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【短編小説】「ロザリオ」-完結編-


 僕のアパートから教会に行くには、街の中央を背に川沿いを歩くことになる。
 毎週日曜日の朝、僕はゆっくりと歩みを進め、教会へ向かう。
 となりにはレサがいる。昨年の冬にレサの夫は介護施設で息を引き取った。最後は肺炎だった。
 彼女は「一年間喪に服す」といった。だから現実的に僕らの結婚はレサの喪が明けてからということになる。
 僕は結婚は急いでいない。子供も健康体の二人だ、避妊をやめたらすぐに授かるだろう。なにより、僕の画家としての地位がまだ確立されていない。それなりに画商との繋がりも個人的な顧客もついた。
 でも、目標としていた海外進出はまだ達成していない。
 画商はいう。「レオさんのような正統派な日本人の画家といえば、やはりベタに日本臭のする題材のものが海外では受けます。レオさんの描く子供の絵はいい線いっていると思います。どうです? シリーズ化してみては?」
「なるほどね、考えておきます」
 そういったきり、僕からはなんの返事もしていない。気が乗らないとかじゃない。子供ばかり描いていたら、僕の肩書きは「童画家」になってしまう。それは僕は望んでいない。人物ならなんでも描ける画家になりたい。高い身分の人の肖像画は描きたくないが。
 シリーズ化するなら、レサの絵にしたい。僕はレサを本人以上の魅力の塊に描ける自信がある。レサにそれほど魅力がない、といっているんじゃない。レサはいくつになっても少女性を持った不思議な女性だ。映画館で「高校生だ」といっても通用するだろう。ただ単に見た目が幼いわけでもない。醸し出す雰囲気が、まだ無邪気な学生に見えるのだ。繰り返すが不思議なほどに。
 日々ピアノ講師として子供と接しているからだろうか。いや、そんな単純な話ではない。すべて、そこに彼女の摩訶不思議な魅力が詰まっているのだ。言葉ではいいあらわせられないことだってある。
 いいさ、いつしか彼女の魅力を結集した絵画の個展でも開いて、みんなに見せつけてやろう。レサは恥ずかしがるだろうが。「お客様のお出迎えができないじゃない」と。そんなこと構うものか。レンブラントだって妻をモデルに作品を描いている。

 日曜礼拝が終わると、僕とレサは川沿いを牛のようにゆっくりと歩いた。いつもの習慣だ。その日の神父の話を深掘りするような真似をしてみたり、季節が春から夏に代わったら訪れてみたいワイナリーのことなどを話しながら。
 レサはことさら夏を楽しみにしている。べつに海でビキニ姿を披露するわけでもないのに。ただ海は好きらしい。波打ち際を、靴を脱いで歩くのが気持ちいいという。だから、僕らは夏には電車に乗って近場の海へ行く。泳ぎはしない。肌を小麦色に焼くこともしない。海辺を歩き、そんな彼女をスケッチブックにおさめ、三層にも四層にも重なった紅色のサンセットビューが臨めるホテルに泊まる。ご馳走に舌鼓を打つ。それが、僕らの夏休みだ。
 今年は彼女が喪に服しているので、二人では派手に旅行などはできないが、日帰りでワイナリー見学くらいは出掛けられるだろう。すべて彼女が下調べから電車のチケット手配までやってくれる。僕はコーヒーでも啜っていればいい。
 レサは、夫が亡くなったときも冷静にすべてを仕切っていた。そして、夫が小さな骨壺に入ってしまったら、翌日からピアノ教室を再開し、何事もなかったかのように生徒にピアノを教えていた。
 これを逞しいといわずしてなにをそういうのか。

