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【読書録120】致知2024年4月号「運命をひらくもの」感想

 致知の感想をnoteに書いて、今回が31回目となる。

 本号の特集は、「運命をひらくもの」

 表紙は、さだまさしさん。
今回、さだまさしさんの記事には触れないが、お人柄が感じられ、いかに一回一回のステージに賭けているか伝わってくる良い内容であった。さださんの生き方も「運命をひらく」生き方であると、つくづく思った。


総リード 運命をひらくもの

「運命はどこから来るのか?」

 この問いに対して、致知四十五年の経験を通じて、「運命は人の心が創る」と痛感していると言う。

運命は人が連れて来る、という人がいる。確かにその面はある。しかし、人が運命を連れて来ても、こちらにそれを受け止める力量がなければ、運は逃げていく。根本はあくまでもその人の心の在り方なのである。

人間の心は、庭のようなもので、放っておくと雑草が生い茂る。というのは、ジェームス・アレンの言葉であるが、心の雑草を取り除くためにどうすればよいか?

心の雑草を除くには、いい人、いい教え、いいことばに触れることが必須である。

私が、致知を毎月読んでいるのは、読んでいて、惹かれる人が多いからであるが、いい人、いい教え、いい言葉に接し、心が洗われる感覚は非常に強くある。

そんな、良い言葉を総リードの中からいくつか取り上げたい。

「災難に出会ってやけになる人、人を恨んで暗い心になる人、何も手につかなくなる人がある。これは災難の上塗りを自分でしている人である。さあ、一つ災難がすんだ。運命の伸びる道を塞いでいた迷惑な石が一つとれた。さっぱりした。しっかり勉強しよう。修養、反省の時間ができてよかった。こう思う人は節から目を出して繁る人である」(常岡一郎)

「悲運と思われる時でも、決して悲観し、絶望してはいけない。その日その日を必死になって生き抜くことが大事。そのうち、きっと思いもしない道がひらけてくる
すべてを善意に考える。すべてを修行と考える。そこから必ず、道がひらけてくる
(松下幸之助)

心の在り方の大切さが伝わることばである。
起きている事象は同じでも、どう捉えるか?自分次第。自分の人生を生きよう。

一念三千 仏教と量子力学の融合が世界平和をひらく


 九十五歳とは思えない力強いたたずまいが印象的な泰門庵住職の堀澤祖門老師と量子力学をベースとしたセミナーを行う村松大輔氏の対談。
 異分野のお二人が、仏教と量子力学の接点、融合について語り合う対談。非常に印象的であった。

量子力学では、「フォトン」という、素粒子が人間の意識や感情をつくっているという。
そして「幸せだ」という思いを抱けば「幸せだ」という周波数を帯びたフォトンが、「悔しい」という思いを抱ければ、「悔しい」という周波数を帯びたフォトンが発振されていくという。
 
非常に興味深かった。

例えば「幸せだ」というフォトンを発振すれば、「幸せだ」という他の周波数と共振して実際に幸せな現象を呼び寄せてくるし、逆に「むかつく!」という周波数を飛ばせば、腹立たしい出来事になって返ってくる。

つまり私たちの人生は日々どのような思いを抱き、どのような周波数を発振しているかに大きく影響されているということです。

この量子力学の理論とわれわれが従来から感覚として持っている「言霊」という考え方があまりに似通っている。

周りの目は気にせず、プラスのフォトンを発振すること。それが自分をより幸せにしていく循環の源になるのである。

また、話は、世界的なシステム理論学者のアーヴァン・ラズロ博士が唱えているという「ゼロポイント・フィールド」仮説へと展開する。
 これは、すべての現象や物質のもとになる素粒子は、莫大なエネルギーに満ちた場である「ゼロポイントフィールド」から絶えず生み出されているという仮説である。

このゼロポイントフィールドという一元の世界と、悟りの世界、「空」の世界が一緒であると、堀澤老師は言う。

お釈迦様は、「愚かな者は自分の子供だ、自分の財産だと思い悩む。ところが自分自身が死既に自分のものではないのではないか。どうして自分の子供だ、自分の財産だといえようか」という言葉を残しておりますけれど、これは「空」を体験していなければ言えないことですし、量子力学が説く一元の世界と全く同じだと思います。

般若心経の「色即是空、空即是色」の世界観をこう表現する。

一元絶対の世界に気づき、二元相対の世界は、仮のものなんだと「実有」に執着しなくなったんですね。この「空」を経た後の有「仮有」と言います。

悟っているか、そうでないかの違いは、執着があるかないかだけの違いだと私は思うんです。

一元絶対の世界に気づいたとしても、われわれは、二元相対の世界で生きていく。なので、生老病死は当たり前。これを「無常」という。

続いて、堀澤老師がいう言葉が印象的だ。

私たちもお釈迦様のように、すべてをお任せするという気持ちで生老病死を悠々と受け止めて、一日一日ベストを尽くして生きる。日々善きことを思い行い、プラスのフォトンを発振していく。これが、お釈迦様がお亡くなりになる前に弟子たちにおっしゃった、「すべてのものはうつろいゆく、怠ることなく精進せよ」という言葉の意味ではないかと思います。

先週のnoteで取り上げた横田南嶺老師の「はじめての人に送る般若心経」に通ずる。

無常なればこそ、それを受け容れ、自分にできることに集中する。そのためには、プラス志向が重要なのである。

繁栄するものと廃れゆくものの道


富士薬品工業会長の今井博文氏と、今井氏が師と仰ぐ東洋思想研究家の田口佳史氏との対談記事。

 田口氏が、今井氏を対談相手として選んだのは、「徳」をベースにした経営をしているためとのこと。もう少し具体的に言うと、富士薬品工業では、「徳目」を評価基準にするというユニークな仕組みを持っているという。

 「徳」について、今回の対談で興味深かったのは、以下の点。

田口先生から徳とは「いきおい」のこと、徳の本質とは「自己の最善を他者に尽くしきることだ」と繰り返しご指導いただいてきた

そして、田口氏は、こう言う。

徳というと何か品がいいようなイメージがありますが、本当はもっと力強いものなんです。

 この徳=いきおいとする考え方は、はじめてきたが、以下の田口氏の話を聞くと、徳とは、力強いもの感じられる。また徳とは、当事者意識をいかに持つかと言い換えられるのかなとも思った。

いまの日本の企業を見てみると「これは社長の問題です」「これは他部門の問題です」と他人に責任を押しつける他責ばかりでしょう。企業が衰退する一番の原因はそこにあるんですよ。会社で起きる問題を自分の問題として考えられる社員がどれくらいいるか。繁栄と衰退の分岐点はそこに尽きると思います。

運命をひらくとは、いかに当事者意識をもって物事に取り組むかなのかなと思う。今月号のどの記事からもそう感じさせられた。

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