれを知って憤慨したものの、日本人は「公然と表明すべきではない。密かに受け止めることを推奨する」と説いた。

 保文会の仕事は、いたるところで壁にぶつかった。そうして間もなく、「保文会の国宝が略奪された」という噂が流れた。法廷では、孫殿英がもっともらしく告発した。すなわち、宝物は匪賊と結託した那辛庭によって盗まれたのだと。

 那辛庭は自らの潔白を証明するため、各界の監督のもとで宝物の検査を命じた。だが、不可解な事実が判明する。箱は鍵も封印も解けていなかったにもかかわらず、中身はレンガの山にすり替わっていた。那辛庭は驚く。ここに至り、形成は一気に変わって、彼が軍事法廷の被告席に立つことになってしまった。真犯人はすでに逃亡し、世人には理解のできない謎だけを残したのだった。

※記事執筆中の所感:史実においてスケープゴートにされた譚温江の役割を、国民党の体制側に与した那辛庭が担う結末でした。また、エピソード4と5の山寨包囲戦は、とりわけ共産党が味わった5回に渡る瑞金での囲剿戦を覚えさせるとともに、「理由はどうあれ、漢奸になった者の末路はこういうものだ」というメッセージ性を感じさせます。義和団の"義挙"の再評価も入っていますね。

■テレビドラマ版『东陵大盗(東陵大盗)』

あらゆる意味で「扱いやすい題材」だからか、2008年には映画のリメイク、というか拡大版としてテレビドラマになりました。キャラクター紹介、映画版と全然違ってビビりましたね、これは。孫殿英以外は、金毓沢、周香凝、蘇英、韓瑩とオリジナルキャラが並んでいて、しかも那辛庭ポジションの金毓沢以外はすべて女性キャラです。華流ドラマの成長と、女性の社会進出による女優さんの増加が、こうした創作手法になったのでしょう。

その一方、孫殿英に東陵略奪の発想をもたらした当地の匪賊である馬福田が登場しており、こちらは「顔に2つの恐ろしい傷を持つ、太った匪賊のリーダー。冷酷で殺意に満ちており、視聴者に憎しみを抱かせるとともに、恐怖もまた芽生えさせる」と解説されています。

もう十分堪能したので、歴史、宗教、野望、メロドラマのキメラっぽいこの作品にはついては、きみの目でなんちゃら……。

孫殿英、その息子が背負った宿業

最後に、軽く触れつつ、終わりといたしましょう。あらゆる悪を背負った孫殿英は、対比的にその闇を濃く描写されている節があります。彼には息子が1人だけおり、それが孫天義でした。

1931年6月、北京(北平)生まれ。孫殿英の事務所は天津の英国租界にあり、そこには3番目の愛妾が住んでいましたが、孫天義の母親は2番目の愛妾のほうであると記録が残っていました。

「彼は父親が引き起こした歴史的出来事について、母親、未亡人の叔母、そして父親のスタッフや友人からしか知ることができなかった」と、血縁がすなわち罪の継承につながるわけではない点を強調。

そのうえで、孫天義は自らの出自を受け止め、外国語教育で高い成果を残したのみならず、「黄帝陵基金会」の理事長も務めた事実が喧伝されています。陵墓を破壊し、死者を侮辱した父に反し、息子は陵墓の修復とその保護に生涯携わり続けた。これは良い人間像として、広く称揚されています。

中華文化促進、国民精神高揚、国家の団結力と求心力の向上、そして黄帝陵の修復と保護の資金管理。黄帝陵基金会の活動内容は、なるほど誇らしいものです。

こうした象徴性ゆえに、「進歩的な共産党の指導によって、貧困と無知の中から生まれた孫殿英というナラティブの延長線上で、美談としてその地位を確立した」という意見もまた、成立しうるものでした。

良い接し方ではないですが、多少の距離を取るのが必要なことも、今回の"記録の旅"で感じました。何にしても、孫天義氏は黄帝陵基金会での活動を貫き、1986年から1998年までは西安外国語学院の学長も務め、日本の大学とも来日含め交流を持った記録が残されています。

「振り返ってみると、孫天義は東陵の盗賊である父の影で育った。しかし、それを苦とはせず、自らの向上に努め続け、祖国のために生涯を捧げた。文化建設において、父が生前に犯した罪を償ったのだ」

このような称賛の言葉を見た時、確かに良い一面を見ながらも、暗澹たる気持ちを捨てきれませんでした。彼は確かに中華民国で生まれ、思春期に中華人民共和国の成立を迎え、父はすでにその時に獄死しており、それでも学才と利他を発揮した……にもかかわらず、「あの孫殿英の息子の償い」という文脈がクローズアップされてしまう。

政治的スタンス。思想的バイアス。そうした次元を超えて、単純にかわいそうな話だと思ってしまったのです。

それと同時に、「族滅」の単語と概念が生まれ、今なお遺伝子を受け継ぐ生物としての本能が生命の本義に据え置かれているからには、この視点をまったく否定したり、ましてや排除したりすることは不可能なのでしょう。

孫殿英を非難するためにか、それとも擁護するためにか、「孫は大明帝国末期に活躍した孫承宗の子孫であり、祖先を殺戮した清王朝に対する復讐心があった」という言説すらも見受けられます。

1638年(崇禎11年)に高陽で果てた、第16代天啓帝の学問の師にして、魏忠賢と違ってすぐれた人品であったと称揚される孫承宗。現代中国では「孫」姓は約1,800万人を数え、ベスト20に入る割合を保持しています。にもかかわらず、わざわざ引き合いに出されてきた意味。

そこを深掘りし始めたら、いよいよドツボかもしれません。略奪者の死。「解決可能な未解決事件」として象徴となった1928年の東陵大盗。それらの記録をたどりつつ、奇妙な感情で見えない面を減らさないようにする。その気持ちでもって、ひとまずは締めとさせていただきます。

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