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カンパで購入した書籍、三田村武夫『東方会及東方同志会について』の簡潔な報告


 皆さま、こんにちは。

 吉成学人です。

 以前のnote記事で自費出版の予告と新資料の購入のためにカンパを呼びかけました。おかげさまで該当書籍を購入できました。


 購入後は料理をしたり、他の企画の手伝いや先月の地震の混乱でなかなか時間が取れませんでしたが、今回やっと該当書籍を通読できました。大雑把ですが、同書籍の位置づけと価値がみえてきました。

 なので、今回は特別に読者の皆さまと内容を共有したいと思います。

同書の資料的な価値


 まず、同書の資料的な価値を述べますと、私の卒論の結論を覆すような革新的な内容ではないことがわかりました。と云いますのは、同書で三田村が述べていることは他の資料でも確認可能だからです。とは云え、同書の資料的な価値は内容そのものよりも、敗戦後の占領期の三田村がどのような人脈を持っていたのかを教えてくれるので、他の資料を補完すると云う意味では大変貴重な資料と云えます。


同書の分析


 最初に、同書の章立てを掲載します。(旧字体は新字体に改めた)


一、東方会及東方同志会は、所謂「極端なる国家主義団体」ではない。 ★二、東方会及東方同志会は、なぜ右翼団体として取締の対象にされたてゐたか。 ★
三、日本政府から総司令部に提出した資料について★

・東方会所属の衆議院議員として三田村武夫が実際に行つて来た政治活動内容について★

・証言書及証拠資料
一、東方会の院内活動に関する証言及証拠
1.元翼賛政治会総務会長、前田米造氏証言書
2.元衆議院議員書紀長官、木村操氏証言書
3.西尾末広、水谷長三郎、三木武夫氏証言書
4.(西尾末広君除名反対)衆議院議員事務局証明書
5.(翼賛会予算反対)衆議院議員事務局証明書
6.推薦選挙反対、憲法政治擁護の質疑演説速記録
7.独裁政治反対、議会政治擁護の質疑演説速記録
8.読売新聞社政治部橋本文男氏他七名証明書
9.翼賛政治会脱退に関する声明書

二、東方会及東方同志会の性格に関する証言及資料
10.元司法省刑事局思想課長大田耐進氏証言書
11.元東京地方検事局長思想部長中村登音夫氏証言書
12.元警視庁特高部長、永田文男氏証言書
13.元警視庁特高第二課主任警部、増田銀二氏証言書
14.元警視庁特高第二課係長宮長元春氏証言書
15.元司法省刑事局長、池田克氏証言書
16.森正蔵著「旋風二十年」抜萃
17.雑誌「実業之日本」記事抜萃
18.総司令部民間情報教育局編「真相はかうだ」抜萃
19.日本放送協会証明書
20.中野正剛、安部磯雄共同声明
21.東条内閣に反対したという理由で逮捕された東方会(東方同志会)会員及その経過

三、三田村武夫の思想及身分に関する証言及資料
22.元拓務省次官、坪上貞二氏証言書
23.元拓務省管理局長、生駒高常氏証言書
24.毎日新聞社編集局佐藤三郎氏外二名証言書
25.元衆議院議員木村武雄氏証言書
26.元在郷軍人連合分会長河村市之衛氏証言書
27.元岐阜地方検事、澤登定雄氏証言書
28.警視庁刑事部長証明書
29.東京拘置所証明書
30.元東京地方検事局検事、桃澤全司(原文ママ)証明書
31.元東京刑事地方裁判所裁判所裁判長八木政雄氏証言所
32.衆議院事務総長証明書


 同書の全体的な性格としては非常に雑な作りになっているのがわかると思います。扉や目次、奥付けがなく、「第一章、何節…」と云うような章の区切りすら行なっていません。一般向けに刊行した書籍ではないことがわかります。



 上記の章立てでは★をあえて付けましたが、実は三田村本人の論考はこの箇所しかありません。あとの文章は他の人が書いた文章か、戦時中での議会演説や声明書をそのまま転載しただけです。
 また、頁の付け方が独特で、普通の書籍では頁一枚で1頁と番号がふられているのですが、同書ではなぜか頁二枚で1頁となっています。しかも、章が変わると、なぜか頁数がもとに戻って1頁目からはじまっています。

 なぜそうなっているのか。実は、四番目の★をつけた章と証言書や証拠資料を記載した章の冒頭を読むとヒントがあります。


(註)本項は先の公職資格訴願委員会に提出するつもりで作成した特免申請理由書と同一内容のものであるが、感ずるところがあつて未提出のまま手許にあつたものである。但し、委員会閉鎖後(昨年十月)内閣官房監査課と法務府特審局に同一内容の原本が提出してある。

