カンパで購入した書籍、三田村武夫『東方会及東方同志会について』の簡潔な報告
皆さま、こんにちは。
吉成学人です。
以前のnote記事で自費出版の予告と新資料の購入のためにカンパを呼びかけました。おかげさまで該当書籍を購入できました。
購入後は料理をしたり、他の企画の手伝いや先月の地震の混乱でなかなか時間が取れませんでしたが、今回やっと該当書籍を通読できました。大雑把ですが、同書籍の位置づけと価値がみえてきました。
なので、今回は特別に読者の皆さまと内容を共有したいと思います。
同書の資料的な価値
まず、同書の資料的な価値を述べますと、私の卒論の結論を覆すような革新的な内容ではないことがわかりました。と云いますのは、同書で三田村が述べていることは他の資料でも確認可能だからです。とは云え、同書の資料的な価値は内容そのものよりも、敗戦後の占領期の三田村がどのような人脈を持っていたのかを教えてくれるので、他の資料を補完すると云う意味では大変貴重な資料と云えます。
同書の分析
最初に、同書の章立てを掲載します。(旧字体は新字体に改めた)
同書の全体的な性格としては非常に雑な作りになっているのがわかると思います。扉や目次、奥付けがなく、「第一章、何節…」と云うような章の区切りすら行なっていません。一般向けに刊行した書籍ではないことがわかります。
上記の章立てでは★をあえて付けましたが、実は三田村本人の論考はこの箇所しかありません。あとの文章は他の人が書いた文章か、戦時中での議会演説や声明書をそのまま転載しただけです。
また、頁の付け方が独特で、普通の書籍では頁一枚で1頁と番号がふられているのですが、同書ではなぜか頁二枚で1頁となっています。しかも、章が変わると、なぜか頁数がもとに戻って1頁目からはじまっています。
なぜそうなっているのか。実は、四番目の★をつけた章と証言書や証拠資料を記載した章の冒頭を読むとヒントがあります。
敗戦後に、三田村は戦争を煽った軍国主義者としてGHQから公職追放を受けています。冒頭の章で、かつて三田村が所属していた政治団体・東方会が国家主義団体ではない、と述べているのは自身にかかった戦争責任への弁明と云えます。なお、二番目の(註)で「昨年十月提出した書類には、これ以外に、マツカーサー元帥宛の陳情書の写し」としるされているので、同書が作成された年代がわかります。
三田村は、1948年6月30日に「占領政策に関する意見書」と題した文書をマッカーサーに提出しています。そう考えますと、「昨年」と云うのは1948年と云うことになり、同書が作成されたのは1949年になります。他にも、証言書及証拠資料の章で掲載されている文書群の作成年代が「昭和二十三年」ではじまり、「昭和二十四年」で止まっているので、同書の成立年代は1949年(昭和24年)だと云うことがわかります。もともと別個の複数の文書をパッチワーク的につなげていったのが同書と云うことになります。
同書で三田村は何を語っているのか
さて、では★をつけた章では三田村は何を語っているのでしょうか。
三田村本人が書いた章だけを再度掲載すると以下の通りになります。
まず、冒頭の第一章にあたる箇所で述べている「極端な国家主義」と云うのは敗戦後の40年代後半に一種の流行語になっていた「超国家主義」のことを指します。発案者は当時若手の政治学者で東大助教授の丸山眞男で、彼が1946年に岩波書店が発行している雑誌『世界』で発表した「超国家主義の論理と心理」と題した論文から広まった言葉です。同論文の中で丸山は日本が戦争に突き進んだ原因は近代的な価値観が浸透しておらず、国家権力と権威が一体となっていたからだ、と指摘しています。ヨーロッパ起源の近代文明は個人の内面的価値観を尊重しているのですが、戦前の日本では国家権力が個人の内面的価値観に介入していたことに触れ、政治権力と道徳的な正しさが渾然一体になっていたと云います。そのため主体的な個人が育たず、国家の名の下に私的な行為が正当化された、と云います。
個人の尊重が行なわれなかった戦前の日本では、道徳的な正しさの規範を天皇に求めたことになります。したがって、天皇に近い権力者に近づけば近づくほど、その人物に権威があったと云います。逆に、天皇と距離があればあるほど価値がないとみなされたわけです。丸山の議論は軍隊による上意下達な組織の秩序が一般社会でも同様だったと云います。丸山は大正時代に生まれ、学生時代に特高警察から取り調べを受け、自身も徴兵され軍隊生活を体験しています。丸山の議論は彼自身の実体験に基づいていたと云えます。
そんな国家主義の理屈が一度国内から国外の世界に適用されるとどうなるか。日本が世界の中心であると云う夜郎自大な主張になり、国際法を否定して日本自身が世界の秩序になろうと云う暴挙に走ったと云うわけです。
