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「本当の人生を生きるための論語」を視聴したあとに、中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』を読んで思ったこと


 先日、マガジンを共同で運営している長崎大学の技術員の野口大介さんからYoutube番組の一月万冊から発売されている有料動画「本当の人生を生きるための論語」を勧められ、購入代金を振り込んでもらったので、視聴した(以下、論語動画と省略する)。

 内容は、東大教授で経済学者の安冨歩氏が番組ホストの清水有高氏と対談する内容で、全部で10時間ほどである。
 主題は、タイトルの通り、中国の古典の論語である。安冨氏は2012年にちくま新書から『生きるための論語』と云う本の他、ディスカバリートゥエンティワンから『超訳 論語』を刊行している。
 安冨氏は西洋的な倫理のあり方が現在の学問や思想を大きく規定していると云う分析を『生きるための経済学』以後、繰り返し指摘している。その倫理の根底にあるのは、どちらか二つの選択肢を「自由意志」によって「選択」し、その結果生じた「責任」を引き受けると云う「選択と責任」である。一方で、論語をはじめとした東アジア圏の倫理のあり方は「自由意志」や「選択と責任」を前提にしていない。
 詳しくは、論語動画を一月万冊から購入して確認していただきたい。有料動画なので、あまり詳細な内容を記事にすることはできないが、私なりに感じたことを以下書いていきたいと思う。


悪い組み合わせ


 私は、論語動画が「本当の人生」と銘打っているのは、現代日本人は知らずしらずのうちに、日本的な倫理の上に西洋的な倫理を乗せている環境で暮らしていることを自覚すべきだと云うことだ、と理解した。日本的な倫理のあり方は安冨氏が「立場主義」と呼んでいるものと云える。人間は人生において「立場」を守ることを至上とみなすことで、立場を守れば「役を果たした」と評価され、立場を守らなければ「役立たず」として糾弾される。そう云う立場に基づいた倫理の上に、当然だが西洋的な倫理である「選択と責任」「自由意志」は組み合わせが悪い。
 動画内で、清水氏はそう云う二つの相反する倫理を受け入れないといけない環境は「複雑骨折だ」と形容している。安冨氏はそもそもそう云う二つの相反する倫理を受け入れることは不可能で、最終的に人生に「悲劇」を招く結果になると指摘している。
 安冨氏は動画内で、西洋の悲劇と江戸時代の悲劇を比較しながら、現代日本人は江戸時代的な悲劇の世界の上に、西洋的な悲劇の世界を生きているのではないかと述べており、それ自体が「悲劇」だと云う。そう云う悲劇的な構造を抜けるために、論語の倫理を理解すべきだと云うのが大ざっぱな動画の趣旨だと思う。
 ポストモダンで云うところ、「脱構築」や「相対化」であり、手法としては珍しくはないが、西洋の思想を押さえた上で、中国古典や江戸時代の悲劇に話を持っていくのが新鮮だった。
 では、本当の人生を生きるためにはどうしたら、良いのだろうか。


答えがないことを理解する


 実は、動画をみてもそれに対する答えはない。と云うよりも、原理的に不可能だ。それは各人が置かれている状況は大きく異なっており、動画を購入したからと云って、状況が一変するわけではない。むしろ、問題を起こしている構造の背景を理解することが重要と云うわけだ。一月万冊では、最近、安冨氏の別動画「東大教授が語る世の中の真実」ではより具体的なかたちで、現代社会を駆動させている原理を解説している。やはり、倫理や悲劇の話はどうしても思想書や文学書の話が多く、慣れない人にとっつきづらい。
 立場主義的な倫理と西洋的な倫理が混在している中で、本当の人生を生きるのは難しいが方法がないわけではないことを論語動画は伝えようとしていると云える。