東方会所属の衆議院議員として…


(註)この証明書及証拠資料は昨年十月内閣官房監査課と法務府特審局に提出した原本の写しである。尚昨年十月提出した書類には、これ以外に、マツカーサー元帥宛の陳情書の写しその他多数の資料が添付してある。

証言書及証拠資料


 敗戦後に、三田村は戦争を煽った軍国主義者としてGHQから公職追放を受けています。冒頭の章で、かつて三田村が所属していた政治団体・東方会が国家主義団体ではない、と述べているのは自身にかかった戦争責任への弁明と云えます。なお、二番目の(註)で「昨年十月提出した書類には、これ以外に、マツカーサー元帥宛の陳情書の写し」としるされているので、同書が作成された年代がわかります。
 三田村は、1948年6月30日に「占領政策に関する意見書」と題した文書をマッカーサーに提出しています。そう考えますと、「昨年」と云うのは1948年と云うことになり、同書が作成されたのは1949年になります。他にも、証言書及証拠資料の章で掲載されている文書群の作成年代が「昭和二十三年」ではじまり、「昭和二十四年」で止まっているので、同書の成立年代は1949年(昭和24年)だと云うことがわかります。もともと別個の複数の文書をパッチワーク的につなげていったのが同書と云うことになります。




同書で三田村は何を語っているのか


 さて、では★をつけた章では三田村は何を語っているのでしょうか。

 三田村本人が書いた章だけを再度掲載すると以下の通りになります。


一、東方会及東方同志会は、所謂「極端な国家主義団体」ではない。
二、東方会及東方同志会は、なぜ右翼団体として取締の対象にされてゐたか。
三、日本政府から総司令部に提出した資料について
・東方会所属の衆議院議員として三田村武雄が実際に行つて来た政治活動内容について


 まず、冒頭の第一章にあたる箇所で述べている「極端な国家主義」と云うのは敗戦後の40年代後半に一種の流行語になっていた「超国家主義」のことを指します。発案者は当時若手の政治学者で東大助教授の丸山眞男で、彼が1946年に岩波書店が発行している雑誌『世界』で発表した「超国家主義の論理と心理」と題した論文から広まった言葉です。同論文の中で丸山は日本が戦争に突き進んだ原因は近代的な価値観が浸透しておらず、国家権力と権威が一体となっていたからだ、と指摘しています。ヨーロッパ起源の近代文明は個人の内面的価値観を尊重しているのですが、戦前の日本では国家権力が個人の内面的価値観に介入していたことに触れ、政治権力と道徳的な正しさが渾然一体になっていたと云います。そのため主体的な個人が育たず、国家の名の下に私的な行為が正当化された、と云います。


我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されてきたことが未だ嘗てないのである。(略)従って私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。(略)「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なものと合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。

丸山眞男(古矢旬編)『超国家主義の論理と心理 他八編』岩波文庫、2015年、18-19頁。


 個人の尊重が行なわれなかった戦前の日本では、道徳的な正しさの規範を天皇に求めたことになります。したがって、天皇に近い権力者に近づけば近づくほど、その人物に権威があったと云います。逆に、天皇と距離があればあるほど価値がないとみなされたわけです。丸山の議論は軍隊による上意下達な組織の秩序が一般社会でも同様だったと云います。丸山は大正時代に生まれ、学生時代に特高警察から取り調べを受け、自身も徴兵され軍隊生活を体験しています。丸山の議論は彼自身の実体験に基づいていたと云えます。
 そんな国家主義の理屈が一度国内から国外の世界に適用されるとどうなるか。日本が世界の中心であると云う夜郎自大な主張になり、国際法を否定して日本自身が世界の秩序になろうと云う暴挙に走ったと云うわけです。

中心的実体からの距離が価値の基準になるという国内的論理を世界に向かって拡大するとき、そこには「万邦各々其の所をえしめる」という世界政策が生まれる。「万国の宗国」たる日本によって各々の国が身分秩序のうちに位置づけられることがそこでの世界平和であり、「天皇の御稜威が世界万邦に光被するに至るのが世界史の意義であつて、その光被はまさしく皇国武徳の発現として達成せられるのである」(佐藤通次『皇道哲学』〔朝倉書店、一九四一年、三九三頁〕)。従って万国を等しく制約する国際法の如きは、この絶対的中心の存在する世界では存立の余地なく、「御国の道に則つた、稜威のみ光が世界を光被することになれば、国際法などありえない」(「座談会、赴難の学」『中央公論』昭和一八年一二月〔九〇頁〕)ということになる。

丸山、同書、35-36頁。


 そんな丸山の議論に対して三田村はどのように反論したのでしょうか。同書の中では丸山の名前は直接出てきていませんが、「超国家主義団体に非ざる理由」と副題にしているので意識はしていたと思われます。
 三田村は「超国家主義」を信奉する「団体」は以下のような思想を掲げていると主張しています。


