4:雨上がり

 結実がかつて知人と経営していたカウンターバーに、遵はクイーンサイズベッドを持ち込み、寝泊まりしている。
 二人が出会ったのもここが、ショットバーとしてBAR kineという店名で営業していた頃だ。バーテンダーとして勤務していた結実はその日、どこからか街に流れ着いた見ず知らずの男と、酒の力を借りて意気投合した。しかし、ひと晩飲み明かしたその日の次の夜も遵は来店し、その次の日も、どのような天気でも関係なく遵は通い詰め、それはこの店が閉業するまで続き、果てにはこの場所の主となったのだ。

 結実が直近のコインパーキングに駐車し、かつてのkineに戻ると、遵はカウンター席に腰掛け、ウイスキーが半分以上注がれたロックグラスを手にしていた。
「相変わらず品がない飲み方をするね、いい酒が泣いてるよ」
 結実は自分用に、今なお現役の業務用冷蔵庫に常備している、トニックウォーターの瓶を取り出しながら、遵とカウンター越しで向かい合う。
「お前もそれ、飲み方忘れたんじゃないのか?」
 ニヤニヤ笑いながら、グラスのウイスキーを煽る。
「ほら、これでもうシングルだろ」
 そう言って置いたグラスの隣に、懐紙が小さく折りたたまれた物があった。そのわざとらしい佇まいと、遵の表情から鑑みるに、今日の不気味な場所での奇妙な行いとこの物は関連している。  
 その上でこの不遜な男は、結実がそれに気づいた上で話題を持ち掛けるのを今か今かと待ち侘びて、その反応を肴に酒を飲もうとしているのだ。
 しかしそこで無駄に意地を張り合う結実ではなく、同時に今日は帰路から引き摺る酷い疲労感が拭えなかった。
「で、その紙は何だい。今日、私がやらされた事の説明も併せて頼むよ」
 2本目の瓶の蓋を開けながら尋ねると、遵は人差し指で包みを弾いてから話を始めた。


 雨降りの日に好んで外に居る人間は、おそらくは少数なのではないだろうか。人は自らの身に当たる雨を傘等の雨具で遮り、財産、食料を屋根壁のある住まいに引き込む。
 反面、雨は本質水であり、水は流れを生み、その流れが土壌を育て、命を巡らせる。
「僕たちの体内を巡る血も、その仕組みは水流に変わりない、と言える。」
 グラスの残りのウイスキーを飲み干し、ボトルから波波と注ぎ入れる。
「だから、降り続ける雨は、どころかしらでエラーが起きているし、連鎖的に綻びを誘発する。」
 それは結実につい先刻遭遇した怪異と、奇妙な違和感を想起させた。

「実は僕は、あの団地のあの棟に住んでいたことがあるんだ。」
 遵の突然の告白に、結実は本当に驚き、喉からフィッと空気が抜けるような変な音を出した。
「あの、化け物団地に?」
「まあ、今よりはマシだったかもしれないけど、他にだれも住んでいなかったよ、他には。ずっと。僕も勝手に潜り込んだだけだったし。」
 サラッと不法侵入、不法占拠していたホームレスだった過去を今知ってしまった。
「住んでいたのは、103。僕が待っていた部屋だよ。…あそこは雨が続くと、雨漏りがするんだ」
 ずっと包で指先があぞんでいる。
「1階なんだろう?雨漏りってどこから?」
 放り込まれた、大きめのロックアイスを指先で回しながら遵が呟いた。
「…上からだよ」
 何のため息だろうか。遵は息をついて、続ける。
「上階から、なんだけど。なんか日によって違うんだよ、移動する。」
 俯き、カウンターテーブルに、人差し指でぐるぐると大きく渦巻きを描きながら、話は続いた。
「その、移動するから、雨漏りのシミが残るんだけど。玄関から入って、部屋を大きく回りながら、ぐるぐる、ぐるぐる」
 俯いたままの遵の正面で、黙って話を聞いていた結実の背筋に、寒気が走った。店内を見渡すが、照明が暗くなった気さえする。
「で、その渦巻きが、完成する前にここに引っ越したんだよ」
 ふふっと笑いながら、懐紙に手を伸ばす。結実は二本目のトニックウォーターを飲み干し、瓶のコカコーラを開ける。
「引っ越しって、押しかけて、乗っ取ったんじゃないか」
 結実の悪態に、また同じようにふふっとだけ笑い、先程の話を続けた。
「で、今日あたりには完成してるだろうと思って。実は出てくるときに仕掛けてきたんだ」
 遵が懐紙を開くと、墨で描かれているのだろうか、紙の中心に大きく円が描かれていた。
「丸?」
「丸だね。」
 遵はニヤニヤして、懐紙の円を見つめている。
「渦巻きの最後の雨漏りを、これに閉じ込めてやって、持ち帰ってみたんだ。面白いだろ。」
 笑いながら、遵が自分に視線を移したのに結実はあえて気づかないふりをした。
「この紙、こんな濡れてんのに、墨は滲まないのか」
 懐紙の円は、筆で描いたそのままの質感で、一切の滲みも見られない。
「それはそういうもんなんだよ。墨じゃないから」
「へー…」
 感心しながら、その懐紙に描かれた、不思議な円に手を伸ばした。
「触らない方がいいよ、得体の知れない物にはさ。」
 跳ねられたように手を引くと、遵は楽しくて仕方ない、とでも言うようなニヤケ顔を向けて言葉を続けた。
「好奇心が猫を殺す、らしいしさ。」
「私の場合は、…君に巻き込まれなければ、ご長寿人生全うする予定なんだよ」
 結実の皮肉の何が気に入ったのか、そうだな、そうだな、などと言いながら機嫌良さそうに、自分は先ほどの怪しい懐紙を弄んでいる。
「確かに。結実は、僕とは違って生命力に溢れているね。」
 心底おかしそうに笑っている。遵の言い方、表情から、馬鹿にされているような気になってくる。
「だからこそ、今日のこれも出来たのかもしれないけど。」
 いい加減、核心を得ない言葉遊びの様な会話に辟易してきた。今日の恐怖心も薄れ、遵に対して徐々に怒りが湧いて来る。
「結局、あれは何だったの。私は何をやらされて、あそこで何があって、それは何なの」
 俄かに大きな声を上げた結実を、ニヤニヤと見上げ、グラスを飲み干す。
「あれは雨漏りさ。結実がやったのは儀式だよ、結実が部屋を回る事で、上階に居る物も全て一階におろして、閉じ込めた。」
 目の前の懐紙の円をくるくると、指先でなぞっている。
「これは呪具として使うんだよ」
 くるくる、くるくる、遵の指先が円をなぞり続けているのを見ていて、その円が実は一本線で描かれた物でなく、細い糸の様な物が一本に見えるほどに幾重にも重なっていることに気づいた。
「北東向きの、まあ鬼門だよね。鬼門から鬼が来て家の中うろうろされるから、逃げて、そしたら追いかけて来て、また逃げて。で最後に下で待ってたこれに収まったんだよ」
 ニコニコしてる遵の話を聞いて、頭の中で反芻してみる。…鬼。…鬼?
「私が鬼?」
 結実の呟きに、ニコニコしたまま遵が答える。
「なんで結実は怪異目線なんだ、おかしい奴だな。うん、でもそうだな、そう言う意味でも単なる鬼ごっこだよ。」
 そう言いながら、指先ではまだ不気味な円を、くるくる、くるくるなぞっている。
「鬼と恐れられた気分はどうだい?」
 




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