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東京でしかも渋谷でお茶をつくっていた事実!

このことを知らない人は多いことでしょう。
私ひさもお茶屋に勤めて、暫くして知った史実です。
鈴木雅之&菊地桃子さんの「今日は渋谷で5時~」みたいに
「今日は渋谷でお茶~」と言った人もいるとかいないとか。
時代が違い過ぎですね。年齢ばれるのでこれくらいにしておきます。

今回は、戦前の「渋谷茶」というお茶が栽培されていた歴史を軽~く深堀りしたいとおもいます。

渋谷スクランブル交差点
ここが戦前、農村地帯だったなんて。不思議な気持ちです

上喜撰って?

江戸時代、華の都 江戸では、静岡茶はまだ広まっておらず、宇治茶が有名でした。贈り物の箱などに「上喜撰(じょうきせん)」という単語をみたことがある人も多いと思います。

自分が載せておきながら、なんか腹立つ(# ゚Д゚)

嘉永6年(1853年) ペリー提督による浦賀への黒船来航(蒸気船)とかけた
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」
江戸幕府の慌てぶりを皮肉ったこの狂歌は有名ですよね。この上喜撰です。

緑茶の種別銘柄で、本来の銘柄名は「喜撰」。宇治茶を指しており、その中でも高級な宇治茶を「上喜撰」や「正喜撰(しょうきせん)」と呼んでいました。
この頃はまだ宇治の上喜撰は、江戸の身分の高い武士や寺院で重宝される高級茶で一般的ではありませんでした。
その後、宇治茶とは限らず、高級なお茶全般を「上喜撰」と表すようになります。

渋谷茶の始まり始まり

西の宇治茶に対して、東に日本茶として広まったのが「狭山茶」です。江戸の発展とともに需要が拡大。江戸周辺の農村地帯で栽培されるようになりました。
そこで渋谷に繋がります。狭山茶の影響を受けて、渋谷界隈でも元禄時代のころから栽培が広がり、近隣一般の人たちに「渋谷茶」は広まっていきました。ただ、技術や知識が当時は無かった為、地元周辺で消費される程度で、大衆的に広まることはありませんでした。

この渋谷一帯は、幕末まで徳川御三家の一つ紀州藩の下屋敷として存続しましたが、明治維新の煽りを受けて、一旦、明治政府の土地となり、
その後、明治9年(1876年)に佐賀藩鍋島家に払い下げされました。

ここで余談
紀尾井町(きおいちょう)は、州藩下屋敷でなく上屋敷、すぐ近くにあった徳川張家の上屋敷、譜代大名筆頭の彦根藩伊家の中屋敷があり、これら三家の頭の文字を取って、現在の紀尾井町の名前が付けられているのです。超お洒落な地名ですよね。

話戻って、広大な土地(現在の渋谷区松濤・神山町近辺)を紀州徳川家から

譲渡された11代当主の鍋島直大(なおひろ)と鍋島家一族は、この土地の有効利用として考えたのが茶畑にしてお茶の栽培を行おう、失業した藩士や藩士の家族の救済策にもつながると茶園経営の大事業を実行したのです。

若き頃の鍋島直大当主(Wikipedia)

鍋島直大は、幕末の戊辰戦争では政府軍として活躍。明治新政府の誕生後は軍制改革と海軍創設を説き、岩倉使節団としてアメリカに留学。その後、イギリスにも留学しています。慶應3年(1867年)パリ万博に有田焼を出展するなど、殖産興業にも務めた行動力ある人物だったようです。

鍋島家は、狭山から茶の木を移植して、茶畑を造り、「松濤園(しょうとうえん)」と名付けました。これが今や都内屈指の高級住宅地となった渋谷区松濤の地名の由来となるのです。

こんな風に名前が残るなんて、素敵ですよね。

ウォーリーを探せならぬ「茶」の字を探せ
明治初期の道玄坂周辺地図 国土地理院

またまた余談
松濤とはどういう意味でしょうか。主に2つの意味があります。
①松の梢を渡る風の音を波の音にたとえた言葉
②茶の湯の釜が煮え立つ音
茶の湯の釜がたぎる音を、松風と潮騒の音に例えた風流な呼び名です。
意味が分かると更に松濤の名の深みが増す気がします。

