眠れぬ夜(認識の領域に対する若干の考察)

眠れぬ夜を唯物論者及び観念論者はどう説明するのか。或いはその説明する、言及するそれの本質はどのようか。または、その説明自体における矛盾、(例えば、己の心象と実際に形象したそれとの矛盾などのことである。ちなみに、まあこれというのは大方己の哲学を誇示しようという焦慮に起因するだろう。一に説明とは形而上学に過ぎないことを解していないかのどちらかだろう。)その説明は逆理ではないかという疑念、批判哲学への抵抗など、これらを課された時彼らはどう振る舞うだろうか。眠れぬ夜を彼らは形而上学的にどう実存させるのか。そして、そのことから察せられる人間の本質はいかようか。言うまでもなくそれは見ものである。
眠れぬ夜、人は大抵もぞもぞする。[何かをしたくてたまらない]と、[逃げおおせたい]と、[開放されたい]と、[自分は今必死でもがき苦しんでいる]と、[煩悶の末の現在である]と、そうして歯ぎしりをして眠れぬことを棚に上げる。人は気張ってしまうのだ。何のためか。それは苦しみに価値を付けるためである。まあ、意味を持たせると言ったほうが適切かもしれない。つまり、人は眠るとこよりもその苦しみをより一層知ることで開放されることを期待して、そうして演じてしまうから眠れぬ夜が出来すると私は考える。多分、眠れぬ夜はこのようにして実存している。
さて。人間のこうした、まあ言ってしまえば間違った想念は無論認識に帰するところがある。すなわち、その苦しみとは実は何なのか、どのように実存しているのか、いやどのように実存させるべきか。まあ実のところ、これを解き明かすに当たって上の二者は立ち上がり躍起になって主張するのだ。
唯物論者の主張は多分、[人間が認識できるのは本当のところ五感による認識だけ、つまり物質しか認識できない。しかしところが、人間は苦しみなどの五感では認識できないはずのものを認識できている。がしかしそれというのは、恐らく何かしらの粒子でできているのだから、人間は物質しか認識できない]という主張だろう。しかし対して観念論者のそれは、[まず、人は万物を認識によって実存させているのか。いやそれとも人間の認識力には限界があって、人間は覚えず多くを目こぼししているのではないか。まず前者が正しいのならば、眠れぬ夜は物質がどうこうということではなく、人間があらゆることを認識した結果作り出された、科学では説明できぬ、いや限界のある霊的な想念によって作り出されたに過ぎない。そして次に後者の方は、その想念がもし実存しているから認識できているのなら、我々の認識力の限界はいかん。多分、まず我々が認識しているそれは本物でない。換言すれば本質を認識できていない。なぜと言うに、人間がいまだに自然法則を解明できていないからである。自然哲学はいまだ不十分なままだからである。それは人間の癖である目こぼしによってあらゆる判断材料を得れないでいるからでしかない。だからつまり、おおよそその想念とはむしろ存在すらしていないような、認識すらされていないような、そんな超越的なものなである]というそれだろう。
然るに。彼らは各々こう主張したが、この二つの根底には認識の可能性という課題がある。まあ、二者はこれについて争っているのだ。しかし、この二つに矛盾があるのか問われた時、まあ断定できないからだとしてさらに説明を求む以外では、矛盾はないのではないだろうか。二者ともに認識をどう実存させるか。認識できるできない。これらを論じているそのうえで、経験的思いを主張しているように私は思える。(もっとも僻目かもしれないが)従って、逆理であると私は定めない。しかし実際、批判哲学の襲来を受けた時この二者はどう振る舞うだろうか。まあ、正直に受け入れて分かることとそうでないことを区別する者もいれば往生際の悪い者もいるだろう。
故に、眠れぬ夜から察する人間の本質とは、自然に決して勝れず従ってばかりの弱者だということである。

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