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説明しようとしてズレる

歩くのが好き。

なぜ好きなのかというのを説明しようとして、少し躊躇する。

いつもの感覚。

カウンセリングで、子どもたちとかけがえのない時間を過ごす。

それは、自分にとって、価値があると信じることができるし、子どもたちにとっても、価値があると信じることができるものである。

子どもたちと自分との間では、そこまででしかない。

それで終わり。

なのだけれど、子どもたちがクライエントの場合には、「それで終わり」ということはない。

子どもたちは、自分だけの力でカウンセリングにつながってくることはないから、子どもたちをカウンセリングにつなげてくれた大人と保護者に、カウンセリングについての説明をする責任が生じる。

そこにいつも苦戦している。

それは、なぜ歩くことが好きなのかを説明しようとして、うまく説明できずにやきもきする、その感覚と似ているように思う。

言葉で説明しようとすればするほど、それが野暮なことのように感じてしまう。

そして、説明しようとすればするほど、ズレてしまう。

だからと言って、言葉で説明することを回避したりはしたくない。

そういう思いが自分の中にぐるぐるとまわりまわって、結局説明はするのだけれど、今まで「うまく説明できた」と満足した試しはない。

大人の人のカウンセリングなら、カウンセラーとその人が満足すれば、治療関係は続いていく。

だけど、子どものカウンセリングでは、子どもがものすごくカウンセリングを求めていたとしても、大人の都合によって中断されることがある。

カウンセリングを継続させるかどうかを最終的に決定するのは、周囲の大人であるから。

子どもがカウンセリングを継続したいと思っているのに、周囲の大人によって中断されること、それは多くの場合、その周囲の大人にきちんと説明ができていないカウンセラー側の責任なのだけれど、子どもに対してその場を守れなかった申し訳なさと、うまく説明できない(できそうにもない)自分の不甲斐なさと、いろいろな思いが湧き起こって、どうしようもなくなってしまうことがある。

どうしようもなくなってしまうのだけれど、そのどうしようもなさを、見ないようにして、感じないようにするということだけは避けたい。

どうしようもなさを、しっかり感じるということ。

今の自分にできるのは、それだけのように思う。

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