「ねえ、レオ」彼女が僕の肘に手を回した。とても細くて小さな手を。
「なに? お腹でも空いた?」
「そうねえ、それもそうだけれど。わたしね、思うの」
 レサはとても慎重な、かつ静かな声でつづけた。
「あなたとはいずれ小さな家を買って住みたいと思っているの。もちろんわたしの教室のための防音室と、あなたの絵に没頭できる部屋を確保できるものを」
「そんなことを考えていたのか。意外だな」
「あなたは賛成ではないのね」
「そうじゃない。ただ、僕の身にはあり余りすぎるほどの幸せ像だ。僕はあの小狭いアパートで絵を描くことに慣れているし、君だって場所を移ったら、一から生徒を集めなきゃならないんじゃないのか?」
「わたしの仕事の心配は無用よ。そう遠くに引っ越すつもりはないし。だってあの教会へ日曜礼拝にも行けなくなっちゃうでしょ。ただ、一緒に暮らしたいと思っているだけなの。だめ?」
「いや、嬉しいよ。嬉しさと戸惑いがごっちゃになってる。正直ね」
「そうね。すこし性急すぎたわね。まだ喪中だものね。ごめんなさい。こんな話をするんじゃなかったわ」
「レサがそんなことを考えてくれていたってことは嬉しいんだ。わかってくれ。拒絶してるわけではないんだ」
 僕の言葉も虚しく、レサはすっかり気落ちしてしまった。いつも前向きな彼女の中にどんな心境の変化が訪れたのか、僕にはさっぱりわからない。

 五月のはじめのこと。その日は暑いくらいで、僕はジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿で街を歩いた。カラッとはしているが、とても暑いので、僕は喉の乾きを覚えていた。片手には画材店で買った絵の具と真新しい筆を抱えて。
 テラスのあるカフェに入ると、低い天井にシーリングファンが回っているだけで、すこし息苦しかった。僕はテラス席を選んだ。日陰の席はひんやりとして、ときおり風が髪を撫で、心地よかった。
 そのときはまだ気がつかなかった。二つ向こうのテーブルにレサが座っていることに。そのテーブルの位置は僕のテラス席より店の奥にあり、薄暗かったのもある。
 テラス席でアイスカフェラテを飲んでいると、となりの席のご婦人が連れた小型犬(おそらくポメラニアン)が僕のスニーカーに興味を示した。靴紐がほどけていたから咥えたかったのだろう。ご婦人は子犬を注意し、僕に会釈をした。そのときだ。同じ店にレサがいることに気づいたのは。僕の側には背を向けて座っているので、レサは僕には気づかない。
 初老の女性とその娘らしき三十代であろう女性が、声高にレサに話しかけている。そこには緊張感のようなものがあった。珍しく、俯いているレサの背中も丸く小さい。
 その女性たちはレサになにか難題をふっかけているようだ。レサは困っている。わずかだが話し声の断片が聞こえてくる。僕は耳をすませた。
「だって弟だってあんな身体になるまではずっと働いてたわ」
「はい。ですから、そのお金は通院治療と、家のバリアフリー化と介護施設につかってしまったんです」
「じゃあ、残る財産はやっぱりあの家ね」
「······はい」

 そういうことか。あの女性二人組はレサの夫の身内で、レサは遺産相続について問い詰められていたのだ。それでレサは新しい家を買うアイデアを僕にぶつけたのだ。おそらくいま住んでいる家を彼女らに譲って。
はっきりいってやれ。家のひとつくらいくれてやる、と。
「おねえさまは、あの家に住むおつもりですか?」レサがいった。
「なんてこと? あたしはそこまで老いぼれてないよ。バリアフリーを補修することはないけどね。でも、防音室もあるんだ。家を渡してくれるなら修繕費用もいくらかくれないとね」
 なんて身勝手で底のない強欲な人なんだ。僕は席を立ち上がってレサの援護に回りたかった。しかし、レサはこの話は僕に打ち明けることはないだろう。隠しておきたいこととして黙っているだろう。レサとはそういう女性だ。それを知っているから、僕はあえて加勢することはやめた。アイスカフェラテを急いで飲み干し、僕はそっと席を立った。