一、思想的には所謂「国粋主義」を基調とし、天皇制絶対の国体至上主義、日本民族の優越性の上に立つた独善的排他主義を主張
二、政治的には、自由主義、民主主義の基礎の上に立つ議会政治を否定した権力専制主義、即ち主権国家の権力至上主義を支柱とした官治主義であり、従つて政党対立を認めない独裁主義
三、目的のための手段即ち方法論に於ては所謂「衆愚論」の上に立つた直接行動主義即ち「正義の暴力」を肯定するもの

三田村、「東方会及東方同志会は、所謂「極端な国家主義団体」ではない。」『東方会及東方同志会について』、5頁。


 三田村は「裁判所が下した定義」ではなく、あくまで自分の経験に基づいた定義であると留保しながらも、「極右団体」は上記のような思想原理を掲げていると述べ、自身が所属していた東方会は当てはまらないと主張します。三田村が意図的にやっているかはわかりませんが、丸山の議論とズレが出ています。丸山は特定の個人や団体の掲げている主義主張ではなく、戦前の日本社会を駆動させたイデオロギーを議論しています。社会科学で云うところのシステム論と云うわけです。一方で、三田村が述べていることは特定の集団が掲げている主義主張に過ぎないことがわかると思います。
 両者の議論に差があるのは、東大助教授で新進気鋭の若手の学者と公職追放を受けて実質無職だったと云う境遇の他に、学者によるアカデミックな議論と警察官僚出身の政治家による具体的な政治的主張の差とも云えます。

 
 次に気になった箇所は三番目に★を付けた章で、三田村がGHQから日本政府に提出した資料に不備があるのではないかと指摘しています。その一例で
戦後、GHQがNHKにラジオで放送させた番組『真相はかうだ』を取り上げています。戦中の日本では政府や軍に不都合な報道は検閲の対象とされ、一般国民は情報の統制をされていました。そのため、同番組は放送当時は大変好評を得て、視聴者からの質問に答える企画が出したそうです。
 三田村が指摘しているのは1946年1月18日に放送された『真相はかうだ 質問箱 第一回』です。同放送の中で三田村を政界に招いた師であり、東方会のトップだった中野正剛が割腹自殺した理由についての質問に答える場面があります。なお、同放送はNHKのサイトで視聴可能です。



 三田村は『真相はかうだ』の解説を以下のように要約しています。

(1)中野正剛は「個人主義政治家」
(2)日中戦争を「かたづけ」ようと主張し、東條英機と対立
(3)突然、国家主義者になった
(4)中野が逮捕されたのは昭和17年(1942年)で、同年に尾崎行雄も投獄されている
(5)中野救出のために東方会で東条暗殺の決死隊を組織するも未然に発覚して中野がその責任を追求されて自殺した


 三田村は(1)と(2)はアメリカ大使館からの情報でファクトに基づいていると評価しています。一方で、(3)から(5)では日本政府からの資料でファクトに基づいていないと云います。三田村は中野が率いていた東方会は東条内閣と対立したことで、デマが吹聴されていたと主張しています。三田村はGHQに送られた資料を閲覧してはいないと留保しながらも、内務省か憲兵隊あたりが作成した資料ではないか、と指摘しています。
 そもそも(1)の「個人主義者」から(3)の「国家主義者」に転向した理由が明示されていないことで、論理矛盾があるわけです。要するに、(1)(2)と(3)(4)(5)では別々の資料に依拠し、当時の事実確認をしないでそのまま情報を垂れ流しているのではないかと指摘しているわけです。
 事実、三田村が指摘しているように時系列順でいけば、中野が逮捕されたのは昭和18年(1943年)で、前年は衆議院選挙が行なわれています。「憲政の神様」と称された大物政治家・尾崎行雄が逮捕された理由は選挙期間中に行なった演説内容が不敬罪に問われたからです。また三田村が最初に逮捕されて、そのあとに中野を中心に東方会のメンバーが一斉に検挙されたことで、組織は壊滅しています。この点では三田村の主張に理があります。




 公職追放は日本政府から提出された資料に基づいて行なわれたわけですから、その資料に不備があれば追放した理由の根拠が薄れてきます。同書を読むと、40年代後半の占領期に三田村がどのような活動を行なっていたのかがわかります。同書を読むと、GHQに食い込むことで政界に復帰しようとした三田村の強い意志がすけてみえます。
 同書を刊行した翌1950年に「コミンテルン陰謀論」を全面的に展開した『戦争と共産主義』を発表します。さらにその翌51年には晴れて追放解除されて、政界復帰をします。同書はそんな三田村の過渡期を示す重要な資料と云えます。

 とりあえず、今回の報告は以上となります。


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 なお、私は現在、マガジンで経済学者の安冨歩さんの著作の書評集「生を忘れるな」を長崎大学の技術員の野口大介さんと連載しています。よろしければ、フォローとサポートよろしくお願いします。


 

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