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時間はまがりくねっているのかもしれない中村達『私は諸島である』よむよむ

小学校4年生の頃に詩を書いた。それは時間についての詩で、私たちが今使っている時間というものは目に見えないシステムなのだから、誰かが「始めた」はずと考えていて、誰が始めたのだろうという疑問を持っていてそのことについて書いたのだ。母はそれを見て、不思議なことを考えるのね、と言った。私はもうちょっとすごいと思ってほしかったが、今思うと、そのことについて他に考えた人がいるはずだと思って調べなかった私もそこまでの人間だったと思う。でもこれは私にとってとても興味のある問題であり続けていた。

中村達『私は諸島である』という本を読んだ。西洋の理論だけで研究を積み上げようとする姿勢に批判的姿勢を取る著者の主張に惹かれて、面白そうだなと思ったので。カリブ海については、ほぼ知らないし、文学理論もほとんど知らないので私には難しい読書だけれど、でも面白いと思った。

私がカリブ海のことで知っていることは、ほとんどない。マイアミからのクルーズで立ち寄った経験(どの島かも思い出せないほどひどいので思い出しました。メキシコのコスメル島とホンジュラス領のロアタン島)、そしてアガサ・クリスティの『カリブ海の秘密』だけだ(ひどい)。『パイレーツ・オブ・カリビアン』は見たことあるけど。著者の中村はジャマイカにある、西インド諸島大学モナキャンパスで学び、博士号を取得する。この留学の経緯も最初に書かれていてそこもすかっとする。

カリブ海の人々を他者化する西洋帝国主義の時政学は、時間の直線性という認識に支えられている。『純粋理性批判』において、カントは「時間はそれ自体として知覚されえない」と述べ、「すなわちわれわれは、まったく外的な直観の対象でもない時間を、われわれが引いた一本の線のイメージでしか思い浮かべることができないということである。このような表現法なしには、われわれは時間を測定する単位をけっして認識できないであろう」と主張する*7。この時間の性格は、私たちの日常生活に染み込んでいる。私たちは時間というものを一本の線のような直線的なものとして想像する。そのおかげで、時間は時計やカレンダーといった形で分割され、それによって日数や分数、秒数といった単位で私たちは時間を認識することができる。この直線のようなものとしての時間の認識、もしくは時間の直線性は、普遍的な観念として私たちの日常生活に欠かせないものとなっているし、私たちもそれを当然のものとして受け入れている。

中村達. 私が諸島である カリブ海思想入門 (Japanese Edition) (pp. 120-121). 書肆侃侃房. Kindle Edition.

ああ!カリブ海ってもしかして違う時間軸で動いているという話なのかも、と思ってここでとても嬉しくなった。いきなり記憶が小学校に逆戻りし、時間についての詩を書いたことを思い出す。

でも、時政学という言葉がわからない。西洋帝国主義はわかるけど、時政学ってなんなんだろう。地政学というのもなんとなくわかる(つまり帝国主義的グローバリゼーションだろう?)と。でも時政学。もちろんちゃんと説明してくれていた。

人類学者ヨハネス・ファビアンは、名著『時間と他者』において、西洋による植民地政策が「地政学」だけでなく「時政学」(chronopolitics)にも基づいて行われていたと述べる。アフリカ、アジア、そしてカリブ海で行われた帝国主義的支配は、人々の空間のみならず、時間をも侵略の対象としていたのである。

中村達. 私が諸島である カリブ海思想入門 (Japanese Edition) (p. 118). 書肆侃侃房. Kindle Edition.

なるほど、この『帝国主義的支配は人々の空間のみならず、時間をも侵略の対象としていた』っていうところドラマティックだな。しかしヨハネス・ファビアンを知らなかった。日本では翻訳されていないみたいだし、人類学入門、とか勉強してないからな。カリブ海文化では時間とは直線ではない、それは西洋的帝国主義的な時間概念のカウンターとして描かれているのだそうだ。

「白のリズム」と「銅、黒、黄のリズム」という概念を導入し、帝国主義のリズムとカリブ海のクレオライゼーションのリズムの理論家を試みたベニーテス=ローホーは、カリブ海を「海の人々」が住まうメタ群島であり、そこで育まれた文化は陸のような固定化されたものではなく水のような流動的な文化であると語る。「白のリズム」である「行進や走行の足踏みのリズム、そして領土化のリズム」は、帝国主義による侵略や西洋文化の進歩主義の直線性を示す。「銅、黒、黄のリズム」は「海の人々」のリズムであり、「乱雑で不規則」である。そのリズムとともに生成される文化は「曲がりくねった文化であり、そこでは時間は不規則に展開し、時計やカレンダーの周期によって捉えられることに抵抗する*8」。まさに、歴史のクロノロジカルな図式に対するカウンターである。様々な人種や文化の混淆でクレオール化した時間は不規則であり、進歩や発展といった直線的な展開を拒絶するのだ。

中村達. 私が諸島である カリブ海思想入門 (Japanese Edition) (pp. 121-122). 書肆侃侃房. Kindle Edition.

このベニーテス=ローホーの時間概念を読んでいたら、きっと日本にもあったはずの時間概念について知りたくなった。著者も書いてはいないけど、たぶん調べたのではないかと推測。時間と他者の概念について日本でも、江戸時代までと明治維新以後でどのように変わったか分析してる本はどこかにあるのだろうけど知らない(内山節か?)。

でも著者のように考えれば日本だって、江戸から明治にかけての時間感覚の変化を分析することによって理論を発達させることができるのかもしれない。日本は政治制度という意味では、植民地化されたわけではないから、時政学とはとはちょっと違う理論ができるかもしれない。(植民地主義の内在化?)柄谷行人とか書いてそうな予感がしてきた。発見してるし、内面とか。それを考えると柄谷行人の『日本近代文学の起源』とかサイードの『オリエンタリズム』的な立ち位置の本ということになるのかもしれない。もちろん『オリエンタリズム』の流れであることは言及されている。

1978年にエドワード・サイードの『オリエンタリズム』が出版されてから40年以上経った現在でも、欧米の学術界を中心に発展したポストコロニアリズムは、カリブ海の学問への貢献を無視し、その地域的経験や歴史を雑種性という自分たちの用語に挿げ替えている。

中村達. 私が諸島である カリブ海思想入門 (Japanese Edition) (p. 20). 書肆侃侃房. Kindle Edition.

たくさんある引用文献をみるとカリブ海文学というのはほとんど邦訳がないのだなあと思う。きっと著者がこれから邦訳してくれるのだろうなと思い楽しみに待つことにする。

私は他にもこの本のカリブ海における言語についての章だとか、フェミニズムについての章がとくにおもしろかったのだが、やはり個人的に思い入れのある時間の概念について時政学を知ることができたところが嬉しかった。この本を読んでカリブ海文化の表象のされ方、クリスティの『カリブ海の秘密』やそれこそ『パイレーツ・オブ・カリビアン』とか、大好きなアメリカ人作家スワンソンがカリブ海の人々をどう書いてるか見てみるということもすごく気になってきた。


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