我が身を振り返ると…


 では、現代日本の悲劇とはどう云うものだろうか。

 私は動画を視聴し終えたあと、考えた。何かを選択したら、その結果を引き受けないといけないが、同時に立場にある役を果たさないといけない。

 私は大学を卒業したあと、日本にいるのが嫌で海外で暮らしたいと考えたが、コロナ禍により海外渡航ができず、仕方がないので収入を求めて求人に応募しまくったが、職歴がないので落ちまくり、最終的に体調を崩した。
 その後、メルカリでの転売や代読ダイアローグと云った自営業で糊塗を凌ぐかたちで現在に至っている。正直云うと、選択をした感はない。時代の流れに流されただけだと感じている。もともと親しい友人も少なかったので、外出をせずに誰とも話さないで何週間も過ごすことがある。
 今思うと、私がみてきたありとあらゆる組織は耐用年数が過ぎており、そこに所属する人たちは悲劇の世界の住人だったのだと思う。そう考えると、謎の悲壮感があったのが理解できた。大学時代に所属していたゼミのメンバーたちが就活に向かう姿が特攻に行く兵士と重なってみえたのは偶然ではなかった。
 ちなみに、私は某就労支援施設の求人ではあてにならないと感じ、派遣にも登録しまくったが、こちらも面接で落ちまくった。ネットでは「派遣は福祉」と云う言説を説いた記事があったが、考えてみると派遣は派遣であって、公的な福祉ではなく、記事を書いた人も一度就職している。一度も雇用されたことがない私を派遣先がこのコロナ禍の不景気で雇うと判断するのは無理がある。
 必要だったのは、コミュニケーションであり、生活を成り立たせる技術だったと思う。そして、残念ながら、私はそう云う能力はほとんど身についていなかったし、それを焦点にした支援もなかった。なので、あっと云う間に困窮した。

 おそらく、ほとんどの人はそうなりたくないから、特攻隊のような覚悟で就職し、仕事に邁進しているのだと思う。もっとも、インターネットが普及する現在において、そう云う仕事のあり方は急速に意味を失い、大した結果を生み出さないことも事実であるが。
 先日、地元のローカルニュースでかつて私が派遣登録した会社のアルバイをしていた男性が知人女性と交友関係のある男性の個人情報を引き出した事件が報じられた。




 派遣登録で「事務職希望」とした人ならわかると思うが、現在、ワクチン接種関係の仕事のメールが頻ぱんに届く。地方になれば、公務員の人員も足りないので臨時で多くの人を雇おうとする他、派遣企業に委託しようとする。私は今だに理解できないのだが、派遣先と派遣企業で同じ業務をしながら、組織は別と云うことだ。
 今回の場合、ワクチン接種の業務を仙台市が派遣企業へ業務委託していたそうだが、ワクチン接種の仕事は市ではなく、派遣企業が担っていることになる。そうなると、市はワクチン接種で仕事をしていないので、何ら責任を負っていないようにみえるが、事件が起きたことを謝罪している。結局、市だけではワクチン接種業務を行えないので、派遣企業と協力したと云うことになるがそうなれば情報管理が厳しくなるのは目にみえている。まして、人員を増やせば不特定多数の人間に個人情報がアクセスしやすくなってしまう。
 ローカルで起きた小さな事件だが、同様の悲劇は全国で多発しているのではないかと思う。確かに、こんな状況では本当の人生を生きるのは難しいかもしれない。


もう一つの事例、『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』を読んで


 そんなとき、前から気になっていた本を読んだ。
 政治学者の中島岳志氏の『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版、2011年)だ。以前、本屋で立ち読みしたがどうしても購入できなかった。

 本書の主人公は、加藤智大。

 青森県出身の派遣労働者で、2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人で、死刑判決を受けて現在、服役中。
 私は当時、こどもだったのでリアルタイムの記憶はない。しかし、事件後も後何度も繰り返し報道され、平成を代表する無差別殺傷事件となった。事件の主犯である加藤は当時25歳の若者で、インターネットの匿名掲示板に犯行声明を投稿していた。当時はリーマンショックによる不況下での派遣労働者を企業が解雇する流れに対する批判があり、70〜82年に生まれでバブル崩壊後に社会人になった「ロスジェネ世代」と加藤は重なっていた。

 インターネット、派遣労働者、ロスジェネ世代。

 バブル崩壊後に正社員で雇用されずに、派遣労働者になって困窮する若者がリアルな関係を構築できずに、インターネットにのめり込むも、不満をつのらせ、無差別殺傷事件を引き起こす。

 そんな見取り図のようなものが漠然と出来上がっていた。

 しかし、本書を読むと、事件を起こした加藤の道のりは平坦ではない。もっと云うと、加藤がどうして事件を起こしたのか、読んでいて納得がいかない。


 彼は、事件の直接の動機を〈掲示板でのなりすましや荒らしを行う人へのアピール〉だという。「自分が自分に帰れる場所」「大切な居場所」と考えた掲示板。そこには自分のニセ者が現れ、大切なネット上の人間関係を荒らしていく、彼らにはそのような行為をやめるよう警告しても、聞き入れようとしない。掲示板の管理人も書き込み禁止の措置をとってくれない。それがどうしても許せなかったのだという。彼は、事件を起こすことで「本当にやめてほしかったことが伝わると思っ」たという。
 加藤は、子供の頃からの「自分のものの考え方」を次のように表現する。

