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【読書録103】「森信三 運命をひらく365の金言」9月編

 昨年末より「森信三 運命をひらく365の金言」(致知出版社)を毎朝読むことを日課にしている。今回は、9月の中で特に自分のなかで気に入ったものについて取り上げる。



9月1日 天知る地知るわれ知る

森信三師は、八十有余年の生涯を通して痛感することとして、こういう。

長い眼でみますと、天は実に至公至平であり、長い眼で見ますと世の中というものは実に、正直そのものである

一時期の下積みは、将来の土台づくりであり、一時の左遷や冷遇は、次の飛躍への準備期であるという。

自らの与えられたポストにおいて、全力発揮を怠らなかったら、いつか必ずや日の目を仰ぐ日のあることを確信して疑わない

 他人と比較しないで今の自分にできることを考えて、その時その時で全力を尽くしたい。

9月2日 カベの存在

この日も短い文章ながらも私を奮い立たせてくれる言葉にであった。

人間というものは、どうも何処かで阻まれないと、その人の真の力量は出ないもののようです。これは水力発電の理と同じことです。

 自分の身に降りかかることは、すべて必然、運命・宿命だと思って引き受ける。解決できない問題は、自分に降りかかっては来ない。こんな風に考えないといけない。自分の力を付けるためだ。

9月4日 人生の意義の究明

「人生二度なし」というのは、森先生が唱える真理であるが、それを一歩進めた論考である。

この地上的「生」を賦与せられたのは、そもそも如何なる意味があり、さらにはいかなる使命が負わされていると考えたら良いであろうか。同時にこの問題を究明することは、そのまままた人生の意義そのものを究明することに外ならぬといえるであろう。

 自分の使命は、なんだろう。自分の志はなんだろう。50に近くなっても分からない。
人生とは、生きている意味を探しながら生きているのか?

9月10日 野心と志の区別

人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは、火を点けられて初めて光を放つものです。同様にまた人間は、その志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。

 「志」を持つことの重要性を説く。人生を貫く志をまだ持てぬ自分にはとても大切にしたい言葉である。

そして、真の志とそうでないものの違いとしてこう言う。

野心とか大望というのは、畢竟するには自己中心のものである。

真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら、真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考えて、心中につねに忘れぬということでしょう。ですから結局最後は、「世のため人のために」という所がなくては、真の意味での志とは言いがたいのです。

 私もそうありたい。この2度とない人生をどう生きるか。人生の折り返し地点に来て強くそう思うのである。

9月15日 敬

 「敬」について、

 それは自分を空うして、相手のすべてを受け入れようとする態度ともいえる。

そして、相手のすべてを受けいえることから、一歩すすめてこういう

敬うとは、自分より優れた者の一切を受け入れてこれを吸収し、この一切を受け入れてこれを吸収し、その一切を奪いとって、ついにはこれを打ち超えようとする強力な魂の、必然な現れと言ってもよいでしょう。

一切を受け入れるという受け身の姿勢から、一歩進め、打ち超えるという能動的な力強い魂の現れにまで昇華して行く言葉に惹かれる。

9月23日 人格的甦生の第一歩

仕事の処理は、一心を集中して、中央突破を試みるにひとしいと言う。

自分がなさねばならぬ眼前の仕事を後回しにしているような人間は、仮に才子ではあるとしても、真に深く人生を生きる人とは言えないでしょう。

都度都度、一刻一刻を一点集中するというのは、その通りだと思う。

9月26日 仕事のコツ

 9月の後半は、仕事との向き合い方、仕事の仕方などの記述が続く。
その中から、

日常生活を充実したものにするとは、一体何なのかと言えば、これを最も手近な点から言えば、結局自分のなすべき仕事を、少しの隙間もおかずに、着々と次から次へと処理していくことだと言ってもよいでしょう。

 充実した生活の基本というが、本当にその通りかもしれない。
理想の青い鳥はいない。目の前のことを着々とこなしていくことが総ての根本である。
 

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