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小説家のイメージの「外側」にいる小説家(第169回芥川賞について)


https://twitter.com/Taroupho/status/1681876405150441472?s=20

上の一連のツイートを読んでいて、「純文学から普遍性がうしなわれた」旨が書いてあって、驚いた。そこまで、「普遍性」を絶対的に信仰しているのか、と。

インターネットの普及によって、多くの人が発信できるようになり、表現の幅は大きく広がった。イラストや漫画が、画材を取り揃えなくとも、スマートフォン一台あれば解決する時代だ。(実際、PCでのインターネット中心の時代でも板タブレットを使用せずマウスで絵を描く「マウス絵師」は存在したし、今は、無料アプリさえダウンロードすれば、指でお絵描きができる)

文学も、インターネットの普及によって裾野が広がった。「ケータイ小説」や、山田悠介らの「自費出版小説」が代表的だろう。私も「ケータイ小説」が登場した当時に嫌悪感を抱いていた小学生だった。しかし、今、小説にかかわる仕事をやることもある身からしたら、「革命」だと気づくことができる。昔は大多数、頭がよかったり、家柄がよい人たちが「小説家」になるもの、と決まっていたのを、「違う!」とひっくり返したからだ。誰だって、文章を綴ることができるなら、「小説家」になれる、と現実に書店で突きつけてくれたのだから。
昔の小説のもつ「普遍性」は、それは「家柄のよさ」「頭のよさ」で選別されたさきにあるものでしかない。この世の中にはお金持ちの家庭じゃない人、頭がよくない人の方が圧倒的多数であるにもかかわらず、だ。
そう、むしろ、昔の純文学には基本的に「普遍性」が欠如しているのではないか?
(ただ、よく考えたら、プロレタリア文学だって、もともと労働者階級の人々による文学だったのだから、ある意味「ケータイ小説」や「自費出版小説」と同じ枠に入るものも多い。ただ、歴史を積み上げた結果、「そういうもの」と認識されているだけの話だ。)

私のまわりにいる、Twitter等で交流がある小説を書く人々(主に二次創作である)は、口をそろえて、「読書感想文が嫌いだった」という。日本の国語教育では国語や小説を嫌いになりかねなかった人々が、インターネットで発信ツールを持つことができたからこそ、小説を書くことができた。実際その中から商業作家として仕事をしている人もいるくらいだ。(漫画家にくらべると見えにくいけれど、一定数男女問わず存在する)

インターネットの自由性によって、小説の多様性が生み出されている。喜ばしい。新しい創作が発見されていくのは、私からしたら楽しくて仕方がない。
「小説の「普遍性」が失われて嘆かわしい」と思うのは、既に小説を書くであろうとされた階級の人々からの視点でしかない。直木賞受賞で「女性の受賞が珍しい」だとか、芥川賞受賞で「重度障碍者の受賞ははじめて」の部分を恣意的に切り抜く側からすれば、「普遍性」の外側の「女性」も「障害者」も「別世界のいきもの」なのかもしれないが、実際に、いま現在日本に生きている人間の構成員だ。「女性」も「障害者」もいるのが、「当たり前」だ。

「普遍性」という幻想に縋っていられるほど、現代日本は単純な世界ではない。多様な人間が存在することをそれぞれの立場の人間が小説として著すことで存在を認識してもらうことは、きっと個々人が世界に「透明にされない」ために大事な意思表示なのだ。Twitter上でデモをおこなうのと変わらない、発信行為のひとつなのだ。

うつや発達障害などをテーマにした実録漫画が読まれるように、小説という分野でも表現のひとつとして「存在の主張」をして、なにが悪いのだろう。
私たちは、社会から消されないことに必死なのだ。

きっと、ニュースのヘッドラインだけ読んで文句を言う人は、無料のweb記事の詳細すら読まないくらいだから、小説をお金をかけて買わないかもしれない。けれど、ニュース記事を読む人は、小説を読む人は、きっと「存在の主張」に気づくことができる。きっかけのひとつとして。

※書き手も、女性かつ、精神保健福祉手帳2級所持者の障がい者です。



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