 夕方、レサが僕のアパートを訪れた。さきほどカフェで見た、小さくなっていたレサはどこにもいない。いつものバイタリティー溢れるレサだった。
「レオ、こないだまたわたしを描きたいっていってたけど、今日ならモデルになれるわよ。ちょっと忙しくなりそうだから、できるときにやってくれる?」
 レサは買い物袋をどさっとテーブルに置いてそういった。忙しくなる。それはレサと亡くなった夫との思い出の家を、あの無礼な親戚に渡す準備のことだろうか。でも、まだ新しい家は探していない。どうするのだろうか。
 僕はレサが料理をしてくれているあいだ、ポール・ゴーギャンの画集を捲っていた。今度の絵は、レサの体に布を巻いて描こうと思っている。ポージングなどのヒントにその画集をみていた。
 海老の殻を剥きながら、レサはしゃべっていた。
「このゴールデンウィーク、どこかに出掛けなくてよかったの? スケッチ旅行とか。わたしのことは気にしないで」
「今年はいいんだ。お金を貯めなきゃ」
「お金? いったいどうして?」
「僕とレサの新居のためさ」
 レサはぎょっとしたようだった。そして、「その話、覚えていてくれたのね」とすこし泣き顔でいった。
「はやく君と一緒に住みたいよ。レサもこうしてわざわざ通う必要もなくなるんだ」
「そうね」素っ気なくいう。
「レサは? 楽しみじゃないの? 僕との生活」
「そりゃあ楽しみよ。でも、喪が明けるまではね」
「そうか、そうだったね」僕は鼻白んだ。
 彼女は焦っていない。でも、忙しくなる。どういうことだろうか。訊いて答えてくれるとは思えない。だから、僕は訊かないことにした。それは知らんぷりをして放っておくわけではない。大事なことならレサも僕に話すだろう、と踏んでのことだ。

 夏もすぐそこまで来ていた。今年は空梅雨で、梅雨明けも早まるそうだ。いよいよ、レサの好きな夏がやってくる。でも、レサは浮かない顔をしていた。
「レサの大好きな夏がくるね」
「ええ、そうね」空返事だ。
「どうしたんだい?」
「いえ、ちょっといま忙しくて」
 またか。僕は最近このことばではぐらかされている。
「ねえレサ。なにをひとりで抱え込んでいるんだ? 僕にも話してくれないか」
 レサはしばらく口に手を当てて考え込んでいた。やがて、僕の目線を受け止めた。
「あの家を引き渡すの。だから、小さなアパートを借りたの。楽器オーケーなところがあったのよ。いま、そこで生徒を教えているの」
「そんな大事なこと、どうして話してくれなかったんだ」
「怒鳴らないで」
「怒鳴ってはいないよ」
「家の改築の費用もかかるから、稼がないといけないの」
「そんなの君がするひつようはない。彼のおねえさんがすればいいことじゃないか」
 レサはぎょっと顔を上げた。「どうして義姉のことを知っているの?」
 しまった! だから僕は抜けているんだ。
「いや、実は前に街のカフェで君とおねえさんたちが話しているところに僕もいたんだ。声を掛ける雰囲気じゃないから、僕はすぐその場を去ったよ。でも、ちょっと話の内容が聞こえてきたんだ。ずいぶんと勝手なことを押し通す人じゃないか。だいたい介護施設に来もしなかったんだろ。そんな薄情なやつらに金をかけることないよ」
「だから、怒鳴らないで」レサは頭を振った。
「君を心配してるんだ」僕はレサの肩に手を置いた。
「ごめんなさい」声が消え入りそうだった。「あの人たちと縁を切るためには仕方のないことなのよ」
「それなら、僕との家を探せばいいじゃないか」
「でも、喪が······」
「いま、そんなこといってる場合じゃないだろう」
 レサはテスト用紙に向かう女子生徒のような眼差しで顎に手を当て考え込んだ。
「僕の助けも必要としてくれよ。寂しいじゃないか」
「そうね。あなたのいう通りだわ。すぐに新しい家を探すべきね。順番としてはそちらの方が正しいわ」
「そうと決まったら、週末、不動産屋に行こう」
「ええ、そうすべきだったわ。ありがとう」