  言いたいことや伝えたいことをうまく表現することができなかった。言                           葉ではなく、行動で示して周りに分かってもらおうという考えでした。

 彼はこのような「自分のものの考え方」によって、不満を持っていることを相手に知らせるための「行動」を起こし、「アピール」することを繰り返してきたという。そして、今回の事件も、そのような自分の生来の行動パターンによって引き起こされたのだという。(12-13頁)。


 中島氏は事件を起こすまでの加藤の生涯を徹底的に調査した。父親は金融機関に勤めていたサラリーマンで、母親は専業主婦の家庭に育った加藤は、裁判でこども時代の母親の厳しいしつけについて語っていたと云う。家庭の中で閉じ込められた鬱屈をこどもにぶつけていたと云う。加藤の両親はともに高卒で、息子を大学に進学させたく、勉強に打ち込むようにしたかったと云う。

 確かに、Youtubeをみると加藤が母親から虐待を受けながら、育ったと云うような内容の動画が多数存在するし、当時の報道でも盛んに云われていた。ただ、最終的に加藤は青森県内で有名な進学校に入るも、勉強をしなくなり、大学は岐阜県の自動車専門学校に進学した。もっとも、そこの寮でトラブルを起こし、勉強もろくにしなかったため、資格が取れず、進路も決まらず、そのまま卒業する。
 その後、仙台に住んでいた友人のもとに転がり込み、仙台の警備会社に就職するも人間関係のトラブルから仕事を辞めてしまう。その後、派遣に登録し、全国を転々とする。その間、ネットの匿名掲示板に入り浸るようになる。

 読んでいて思うのは、加藤はけっこう普通の人で、友だちが複数いて、女性との交際もあり、仕事もそれなりにこなしており、ネットで知り合った人と会うためにわざわざ遠方に出向いたりしていることだ。それはフィクション作品で描かれている無差別殺人犯のようなわかりやすい異常者でも心の闇を抱えている人ではなかった。むしろ、同年齢の私よりも心身が健康だったではないかと思ってしまう。

 しかし、そんな加藤はやがて無差別殺人を起こしていく。きっかけは職場のつなぎがなくなったことで勝手に解雇されたと思ったこと(実は、つなぎはあった)と匿名掲示板で加藤のニセ者が現れて彼の居場所を荒らしたことだ。そんな加藤の動機は不自然に思える。実は、加藤本人もしっかりそれを理解している。事件前にこんな書き込みをしている。


  ギリギリいっぱいだから、ちょっとしたことが引き金になるんだろう。
  いつも悪いのは俺。
  いつも悪いのは俺だけ。

 彼は深夜にも、次のように書いている。

  一つだけじゃない。いろいろな要素が積み重なって、自信がなくなる。                                        (199頁)


 中島氏は加藤が事件を起こしたきっかけは複数の要因にあり、本人もそれを理解していたことを指摘している。


 加藤は、「引き金」と「弾」の関係を明確に理解していた。
 確かに「事件」を起こそうと決意した「引き金」は「なりすましの登場」と「ツナギ騒動」だった。しかし、それは決定的な原因ではない。問題は蓄積された「弾」の部分だった。
 彼が「ギリギリ」の状態に陥ったのはなぜか。彼はなぜ追い詰められていったのか。
 その要因は「一つだけじゃない」。そこには、徐々に「積み重な」った「いろんな要素」が存在した。
 ――母の厳しすぎる教育と過度の介入、内面を見せることが苦手な性格、不満を言えず行動でアピールするパターン、キレやすい性格、突発的な暴力性、勉強への挫折、学歴へのコンプレックス、非モテ、外見、掲示板への没入、ベタのネタ化とネタのベタ化、承認欲求、借金、家族崩壊、職場崩壊、地元からの逃亡、先輩や友人への裏切り、満たされない性欲、不安定就労、派遣切り、ニセ者、荒らし、無視、孤独、不安……。
 彼の鬱屈は心の中に溜まり続け、「なりすまし」と「ツナギ騒動」によって噴出した。マグマが限界まで溜まって噴火するように。コップの水が溢れるように。
 「引き金」が何であるのかは、特に重要ではなかった。たとえ「ツナギ騒動」がなくても、別の出来事が起これば、それが「引き金」になった。
 問題は「弾」の部分だ。
 しかし、「弾」の構成要素は単一のものではない。それは時間の経過と共に形成された複合的なものだった。どれか一つだけが決定的な要因ではなかった。
 加藤智大という人格と25年間のプロセス、そして現代日本社会という空間と時代性。彼は何を主体的に選択し、何を社会から強いられたのか。その境界は、極めて曖昧だ。(199−200頁)


