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石、猫、植物、枕。いろんな存在へ、生と心を交わすケア

人は、一人だけではいきていけないし、支えられている。ケアとは、生きるために切り離せない相互依存の関係性が基本となる。
生き延びるためにも、いろんなものに依っている。生まれ育った時に手をかけてくれる人がいなければ、赤ちゃんはひとりで生きられない。ほかにも、水や、木々、土、微生物といった存在(生being)たちに依存している。人の70%は水である。太陽光がなければ活性化しないホルモンがあり、うつ気味にもなる。体内には100兆を超える微生物がともに生きている。彼らもまた、ぼくたちに依存している。

生き生きと生きるためにも、いろんなものに依っている。寿司は、大好きなたべものの一つだけれど、寿司を考えると、いろんな存在がそこに関わってはじめて「食べる」という営みが成立するんだ、ということがわかる。例えば、甘エビのお寿司。エビなんて、最初に食べようとした人はチャレンジャーだと思う。エビなんて異形でしかない、こわい。でも、好奇心からなのか、最初にエビを食べた人がいて、それを美味しいと思った人もいて、寿司に載せようと思ったひともいる。過去の先人たちの積み重ね、とはシンプルにこういうこと。

そんなエビも、海のプランクトンに依存している。エビを漁獲するためには人々は海にでないといけないが、そのための船や網、といった道具がなければ、また気候を読む力や技法もなければ、深淵な海に太刀打ちもできない。その海の健康には、実は森の健康やその土壌の健康も影響していたりする。

こんなかたちで、いろんなものが人間(human)も人間だけではないあらゆる生きものや鉱物や人工物(more-than-human)も関係しあって、一緒に世界をつくっている。ケアにおける相互依存性とは、こういったラディカルな世界の見つめ方でもある。これを単に「生態系的なつながり」や「人間関係」といったことばにすると、こぼれ落ちるものがある。ケアに満ちた関係とは、見えない存在もふくめたつながりに生きることで、生まれるこころの作用も大切だからだ。

特に今の時代、自己責任と個人化がますます強まっている気がする。人は、もちろんひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。この「ひとり」といった感覚、絶対的な孤独、そればかりはどうしようもない。簡単にいえば、感じた痛みも歓びも、自分ひとりでしかその全体は実感できない。どうしようもなく、ひとり。

それでも、依りかかれる相手が多ければ多いほど、「ひとり」で生きることを引き受けやすくなる。熊谷さんがいう「自立とは、依存先が多さ」とはこのこと。この依存先は、恋人や家族や友人でなくともよい。

植物でもいいし、石でもいい。猫でも、犬でも、ぬか床でもいい。お皿やカップ、部屋に飾る作品でもいい。それがそこにあるだけで、すでに関わっている。彼らに心を依りかかれるようになる。そんな関係性が、とりわけ人間だけではないあらゆる存在(more-than-human)とのケア的な関わりあいにつながるのではないか。

機能的な恩恵以上に、その存在 (生being)に、影響をうけ、作用され、知らず知らずのあいだに救われている。救われているとは、つらさを軽減してもくれて、歓びや癒しを与えてもくれる。

先日、パートナーは台湾から来た親戚と、ディズニーランドに行っていた。小学校に入る前の小さないとこは、台湾からわざわざ自分の枕を持ってきたそうだ。そして、ホテルに忘れてしまって寝れない、とのことだった。それは、もうその枕に心を置いているから。だから、自分の一部が失われたように感じる。それはある種の親の代わり、といった精神分析もあるかもしれないが、枕との交換不可能な関係性ともみることができる。

こういう見方の転換や、見方への気づき、そこへの自覚がふえていくことは、半径2mの世界のなかで、いろんな存在とともに生を交感しあえるポテンシャルと希望、ある種のセンス・オブ・ワンダーにもつながっていくのではないだろうか。

ぼくが主宰するDeep Care Labが、「想像力」といっているのは、こうしたある種のまなざしの転換でもある。転換とは、宗教的にいえば回心(メタノイア)ともえいる。自身を悔い改め、既存の認知フレーム、採用する世界観を上書きしなおすことでもある。見えないものに注意を向け直す(notice, attention)ことで、まなざしが、見方が、そして世界観が変わる。毎日、横に、足元に、体内に、といったミクロなローカルにもいる (これまでもいた)存在に気づき、驚ける。それが、心に作用し、救われていく。ぼくは、それに救われたいなと思う。


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