 土曜日の午前中に、僕とレサは街の不動産屋に赴いた。
「郊外になら広い戸建てがたくさんありすけどねえ。どうしても街中ですか? 譲れませんか?」不動産屋はのらりくらりといった。
「ええ、わたしがピアノ教室を開いておりまして、生徒たちがこれまでと同じように通える場所じゃないといけないんです」
「そうなると、そう大きな家は見越せませんねえ」
「ピアノが入る部屋と、一部屋大きめの部屋があるだけでいいんです。豪邸なんて望んでいません」レサはぴしゃりといった。
「ああ、そうなんですね。でも、いずれお子さんが生まれないとは限らないでしょう。子供部屋も必要ですよね」
 どうやらこの不動産屋は郊外の豪邸を売りつけたいようだった。
「わかりました。希望に合うものがない、ということですね。ありがとうございました」レサはさっと立ち上がった。それに倣って僕も立ち上がった。
 店を出ると、レサは「商人根性丸出しでいやだわ」と呟いた。
 次に覗いた不動産屋は、間口は狭いが、店主の背中の戸棚にたくさんのファイルが立て掛けてあった。
「えーっと、街の中心部に近く、一部屋ピアノの防音室に改造されて、一部屋は絵を描ける広々とした洋室。その他に寝室が二つ。あるっちゃありますよ。ちょっと待ってくださいね」不動産屋の初老の男は背後の棚をあさり、いくつかのファイルを持ってきた。
「こちら、築三十年ですが、ツーバイフォー工法という地震に強い建築法がなされていて、造りはしっかりしております。この時代の家は最近のごちゃごちゃとした間取りとちがって一部屋一部屋が大きめになっております。もちろんリフォームも可能です。防音室も軽く入ると思います。なにせ古いので、お安いところが売りとなっております」
 レサは興味を引かれたようで、まじまじと間取り図を見ている。
「どうこれ?」ヒソヒソ声でレサは僕に訊いた。
「かなり広いね。もて余しそうだな」
「これから内覧ってできますか」レサはいきなりそういった。僕はびっくりして、「いま?」と思わず口にした。
「だってお手頃じゃない。教会にも近いし。あとは実物を見ないと」かなり乗り気だ。
「はい、可能ですよ。ご案内いたします。車を店の前へ着けますので、少々お待ち願いますか」
「はい」レサは元気よく答えた。

 結果からいってしまうと、案内された家は古いが洒落た洋風の造りの二階建てで、部屋も広く、庭までついていて、レサはすぐに気に入り、即決でお買い上げとなった。レサの手をつけていない有り余る貯金で、現金払いとなった。もちろん名義人はレサになる。
 全額レサが支払うのは申し訳ないといったが、これからの生活費を僕の絵で稼いでくれればいい、とレサはきっぱりといった。

 壁紙などのリフォームを施して、夏の真っ只中に引っ越しが決まった。先に天井の電気類を取り付け、エアコンを設置した。
 僕の方は小さなトラック一台分で済んだ。荷物なんてほとんどがキャンバスなどの絵の道具だ。デッサンなどをするデスクはそのまま持ち込んだ。
 僕が先に引っ越して、レサのピアノ教室のための防音室のリフォームを見届けた。玄関から近い和室が二間連なった奥のひとつをピアノ室にした。六畳間なのでかなり広い防音室になるということだ。窓を防音ガラスにして、遮音壁を打ち付け、防音扉を嵌め込む工事で、数日かかった。これを機に大きめのグランドピアノに買い換えたい、とレサがいうので、その搬入にも立ち合った。
 レサは二週間遅れで引っ越してきた。テレビや冷蔵庫などの家電製品を持ち込んだが、家具は置いてきた。二人の新しい門出になるのだ。家具も新しいものを選びたい、とレサがいったのだ。
 レサはあまり物を持っていない。洋服類もたいして数はない。ミニマリストなのだ。
 家具のない家は秘密基地みたいで、ダンボールの上で食事をしたりと、なんだか楽しく可笑しかった。
 夜は和室に布団を一枚敷いて、寄り添って眠った。
 