そんな丸山の議論に対して三田村はどのように反論したのでしょうか。同書の中では丸山の名前は直接出てきていませんが、「超国家主義団体に非ざる理由」と副題にしているので意識はしていたと思われます。
三田村は「超国家主義」を信奉する「団体」は以下のような思想を掲げていると主張しています。
三田村は「裁判所が下した定義」ではなく、あくまで自分の経験に基づいた定義であると留保しながらも、「極右団体」は上記のような思想原理を掲げていると述べ、自身が所属していた東方会は当てはまらないと主張します。三田村が意図的にやっているかはわかりませんが、丸山の議論とズレが出ています。丸山は特定の個人や団体の掲げている主義主張ではなく、戦前の日本社会を駆動させたイデオロギーを議論しています。社会科学で云うところのシステム論と云うわけです。一方で、三田村が述べていることは特定の集団が掲げている主義主張に過ぎないことがわかると思います。
両者の議論に差があるのは、東大助教授で新進気鋭の若手の学者と公職追放を受けて実質無職だったと云う境遇の他に、学者によるアカデミックな議論と警察官僚出身の政治家による具体的な政治的主張の差とも云えます。
次に気になった箇所は三番目に★を付けた章で、三田村がGHQから日本政府に提出した資料に不備があるのではないかと指摘しています。その一例で
戦後、GHQがNHKにラジオで放送させた番組『真相はかうだ』を取り上げています。戦中の日本では政府や軍に不都合な報道は検閲の対象とされ、一般国民は情報の統制をされていました。そのため、同番組は放送当時は大変好評を得て、視聴者からの質問に答える企画が出したそうです。
三田村が指摘しているのは1946年1月18日に放送された『真相はかうだ 質問箱 第一回』です。同放送の中で三田村を政界に招いた師であり、東方会のトップだった中野正剛が割腹自殺した理由についての質問に答える場面があります。なお、同放送はNHKのサイトで視聴可能です。
三田村は『真相はかうだ』の解説を以下のように要約しています。
(1)中野正剛は「個人主義政治家」
(2)日中戦争を「かたづけ」ようと主張し、東條英機と対立
(3)突然、国家主義者になった
(4)中野が逮捕されたのは昭和17年(1942年)で、同年に尾崎行雄も投獄されている
(5)中野救出のために東方会で東条暗殺の決死隊を組織するも未然に発覚して中野がその責任を追求されて自殺した
三田村は(1)と(2)はアメリカ大使館からの情報でファクトに基づいていると評価しています。一方で、(3)から(5)では日本政府からの資料でファクトに基づいていないと云います。三田村は中野が率いていた東方会は東条内閣と対立したことで、デマが吹聴されていたと主張しています。三田村はGHQに送られた資料を閲覧してはいないと留保しながらも、内務省か憲兵隊あたりが作成した資料ではないか、と指摘しています。
そもそも(1)の「個人主義者」から(3)の「国家主義者」に転向した理由が明示されていないことで、論理矛盾があるわけです。要するに、(1)(2)と(3)(4)(5)では別々の資料に依拠し、当時の事実確認をしないでそのまま情報を垂れ流しているのではないかと指摘しているわけです。
事実、三田村が指摘しているように時系列順でいけば、中野が逮捕されたのは昭和18年(1943年)で、前年は衆議院選挙が行なわれています。「憲政の神様」と称された大物政治家・尾崎行雄が逮捕された理由は選挙期間中に行なった演説内容が不敬罪に問われたからです。また三田村が最初に逮捕されて、そのあとに中野を中心に東方会のメンバーが一斉に検挙されたことで、組織は壊滅しています。この点では三田村の主張に理があります。
公職追放は日本政府から提出された資料に基づいて行なわれたわけですから、その資料に不備があれば追放した理由の根拠が薄れてきます。同書を読むと、40年代後半の占領期に三田村がどのような活動を行なっていたのかがわかります。同書を読むと、GHQに食い込むことで政界に復帰しようとした三田村の強い意志がすけてみえます。
同書を刊行した翌1950年に「コミンテルン陰謀論」を全面的に展開した『戦争と共産主義』を発表します。さらにその翌51年には晴れて追放解除されて、政界復帰をします。同書はそんな三田村の過渡期を示す重要な資料と云えます。
とりあえず、今回の報告は以上となります。
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なお、私は現在、マガジンで経済学者の安冨歩さんの著作の書評集「生を忘れるな」を長崎大学の技術員の野口大介さんと連載しています。よろしければ、フォローとサポートよろしくお願いします。
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