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優秀作品

 世の中の表彰・賞というものについて、例えば芸術・文化だけをとっても多種多様のものが存在するが、この手のものの受賞者の決定の仕方がなんとなくうさん臭いと思っている。審査員による採点やその得票数なんかで『優秀である』と導き出される結果には今一つスッキリしないからだ。例えば音楽ならばCDの年間売上枚数で受賞作が決まれば明快なのだが、実際はそうではない。このように世の中は数値化できないものに対し、無理やり順位や優劣を決めようとすることで溢れている。でもこれは人為的な結果にもなりやすいのではないか。

《アカデミー賞》
 先日邦画『ドライブ・マイ・カー』が今年のアカデミー賞の国際長編映画賞という部門を受賞したニュースがメディアを賑わした。確かにコロナに沈む私たちにとっては、久々に明るい報せだった。しかしオスカーの受賞者は業界人の投票で決まるのである。私は受賞作決定までのプロセスを今回はじめて知って、なぁんだ・・・と小さくため息をついた。発表の時までどの映画が、また誰が受賞するのかわからないのは、面白いところでもあるのかもしれないし、だからこそ大騒ぎするのだろうが、これが単純に興行収入の競争であるならこんなに世界的に盛り上がるはずはない。
 受賞すればその栄誉に加え、知名度やギャラが上がるのだからみんなが喉から手が出るくらいほしいものであることは間違いないが、前述のようにオスカー像を手にする人や作品が決まるのは、審査員の好き嫌いの要素が大きいのである。
 芥川賞がどうしても欲しかった太宰のように懇願の手紙を書くにとどまらず、賄賂や接待というものが発生する可能性もあるのではないか?と下衆な私などは思ってしまう。いや失礼ながら。

《ノーベル賞》
 ノーベル文学賞では毎回ある日本人作家がファンの間で話題になるが、そもそも騒ぎすぎだと思う。医学生理学賞や物理学賞、また百歩譲って平和賞なら、実績を数値化できる部分もあるから考えられなくもないが、文学賞なんて人によって見方は全く違うだろう。『誰がどう考えても受賞はこの作品だ!』ということなど絶対有り得ない。先日のボブ・ディラン氏の受賞のどこに必然性があったのであろう? ボブ・ディランが受賞にふさわしくないと思っているわけではないが、これには誰かの意図的なものが加わったと見るのが普通だと思うのだがいかがだろうか。文学賞も他と同じく、単純に書籍の売り上げだけで決まるわけではない。好き嫌いや審査員それぞれの価値観によって受賞作が決定する極めて不透明な賞、それがノーベル賞だと思う。

《採点スポーツ》
 採点競技というものも、結局審査をする人間の好き嫌いが大きくものをいうと思っている。(新)体操、アーティスティック(シンクロナイズド)スイミング、空手の型などがいい例だ。上手い、優れているなどの評価は見る人によって違う。もちろん基本的な加点や減点ポイントなどはあるのだろうが、全審査員が同じ評価を下すどころか、場合によって大きく違う評点を付けられるという事実は、時の運や巡りあわせも受賞の大きな要素となっていることも否めない。

《カラオケ》
 歌の上手さを競うことは少し事情が違う。カラオケを歌って音程の正確さや加点要素を総合的に点数化して競争させるから、一見歌の上手さを定量化しているようにも思えるが、歌の上手さとは結局エンターテイメント性、すなわち人に与える感動の度合いなのであり、それは音程の正確さなんかで測れる訳がなく、感動を数値化することなどできない。だからあの点数は歌の上手さを測っているのではなく、点を取るための知識と技術を競うただのゲームだ。あそこに出てくる点数は、太鼓の達人などと同じくゲームの上手さでしかない。

 このように世の中の多くは人々の『印象や感覚』、またそれらの『多数決』で決まり、動かされている。古い話だが私は学生時代器械体操をやっていたが、競技大会において強豪校のコーチが自校の選手に下された得点に対し、イチャモンを付けてその点数を上げさせたのをしばしば見た。学生の競技会とアカデミー賞を同列に語ることはできないが、結局は根は同じだと思うのだが、世間では私のように、このことに釈然としないという方はいないのだろうか。

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