私とオキナワ

注)SPEEDの島袋寛子さんが似たようなタイトルのアルバムを出していますが一切関係ありません。

東京生まれJホップ育ちの私が、沖縄を初めて訪れたのは17歳の夏。ダイビングの免許合宿のため。合宿は4泊5日で、そのうち4日間は講習を受けるためにダイビングショップに缶詰。最終日はお土産買って帰るだけでした。
それでも透明な海、沈まない太陽、独特な町並み、広い基地と走り回る米軍車両が強烈に印象に残り、「いつかはこの街に住む」という予感めいたものが湧き上がってきました。

その翌年、修学旅行先は沖縄でした。2年も連続で沖縄に行けるなんて、やっぱり運命だ、神様は住むべきだと言っているに違いない、そんな思いがますます強くなりました。
しかし、修学旅行から帰らないわけにもいかず、県内の住宅情報誌と求人情報誌をお土産に、移住を夢想することで解消していました。

どうしたら沖縄に住めるのだろうか?答えはなかなか見つからず、大学受験の模試には沖縄の大学を志望校に記入してみたり、大学は行かずに沖縄で働こうか、などと様々なパターンを模索してみました。けれども、結局知らない土地に行く恐怖には勝てず、首都圏の大学に行くことになったのでした。もし、あの時に移住していたら人生は大きく変わっていたことでしょう。

さらに幾年が過ぎ、転職の度に移住を検討しましたが、経済的な不安や地元を離れる寂しさなどにより、結果的には断念してしまいました。情けないことにこんな具合でズルズルと月日は流れ、沖縄移住の情熱はすっかり治まっていました。

初めての沖縄から20年近く経った頃、沖縄出張の話が舞い込んできました。
夢にまで見た沖縄、しかも2ヶ月予定。その期間、会社のお金で沖縄に長居ができるのです。2ヶ月でもいい。沖縄に住めるんだ。胸の奥底にしまっていた沖縄への熱い想いがふわっと蘇ってきました。
「いつかはこの街に住む」やっぱりあの予感は本物だったのだと、柄にもなく人知れず興奮しました。結果的には、1ヶ月延長して3ヶ月間滞在することができ、時間をみつけては観光や探検などで過ごし、あっという間に沖縄移住体験は終了しました。

その出張期間中にクライアントとの関係値を強めつつ、社内でも沖縄事務所を立ち上げる動きが追い風となり、翌年には沖縄事務所を立ち上げるため。再び沖縄の地を踏むことができました。今度は無期限です。

社会人になって、いや、幼少期や学生時代を含めても、初めてまともな形で”人生のご褒美”を享受することができました。いっぺんにはご褒美を与えてくれないなんて神様も気を持たせますね。でもそのご褒美は、自らの力で信頼と足場を築いた成果だと自負はしていますよ。自分の頑張りと沖縄への熱い想いの結果、ついに念願の地へ移住することができました。

それから沖縄で約3年過ごし、様々な側面を見ました。もし、若い頃に熱病に浮かされた状態で移住していたら、青い海以外の沖縄の現実に幻滅していたかもしれません。
大人になった今、冷静に向き合える状態で沖縄移住させてくれたのは、神様が頃合いを見計らったのかな、なんて考えてしまいます。

その後は、2年間東京に戻りましたが、結局縁があって、また別のWeb制作会社の業務委託で、沖縄事務所の立ち上がりから一緒に携わることができました。

2度目の上陸が出来た今、最初に訪れた時、初めての長期滞在、移住を経て、当初ほどの熱量で沖縄を見なくなりました。ようするに慣れてしまいました。もうすぐ再上陸してから1年、長期出張の頃から7年が経過しています。沖縄だけで浮かれなくなったのは寂しくもありますが、それは、もう沖縄は夢の移住地ではなく、第2のふるさとに変わったことを意味しています。

最後に「死ぬまで沖縄に居るのか」と言われたら、それはわからないと答えます。ここ近年、海外旅行にハマったのですが、カンボジア、ベトナム、香港、マレーシア…訪れた国で「いつかはこの街に住む…かも」という予感めいたものを感じてしまったのですから。

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