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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第6話 帰省編(1)

巧の技

気が遠くなるような時間を費やし、あり得ない量の血と汗を流しながら、それなりの対価を払って初めて手に入れられるもの。
それが「巧の技」である。

それを簡単に手に入れようと、その価値を値引きする人がいる。
それは、その人の影の努力や目に見えない苦労を蔑ろにしているからこそ出来ることであり、それを手に入れる覚悟が足りない証でもある。

世の中そんなに甘いものではない。

僅か1%の成功を手に入れる為、残り99%もの失敗を受け入れる覚悟。その覚悟なくして何かを成すことなど不可能に近いからだ。

この物語は、そんな途方もない時間と血の滲むような努力を経て、石垣島に極真空手の道場を立ち上げた空手フリムンの「愛」と「感動」と「笑い多め」の物語である♡

 

自己流で空手を始めた今は無き極真八重山発祥の聖地

はじまりnoはじまり

今から32年前の1991年。2m100kgクラスの超大型外国人選手も出場する4年に一度の「極真世界大会」で、僅か165cm70kgの日本人選手が見事頂点に立った。

フリムン(当時25歳)が石垣島に帰省して直ぐの事である。東京に住む友人からその報せを受けたフリムンは、体を震わせながらこう呟いた。

「俺はいったい何やってんだ…」

主治医から「過度な運動は一生禁止」との最後通告を受け、自らも不可能だと諦めた武の道への探求。

片や体格のハンデを乗り越え、世界の頂点を極めた空手家。

その努力に比べれば、折れた足のハンデなんて言い訳の材料にもならない。衝撃を受けたフリムンは、自分の不甲斐なさに腸を煮えくり返した。

「ここでやらなきゃ死ぬまで後悔する…」

諦めかけていた夢を掴み取るため、心の奥底から湧き上がるマグマを解放する事にしたフリムンだが、石垣島には極真どころか直接打撃制空手の道場さえ皆無。

フリムンはどうしたものかと頭を抱えた。

とりあえず自宅(旧実家)の物置をトレーニングルームに改造し、昔取った杵柄を駆使して“自己流”で体を鍛える事にした。

「考えるより先ずは動く」…これがフリムンの真骨頂であり、いよいよその行動力が試される時がやってきたのだ。

八重山空手界に、“極真襲来”という大激震が起きる数年前の事である。

自己流時代

そうと決まれば話しは早い。早速フリムンは通販で筋トレ器具を購入し、とりあえず鈍った肉体の改造に取り組む事にした。

都会でのだらしない生活でマッチョマンと呼べるほどムキムキではなかったが、それでも肉体労働と自主トレで「一般ピーポー」よりは秀でていたフリムンの肉体。

効果は直ぐに表れた。

ただ、想像していたよりも遥かに下回っていた彼の筋力。

勝手に90kgは挙がるだろうと踏んでいたベンチプレスも、プルプル震えながら50kgを挙げるのが精一杯であった。これには流石に落胆した。

「いやマジここから始めなアカンの?」

先の見えない道の遠さに、フリムンは少しだけ心折れそうになった。

しかし、それから必死にトレーニングを積み重ね、当初50kgしか挙がらなかったベンチプレスも、努力の甲斐あって半年後には120kgを刺すまでに成長。

もちろん自己流なのでフォームはメチャクチャである。

それでも目に見える結果に味を占めたフリムンは、極真会館機関紙の「パワー空手」や、ボディビル雑誌「アイアンマン」などを参考に更に鍛錬を積み重ねていった。

仕事が終わると、毎日こんな感じで筋トレに没頭した(イメージ)

次に取り組んだのが、同じく通販で購入したキックミットを電柱に縛り付け、ミドルキック(中段回し蹴り)を中心にした蹴り込みであった。

とりあえず左右100本ずつをノルマとし、雨が降ろうが風が吹こうが毎日休まずに蹴り込んだ。

お陰でミドルキックは彼の得意技にまで昇格。

特にプレートの入っていない方の左ミドルは、後に幾人もの空手家を床に沈める事となる。

今は無き旧実家(左)と、その跡地に残された思い出の電柱(右)

