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日記や記録を書くなかでの、どうしようもなさ

昨日は朝7時すぎに家を出た。東京・下北沢で11時から打ち合わせの予定だった。少し余裕をもって着いておこう。そう思って、早めに家をでた。朝おきて、急いでトーストを焼いて買ったばかりのマーマーレードジャムの瓶をあける。瓶ものの調味料やらをあけるときには、やたら力がいるものもあるが、小洒落て落ち着いた青みのラベルシールが貼られている上品ぶっているジャムはやたら簡単にあいた。ほぼ力を入れてないんじゃないかくらい簡単にあいたから、一瞬すでに誰かがあけたのでは..なんて疑念もよぎった。妻がオーブンで焼くパンは、市販の6枚切りトーストのような軽いパンではなくて、生地がしっかり詰まっている、といった感じなので、塗るものもただのバターだと少し弱くパンに負けてしまう感がある。なので、頼んで買ってきてもらったものだった。やはりジャムを塗ると、上手い具合にパンの乾燥具合も消え去って、おいしかった。

ジャムだけで、こんなに文章がかける。こんなにというほどの分量ではないけれど、書くことで色んな情景が蘇る。
なんでこんな昨日の出来事から書いたのか、というと昨日は書くことや記録することやそれらを通じて、考えたいことに向き合う過程から生まれるエネルギーみたいなものにぶつかったからだった。

まず、下北沢の打ち合わせの際、月日屋という日記にまつわる古今東西の本を集めている本屋兼コーヒー屋で、カフェラテをテイクアウトした。待ち時間に、本を眺める。『ロラン・バルト喪の日』や山尾三省の『インド・ネパール巡礼日記 1』から、少し前に気になっていたホームレスの女性が遺したという『小山さんノート』まで。ものすごい量の、ひとりの著者ーが正しい表現なのかわからないがー、の日々を記した日記、その日記そのものへの考察などが集められているお店だった。

シンプルに、こんなに多くのひとが日記って書くものなんだ。そう思った。記号論で有名なバルトが、最愛の母を亡くした喪失を記した『ロラン・バルト喪の日』なんてとても気になる。『小山さんノート』だって読んだことはないが、説明書きには「時間の許される限り、私は私自身でありたいーー2013年に亡くなるまで公園で暮らし、膨大な文章を書きつづっていた小山さん。」なんて書いてある。その人が、書きたくて、書かないと、仕方ないその生そのものが詰まっている感じがした。

ぼくは日記なのかジャーナリングなのか、日々の出来事を淡々と書いているようなものではないが、書けない日もあるが、日記的何かは書いてる。日記というと些細なもののように思う。でも、日記的何かには、何を書かなければ..といったルールはない。その日のその時、感じたことをただ書く。それだけ。でも、書くのは大体朝なので、おそらくそこには、その前日にあったできごと・見聞きしたものごとに大きく影響されているはず。で、それが集まっていくと結果、その人が生きた生が浮かび上がってくる。

たぶん、ぼくのこのnoteも同じような問いや悩みを反復運動のように繰り返し書いていることだってあると思う。でも、新しいものを常に書かなきゃいけないなんて規範は馬鹿馬鹿しくて、それだけ繰り返し書いてしまうことに、そのどうしようもなさに、じぶんが手放せない生の何かがあらわれている。そこにはきっと、これからのありうる自分を予感している何かが詰まっている。そう思うと、日記は些細な日々の出来事でありながら、過去のレコードでもあり、その書いてる現在の"感じ"を投影しているものであり、未来の予言でもある。

こうして書いてるのは、そんな日記たちの集合との出逢いの他に、昨日いった展示の場で感じたエネルギーに影響されている。昨日は夕方から、人類学ゼミなるものに参加した市政のひとびとのフィールドワーク記録を展示する、といった催しがあった。目黒には初めていくかも、初めてではないかもしれないが、わざわざいくことはないので、駅に降りるのも新鮮だった。強風の中、会場のコワーキングスペースにたどり着いて、知人に案内してもらう。

およそ半年のプログラムで、フィールドワークやフィールドノートという、人類学の基礎的な実践や考え、姿勢を学びながら、参加者が個人的な問いに向きあい、フィールドを定め、大量の記録とともに自身が感じたことを記録する。その記録が、生のフィールドノートとして、編集された表として、すごろくとして、多様なかたちで提示されていた。

例えば、ある人はインド文化に関心があり、インド料理屋に通い詰め、いつお店にいって、何を注文し、店の席のどこに座り、どんな会話を店員とやりとりしたのかといったものをタイムラインにまとめていた。そこでじわじわと関係性の変化が現れる。注文した品以外のお土産をもらったり、個人的に店員とご飯にいくようになったり。

またある人は、なんでか森に入るのが好きで、なぜ森に入ってしまうのかに向き合いはじめる。またまたある人は、規範と逸脱をテーマにしていた。フィールドワークの途中に飲みにいってしまったり、設定したフィールドではないものの「ゴミ捨て場に置かれた植木」のようなものがふと気になってしまう。もちろんそんな日々の気になる記録以外に、居酒屋にいき、常連との会話の記録をノートにつけたりもしながら、途中で劇団公演の練習風景をフィールドに再設定する…といったようにぐるぐるしている様子が、ノートから垣間見える。

そのあとで、知人たちと見た感想をわかちあいながら、雑談をしていた。そのなかで、「何かを知っていくときに、仕事だったらクライアントがいたり、課題があったり拠り所があるけれど、今回はそんな拠り所がないんだよね。だから、その人自身の声に耳を澄ませないと進めないの」といったことを話していた。

ぼくは展示をみた感想として、もちろんフィールドノートの記録の面白さもテーマの面白さもあるのだけど、それ以上に過程から浮かび上がるその人たちの苦悩や葛藤に惹かれた。リサーチって、膨大に記録はできるし、情報は無限である。とはいえ、それを有限化しないと、何も進められない。ただの記録である(ただの記録でももちろんいい、という議論はあるけど)。そのときに、どうしても気になっちゃうことやひっかかってしまうことは、案外、その人の生きる上で避けては通れないテーマだったりする。

それは、日記で書いているような反復事項の中にひっそり息をしているようなものごとなのかもしれない。もしくは、もっと取るに足らないできごとのなかに、その息遣いに耳を真摯に澄ませないと見えてこない何かかもしれない。やっぱり昨日あった出来事を思い返すと「日記ばかり集めた本屋にいった」「打ち合わせで発酵やケアについて楽しくおしゃべりした」「展示でエネルギーをもらった」「そのあと飲みに行った中華料理屋のおばちゃんとの距離感がよかった」なんて"大きい"出来事になってしまう。もっと小さい意味未満の「取るに足らない」を記録していくことで、まだ知らない自分を写す鏡の破片になるんだろうか。そこにもまた、気づいていない、自分のどうしようもなさが出てきてしまうんじゃないかな、と思う。

話はとっても変わるのだけど、昨日の展示は、そうした人々の生き様や、変わっていく様子を垣間みることができて、そこにエネルギーが生じていたように思う。ぼくにとってのこころに残るいい展示ってのは「自分もかく生きたい」と生きるちからをもらえるものか、心をズタズタに引き裂かれるものかどっちかだ。今回は前者だった。だから、よくわからない文章をこうやって書きたくなってしまった。後者の場合もつらくなって書きたくなるのだけど。


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