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高野文子 「美しき町」 余白とひろがり

*ネタバレ、というほどでもないですが、内容についてや終盤の描写やセリフなどが出てきます。

 高野文子はデビュー作からリアルタイムで読んでいて、本格的にファンになったのは「ふとん」か「玄関」あたりから。「るきさん」も「黄色い本」も好きだしが、一番好きな作品というと、この「美しき町」だろうか。
冒頭からいきなり美しい。絵もテキストも。

― タンクのてっぺんに、夕日があります。

 サナエさんが向こうから歩いてくる。少しずつ大写しになる。線路の向こうに見えるタンクと夕日。

 高野文子はもともと画力が非常に高い作家なのであるが、緻密に書き込むというタイプではもちろんない。空間的広がりを感じさせる大胆な構図。省略するところはして、余白を残す。描いてあるものだけで完結しているのではなく、読者の記憶や想像力で補完する余地を残している。これらはほかの作品にも共通していることだが、とくにこの作品では最大限にそれが生かされている

 さて、物語はお見合いで結婚したサナエさんとノブオさんの慎ましい生活、そんな日常に起こる、ささやかだが少しワクワクした出来事、ちょっとだけ困った出来事。
 これは時代設定は何年だろう。最初に雑誌で読んだ頃は服装や雰囲気からなんとなく最初は1950年代後半かな、と思ってたけど、彼らの家にはテレビがある。1960年の調査ではテレビの普及率はまだ50%に達していなかったようだ。サナエさんとノブオさんがそんなに早い時期からテレビを買うタイプとも思えないので、1960年代初期かな?
 読み返して8月のカレンダーがかかってるが1日が土曜日というのに気づいた。さっそく調べると、1960年前後で8月1日が土曜日というと1959年か1964年。テレビからはニュースが流れている。

― 秋の国体にそなえて市内はいまや大忙し
― 急ピッチでアスファルト化が進んでいます

というアナウンサーの声。
それに対しサナエさんは

― 駅前も舗装になるんでしょうね きっと
― ぬかるんで大変だったもの

と言っているが、1964年なら東京オリンピックの年、駅前はもう舗装してあるのではないだろうか。じゃあ、1959年。テレビはちょっと贅沢だけど結婚のお祝いも兼ねて買ったとか。いや、作者はそこまで考えてカレンダーを描いたのかどうかわからない。やっぱり1962、3年あたりが一番しっくり来るなあ。

  お隣の井出さん。彼は組合の集会で熱心に発言している。リーダーシップを取るタイプなのだろう。ほかのエピソードからもなんとなく体育会系のノリも感じられる。
 おそらくこの数年後には、持ち前のコミュニケーション力、もっといえば要領の良さ、調子の良さ、でトントン拍子に出世をし、組合とは対立する立場にいつの間にか登りつめていくだろうということは想像に難くない。ちょっと意地の悪い面も、この手のタイプはありがちだ。
 対するノブオさんは地味で目立たない、しかし実直な性格。おそらく要領も良くないのではないだろうか。あの下着の件も適当に返事しておけばよかったけどそうはしなかった。
 彼は表面的にはノブオさんのようなタイプを少し見下している節がある。せっかく面白いこと思いついたのに乗ってこない、クソ真面目で冗談の通じないやつ。そんなノブオさんを井出さんはなんとなく忌々しく思う。しかし本心では、外交的だが俗っぽい自分に比べ、周囲に惑わされずマイペース、ストイックで崇高ですらあるノブオさんに、嫉妬のようなものを感じているのではないだろうか。
 井出さんからの嫌がらせにも反論することなく、一見波風の立つことは避けそうだが、いざとなったら譲れないときは譲らない芯の強さもありそうにも見える。あくまでもこのあたりは想像だけど。
 このように絵だけだはなく物語においても、作品中で語られない部分までいろいろ想像してみたくなる余白と広がりがこの作品にはある。

 最後に近いシーンは秀逸。まだ暗い早朝、そのピンと張り詰めた静けさ、ガスコンロのコオォォという音、充満するインクの匂い、牛乳の温かさとクラッカーの歯ごたえ、それらすべて五感に訴えかけてくる。

― たとえば三十年たったあとで』
― 今の、こうしたことを思い出したりするのかしら

 30年もすれば彼方に忘れてしまうような些細なできごと。しかし確かに存在した時。作者はこの作品も「奥村さんのお茄子」「黄色い本」も同じテーマだという。どの作品にも、確かに存在した時、というのが描かれている。それが作者の言うそのテーマなのかどうかはわからないが。

 


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