 日中に生徒が出入りすることに慣れるまでは時間が掛かった。レサ先生の新居、とあってか、家中を探検したがる子供も多かった。僕が台所でコーヒーを淹れていると、不思議そうな眼差しで見られた。
 土日になると僕らは家具屋を回った。量販店ではなく、こだわりを持つ個人経営の小さな店を調べて覗きにいった。イタリア製の丸テーブル。北欧製の椅子。フランス製のベッド。それぞれに味があり、僕らの意見も割れることはなかった。
 レサと亡くなった夫の家がその後どうなったのか、すこし気にはなったが、訊かないでおくことにした。レサもべらべらとしゃべりたくなんかないだろう。

 つくつくぼうしが鳴くころ、僕たちは日帰りでワイナリー見学に行った。
 目当てのワイナリーは小高い丘のブドウ畑に囲まれたところにあり、敷地が大きかった。建物の中には壁一面に商品のワインが並び、ワインのテイスティングができるテーブルもあった。
 地下の貯蔵庫は肌寒かったが、多くの樽が年代ごとのワインを熟成させていると案内人が説明してくれた。それから四種類のワインをテイスティングし、店内を回った。気に入ったワインを何本か見つけ、配送の手続きをし、ほろ酔いの中、ブドウ畑を散策した。
「十一月のレオの誕生日に、赤ワインを空けましょ。そしてスパークリングワインはクリスマス用。ねえ、どう?」レサの顔が上気していた。四種類のテイスティングワインで酔ったのだ。
「いいね。最高のクリスマスになりそうだ」
「ええ。わたしがチキンを焼くわ。あとチーズのリゾットも」
「じゃあ僕は鯛のカルパッチョを作るよ」
「すてき!」レサは僕の腕にしがみついた。

 なにもかもが順風満帆に思えた。怖いくらいだ。十二月のレサの夫の命日を過ぎれば喪も明ける。やっと彼の呪縛から僕らは解放されるのだ。子供をもうけ、家庭を作る。僕は絵を描きつづける。出版社から画集を出さないか、との打診もある。もうすこし絵に幅ができてから、と答えてはいる。
 レサを描いたシリーズの個展も開きたい。海外に向けて。それらが全部売れたら、レサは世界中に散らばるのだ。僕のレサが、世界を魅了する。なんて壮大な景色なんだろう。レサが僕に見せてくれる。
 いま、六十号のサイズのレサを描いている。個展の目玉になれば、と思う。裸の上に濃い紫色の布を身に纏い、身体をくねらせている。どこを見るでもないぽかんとした表情で、それは虚無をあらわしているように描く。タイトルは「死者への弔い」。いってしまうとそのままだ。いま、この一瞬しか彼女の内に見出だせない、その表情を切り取る。僕は彼女の夫の死さえも絵の材料として利用する。後ろめたさはない。レサが僕に見せる表情は、僕のものであり、もうかつての夫のものではない。
 僕らの暮らしは、きっと満ち足りたものになるだろう。そう、二人で作り上げていくのだ。これまで我慢して密かにそうしていたことを、堂々と。
 レサが生徒と笑っている。僕はかすかに漏れるピアノの音をバックに絵を描く。無音が欲しければドアを閉じればいい。それだけのことだ。
 
 夜はレサが夕食を作り、ワインで乾杯をする。すこしほろ酔いのレサをスケッチブックに描き留める。よく笑う彼女は、少女のようだ。抱いていると、ときどき罪悪感が生まれるほどの幼さを見せる。そんなレサもいずれは母になるのだ。信じられないが、それは必ず現実になるだろう。僕は我が子が母親に教わった、拙いピアノの音を聴きながらラフ画を描く。
 日曜日には、三人で礼拝に通う。庭に花を植えよう。それとブランコを作ろう。子供の小さな背中を押す。子供はきゃらきゃらと笑い声を上げる。ああ、そんな日々を僕は手に入れることができるのだ。誰かが僕を陥れようとしないかぎり、僕が手に入れるものは僕にとって意義のあるものばかりだ。誰にも奪えない。
 ここまで長い時間を耐えてきた。そしてその間、僕らは僕らだけの時間を大切に育んできた。ようやく神が許しを与える時がきたのだ。
 そうさ、誰も僕らを壊せない。そんな年月を僕とレサはこれから築き上げていくのだ。
 僕とレサの汗の果てに。
 そして、神の御心の成るがままに。

                   完

 

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