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人間になりたかったアメーバ その2

うつの回復期にいると自覚した私は、はやく次の生きものに進化したくてたまりませんでした。

しかし、物事はなかなか期待どおりにいきません。勇んでじゃんけんに挑んではボロボロに負ける日々が続いていました。

とある朝、私は泣き寝入りしていた布団をめくり、のっそり起きだしました。冷えた空気に鼻先がツンと痛みます。

「今日こそ勝つんだ!」

闘志だけは燃やしながら家を出て、門の内側からおそるおそる外をのぞいてみました。

すると、世界は「ますだくん」だらけでした。

「となりのせきのますだくん」という絵本を読んだことはありますか?

長いまつ毛にぱっちりした目でおかっぱ髪の女の子と、ずんぐりむっくりで緑色の怪獣がとなり合わせに座るイラストと聞けば、ピンとくるのではないでしょうか。

私は物語のキャラクターたちと同じ年頃に、初めてその絵本を読みました。あれから三十年近く経ちますが、いまだに表紙を頭の中で描けるほどはっきりと覚えています。

主人公である小学生のみほちゃんは、となりの席のますだくんが怖くて学校に行きたくありません。

2人で使う机のあいだに鉛筆で線を引いて「ここから出たらぶつぞ」とにらんできたり、みほちゃんが給食のにんじんを残すとはやしたてたり、ことあるごとにイジワルをしてくるからです。

絵本のなかで、ますだくんの姿は男の子ではなく怪獣として描かれています。もちろん本当は人間ですが、みほちゃんには図体が大きくて近寄りがたい存在に見えているのです。

昨日の景色からはまるで想像がつかない外の様子に、持ち上げた右足が空中で止まりました。でも、ここですごすご家に戻れば「負け」が決まってしまいます。眉間に力をこめて「エイヤッ」と心を奮い立たせ、門から一歩を踏み出しました。

薄い灰色の雲がぞろぞろと群れをなして空を隠していきます。右を見ても左を見ても自分とまったく違う緑色の怪獣と目が合うのは、なんとも居心地の悪いものでした。

私は何人もの「ますだくん」とすれ違うたびに、なにか咎められているような、どこか急かされているような気がして仕方ありませんでした。浅黒い霧のようなものが私の足にもんわりとまとわりつき、だんだん重たく感じてきます。

それでも負けたくない一心からなんとか歩き続けていましたが、とうとう動かせないほど身体がすくみ、立ち止まってしまいました。

後ろでちりりんとベルが鳴りました。反射でぱっと顔を上げ、あわてて道の端へ避けると、シャーッと軽快な音を立てて自転車が走りぬけていきます。キャップを被った男性のますだくんが乗っていて、すれ違いざまにジロリと睨まれました。

「約束はドタキャンするくせに、真っ昼間から出歩きやがって」

そんなことを言われた気がしました。私は首をすくめて前かがみの姿勢で歩き、目についた近くのコンビニに入ります。

棚のあいだを所在なくウロウロ歩き、おやつにでも食べようと、甘くて気分が落ち着きそうなパッケージのクッキーに手を伸ばしかけました。そこで品出しをする店員が目に入り、思わず二度見します。ちりちりパーマのおばさんなのに、またしてもますだくんの姿だったのです。

彼女は私の珍妙なものを眺めるみたいな視線を受け流し、カゴに入った新しい商品と共にこちらへ移動してきました。

「いい年して親に生活費なんかもらって。あんたのどこに好きなものを買う余裕があるの?」

そんなセリフが聞こえた気がして、喉元に小石が詰まったような感覚を抱きます。私は買いたかったクッキーをサッと棚へ戻し、退店のチャイムが鳴り始める前に立ち去りました。

家からコンビニまではたいした距離でもありません。しかし、帰り着くころには全力で100メートル走ったくらいの疲労を感じていました。

それから外へ出るのがおそろしく億劫になりました。日が経つにつれて、知らない人だけでなく、親しい人たちまで次からつぎへとますだくんになっていきます。

ひさしぶりに友だちと会っていても、ずんぐりむっくりの怪獣がとなりにいると思うとゆっくり息も吸えません。

「もう社会人になって10年ちかく経つんだね。いずれは結婚したいし、キャリアも考えないとなぁ」

小さなテーブルをくっつけて四人掛けにしたすき間が、物語に出てきた鉛筆の境界線のように思えました。友だちは私の体調を汲んで、こちらの最寄りにあるカフェまで来てくれていました。なのに、うらやましいほど充実した近況をもう聞きたくなくて、そのうち誘いを断るようになりました。

一緒に暮らしている家族も、ときどき口の端に大きな牙が生えているように見えました。不本意ながらといった表情で父や母に将来のことを尋ねられるときは、緑のギザギザがついた太くて長いしっぽが床をたしたしと叩く音も聞こえるようでした。

「普通に生活できているように見えるけど、いつ仕事を探すつもりなの?」

好きな製菓で自営業をしている妹や、新卒で会社に勤める弟とは違い、日がな家にいて成果もお金も得ることのない私を心配している気持ちは伝わってきます。けれど、それらは小石やまち針になって頭に降り注いできました。

唯一、心を落ち着けていられるのは布団の中だけでした。

私はいよいよ焦り始めました。知らない人であれば、もう関わらないように離れても差し支えはありません。でも、親しい友だちや家族には今まで築いてきた信頼という太い糸があります。同じように壁を作ることでこの糸を断ち切ってしまうのは、それまでの経験からあまりいいやり方ではないと気づいていました。

どうすればまわりが「ますだくん」にならなくなるんだろう?

私はその答えを探すために、あの物語をまた読んでみることにしました。


この記事は、倉園佳三さん・佐々木正悟さん主催「書き上げ塾 第七期」を受講して書いたものです。マガジン形式で更新していきます。

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