話戻って、その後、近辺の農民などにも栽培にあたらせたことで、お茶の生産量は増大。茶摘みや茶揉みは農家の子女が行うようになりました。
ここ松濤で作られたお茶は渋谷茶のなかでも特別で、
その名もズバリ「松濤」という銘茶として東京中に高級茶として知れわたるようになったのです。

そして明治18年(1885年)には山手線が渋谷に開通しました。
その当時は、人もあまり住んでおらず鉄道を敷きやすかったのが選ばれたのということです。
当時は武蔵野の田舎の農村の村にすぎなかった渋谷産のお茶が、これを機に大きく変貌を遂げつつあった日本橋や銀座、麻布、麹町などにも流通していきました。

渋谷茶葉の茶摘み写真。めちゃくちゃ貴重な1枚です
渋谷区郷土写真保存会 1986年撮影

渋谷茶の衰退

しかし知名度も人気も上がった渋谷茶の歴史は長くは続きませんでした。
明治22年(1889年)に東海道線が開通し、宇治茶や静岡茶やその他有名どころの茶葉が大量に東京に入ってくると松濤茶は売れなくなってしまいました。
明治37年(1904年)に鍋島家の茶園は幕を閉じ、茶畑は畑果樹園種蓄牧場 「鍋島農場」へと変わりますがそれも長くは続きませんでした。

大正に入り、鍋島家は住宅として区画整理し宅地開発を行い借地として供給しました。
昭和10年(1935年)の地籍台帳によると鍋島家の所有する土地は松濤町はじめ8町に渡り、計約82,600坪、東京ドーム5.8個分だったそうです。
東京ドーム何個分っていつも何故と思いながら使っています (;^_^A

時代が進むにつれて渋谷は、住宅地化しはじめ、やがて松濤の茶畑も高級住宅地へと変化していきました。
渋谷茶も茶畑も目にすることが無くなり、以前はお茶の産地だったことを知る人は時代とともに少なくなっていったのです。

残念ながら渋谷茶は途絶えてしまい、記録でのみ生きる産地茶となりました。
この戦前の短い間でも名を馳せた儚い「渋谷茶」のことを忘れることなく記憶の片隅に残していただけると嬉しい限りです。

散ったあと。。。

明治時代に華族となった鍋島候爵の邸宅は、湧水からなる池の周囲に周回道をつけ、岸の斜面に芝を植えて公園として整備され、大正13年(1924年)に児童公園として一般に公開しました。
現在も鍋島松濤公園は、地域市民から愛されています。

ライトアップした夜景もなかなか。ここが渋谷であることを忘れてしまいます

最後の余談
「忠犬ハチ公」の飼い主だった東京大学農学部土木教授の上野英三郎博士も現・渋谷区松濤1丁目に住んでいました。
上野教授が急逝された年が大正14年(1925年)ですから、ハチと一緒に散歩したこともきっとあると思います。
そんなことに思いを馳せつつ散策するのも、いいのではないでしょうか。

最後まで読んでくれてありがとワン

ひさ

ひさおすすめ渋谷界隈おすすめスポット

渋谷の散策後は、こちらも歩いていける「ななや青山店」へGO!世界で一番濃い抹茶ジェラートで至福のひとときを。ほうじ茶もおすすめ!
なんか宣伝みたいですいません。でもおススメです。

なんと、東京産和紅茶のCRAFT BREW TEAも発売決定!!!!
渋谷産ではないが、東京産だったら、イイと思う。
美味しいし。貴重だし。珍しいし。贈り物にも。土産物にも。

東京の風?を感じることができる香りと旨みがGOODです

そしてなんと、2022年10月1日発売の一報がこの記事を書いている最中に届きました!急いで追記しちゃいました。
ななや青山店、公式HPでも10月1日には購入できます。