ただ、道行く人に“変な人”と思われないよう、人が通る度に立ちションの芝居でやり過ごし、そして見えなくなると直ぐに練習を再開。

そんな事を一人で1年以上も続けた。まさに“情熱”の成せる業であった。

更に筋トレやミット蹴りの他に、拳やスネを鍛える砂袋(写真参照)にも挑戦した。

固い砂袋に拳やスネを打ち込む部位鍛錬(イメージ)

最初は痛すぎて10発~20発程度で心折れたが、次第に数は増えていき、それほど間を置かずに100本以上打ち込めるようになった。

もちろん、フルパワーである。

ただ、右足の脛は軽い衝撃でも激痛が走り、いつ折れてもおかしくない爆弾そのものだったので、フリムンは両拳と左足のみを鍛える事にした。

そうしている内に、徐々に砂の密度が増していき、砂袋はどんどんコンクリート化していった。

ここからは正に地獄の苦しみである。

叩いた拳やスネは紫色に晴れ上がり、次第に神経が壊れ始め、徐々に痛みを感じなくなっていった。

ちなみにフリムンには一つだけ試したい事があった。

極真や武道関連の媒体で、砂袋を叩き続けると“血尿”が出るとの報告が多数寄せられていた。

それを自らの肉体で、死ぬまでに一度は試したいと思っていた。

そう、フリムンにとっての極真の魅力とは、競技の範疇に収まらない“超人追及”にこそあったのだ。

よって、打撲や血尿もその過程と認識していた。

そして遂にその日はやってきた。

コンクリートのように固くなった砂袋を、何と全力で1000本蹴り込むことに成功したのだ。

「ゴツンッ」「ゴツンッ」と鳴り響く音に合わせるように、「アグッ」「ウグッ」と悲鳴を上げながら休むことなく蹴り込んだ結果、遂に血尿が出た。

フリムンは便器に溜まった“どす黒い”血を見ながら、「血ぃーーーー」と大声で叫んだが、それはあの「血ぃごーごー事件」の悲鳴とは異なる、“歓喜”の叫びであった♡

ちなみにフリムンにとって、この“1000”という数字は大きな意味を持っていた。

劇画「空手バカ一代」や、極真空手創始者大山総裁の「著書」などにもよく出てくるこの4桁の数字。

これこそが、極真が極真たる所以であったからだ。

スポーツ競技で反復練習をする際、一般的には“100”とか“200”という3桁の数字でも十分「特訓」と呼べる代物であるが、極真の世界では桁が一つ違っていた。

極真関連の媒体では、“1000”から“3000”という数字が当たり前かのように描かれていた。フリムンが極真の世界観に傾倒していった理由がそこにあった。

「これだけ稽古して強くなれない人なんていない」
「厳しさなら絶対に極真がダントツだ」
「俺だってこれだけやれば絶対に強くなれるはずだ」

この頃は、何をやるにも数をこなす事に重きを置いていたフリムン。

他にやり方を知らなかったというのもあるが、フリムンの無尽蔵の体力や気力も、このような無茶な稽古の賜物であるのは言うまでもない。

それから月日が経ち、今度は極真の黒帯でも成す者は極僅かと言われていた「ヒンズースクワット“連続1000回”」にも挑戦し、最後までやりきった。

当時の彼が、どれだけ本気だったかが分かるエピソードである。

とにかく何事もチャレンジしなければ気の済まない性格のフリムン。ただ、砂袋での血尿もスクワット連続1000回も、それっきり二度と挑戦する事はなかった。

何故なら、達成後のダメージが深刻過ぎて、暫く稽古する事ができなかったからだ。

フリムンは深く反省し、身の丈に合ったメニューに引き戻す事にした。

こうして始まったフリムンの自己流時代。

誰にも師事せず、たった一人で繰り返した地獄の日々。

これが自己流時代の全貌であり、この時代なくして今のフリムンは無いと言い切れるほど、貴重な貴重な時代であった。

次号予告

自己流で地獄の日々を歩むフリムンの身に起こるのは、ハッピー、約束、そして、究極の〇〇…
乞うご期待!!


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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