 本書を読むと、事件を起こす直前までの加藤は明らかに逡巡している。犯行声明を匿名掲示板に投稿するのも最後までためらっているし、トラックで歩行者天国に突っ込むのも三回も失敗している。最後まで中止をしたいと考えていたと云う。しかし、結局は腹を決めて無差別殺傷事件を起こしてしまう。

 中島氏によれば、事件当時、加藤に共感する若者が多数いたと云う。『週刊朝日』などの雑誌から当時、加藤に共感する人たちの言葉を引用している。また事件を受けて当時の政府が小泉政権以降に行っていた派遣解禁について抑止する方針を打ち出したと云う。


 加藤は裁判で「現実は建前」で「本音はネット」と証言していたと云う。ネットの掲示板に入れ込んだのもネットなら自分の本音を好きなだけ語れるだろうと思ったからだ。もっとも、加藤の軌跡をみると、現実でも「本音」で人と語れる瞬間が存在していたと云う。中島氏は加藤には利害関係の伴わない「ナナメの関係」と「言葉」が必要だったと指摘している。

 事件の被害者で奇跡的に命をとりとめた湯浅洋氏がいる。湯浅氏は、事件後に加藤から手紙を受け取り、彼の丁寧な内容の文面を読み、彼に返事の手紙を送った。加藤に事件の動機を語って欲しい、「もっと君を見せてくれませんか」。
 湯浅氏は公判を傍聴し、裁判後半で証言台に立ち、意見陳述を行った。。加藤は他の被害者が証言台に立ったときは、下を向き、視線をそらしていたが、湯浅氏にだけは顔を上げ、目線を合わせながら陳述を聞いたと云う。
 湯浅氏は、加藤が法廷で語った動機に納得がいかず、他人事のようで、自分の行為を自覚して真実を語って欲しいと訴えた。湯浅氏は加藤に心からの反省を求めたのだ。
 しかし、最終的に加藤が裁判で語った言葉は以下のものだった。


  今は事件を起こすべきではなかったと後悔し、反省しています。遺族と
  被害者の方には申し訳なく思っています。以上です。(235頁)


 加藤の陳述を法廷に出席して直接聞いた中島氏は、以下のように感じたと云う。


 ――「加藤は法廷を建前の関係だと思っている。ここは本音は関係ないと思っている。本当の言葉は必要ないと思っている。湯浅個人にだったら、何か語ることがあるかもしれない。しかし、もう彼が社会に向けて何かを語ることはないだろう。彼が作り上げた社会に対する岩盤は、思いのほか厚いのかもしれない」
 そう感じた。
 絶望的な空気だけが、残った。(236頁)


 私自身、本書を読んで加藤にそもそも明確な動機があったのか疑問に思った。本人に明確な意志があって事件を起こしたようにみえず、本人もどうして事件を起こしたのかわからないのではないかと思った。中島氏自身もそのことを理解している節があり、「わかりやすさ」や「単純化」を避けて加藤の足跡を丁寧に追いかける「複雑」な内容にしたと云う。
 はっきりしているのは、現代社会では明確に加藤の犯行を止める論理はないことだ。意志が明確にないと、結果から生じる責任を引き受けると云う倫理が通用しないからだ。また、意志があっても裁判でごまかされてしまうと、どうしようもない。「自由意志」があると信じないと「選択と責任」による倫理は成り立たない。そして、日本社会は日常的に「自由意志」が問題になることはほとんどない。加藤の場合は、死刑判決が下されたことで解決したかのようになっているが、実際はわだかまりを残している。

 では、どうすれば良いのか。私にもわからない。安冨氏の論語動画で語っている内容でも、明確に加藤に反論するのは難しいと思う。ただ、加藤のような複雑骨折した心情は自分もあるなと感じることだと思う。もちろん、いきなり通り魔事件を起こすわけではないが、自分で自分がよくわからなくなると云う加藤の心情は現代日本では広く覆っているものだと思われる。事件が話題になり、中島氏が本書を上梓し、加藤に迫ったのも、本質的に加藤と私たちが同じ次元を生きているからではないかと思った。
 事件発生から14年、本書が刊行されてから11年経過している。問題はまだ解決していない。しかし、加藤が事件を起こしたときよりも、社会は悪化している。「悲劇」を避けるには、自分が置かれた状況を理解しないといけない。そう論語動画を視聴したあと、本書を読んで理解した。

最近、熱いですね。