見出し画像

スポーツ文化論 -お客様を楽しませるべきか-

”クラブ”と”チーム”と”ファン”と”サポーター”

”クラブ”と”チーム”。そして”ファン”と”サポーター”。これまで、これらに明確な境界線は引かれていなかったように思う。競技によって何となく、サッカーはクラブとサポーター。野球はチームとファンというように、主語がサッカーか野球かによって使い分けられてきたように思う。

ただ、昨今の日本のスポーツチーム(アマチュアを含む)のコミュニケーションの取り方や表現の仕方に猛烈に違和感を感じ、まずはこれらを明確に区別する必要があるのではないかと感じた。

これから話を進めていく上で必要なそれらの言葉の定義から整理していく。(個人的見解)


典型的で対照的なMLBとヨーロッパサッカーの2つのファンカルチャーを例に話を進める。(図1)

(図1)ファンカルチャーイメージ図

アメリカベースボール型のスポーツカルチャーはチームとファンがそれぞれ別の場所から矢印を向けあっている。ファンはチームに対して好意や興味がある人たち。それに対してチームはエンターテイメントとしてのサービスを提供する。

アメリカメジャーリーグ(MLB)やバスケットボール(NBA)アメリカンフットボール(スーパーボール)などの試合を想像してもらえば理解が早い。BGMが流れ、チアリーディングパフォーマンスに、ライブパフォーマンスや大型スクリーンを使用した観客参加型イベント。チーム主導の応援。観客を飽きさせないための様々な工夫がされたエンターテインメントだ。

日本のプロ野球、バスケットボール(Bリーグ・Wリーグ)もこれらを模倣し、踏襲している。


アメリカベースボール型ファンカルチャー

一方でヨーロッパフットボール型。個人的なイメージであるがクラブはサポーターの中にある。クラブは俺たちのクラブであり、ファンという言葉のニュアンスとは水と油だ。

派手なハーフタイムショーもなければ、手拍子を促すような映像演出などない。応援歌は自然発生する。それは街の中でさえ。

良い悪いは別として、それがエスカレートし暴動まで起こる。

ヨーロッパフットボール型ファンカルチャー


これら2つのファンカルチャーは典型的で対照的である。

これにはスポーツの文化的な背景が影響してると個人的には考察してる。

アメリカは日本と同じで部活動というものが存在してスポーツを行なっているが、ヨーロッパは地域の総合型地域スポーツクラブでスポーツを行っている。だからヨーロッパのクラブチャントなんかを調べてみると歌詞には「オレ達のクラブ」のような歌詞が頻繁に出てくる。そりゃあオレ達のクラブとなるわけだ。

一方でアメリカは「レッツゴードジャース」とか「UCLA fight fight fight!」的なコール。要するに「頑張れ」というメッセージ性が強く、その中に”私”は居ない印象を受ける。


競技クオリティーと集客


日本の大学スポーツの集客数は高校部活動以下で、それは野球であろうとサッカーであろうと競技は問わない。

甲子園、サッカーの選手権、ウィンターカップ。高校部活動の集客力に大学スポーツは敵わない。

大学スポーツの人気競技といえば箱根駅伝が最たる例で、あとはせいぜいラグビーとアメリカフットボールくらいだ。

ただ、その駅伝競技も、競技クオリティーの高いニューイヤー駅伝は箱根駅伝よりも関心は低い。

何を言いたいかというと、
応援する人たちにとってその競技のクオリティなどは関係がない。多くの人はクオリティの高い競技を観に行っている訳ではなく、応援したい何かがあるからスタジアムに足を運ぶのだ。

なぜ、日本の大学スポーツが、高校スポーツに集客で負けるのか。


日本の大学は地域に対するロイヤリティがない。これが結論だ。

まず名前がそう。亜細亜大学に東洋大学、日本大学に東京国際大学だ。

大学がどこにあるのかも分からないし、関東圏に集中しすぎている。

この"どこにあるのか分からない"は結構大きな問題ではないかと思っている。

集客というのは第1に身内(家族や恋人、クラスメイトや学校関係者)次に地域、そして最後に初見の新規だ。

私が東都大学野球リーグの地方開催や、東京新大学野球連盟の岩槻球場や龍ヶ崎球場を否定するのがここにある。

まるで誰に対して野球をやっているのかわからない。

むしろ矢印を逆に向けて各々のグラウンドでホームアンドアウェーで行い、学内の学生を取り組み、最終的に地域を巻き込んだ取り組みをしていくべきだと考える。


”親父”と”ナイター”と”夏の夜風”と”ビール”〜分断されていく”観る人”と”見ない人”〜



地上波のテレビが日本におけるプロ野球文化を支えてきたのは言うまでもない。平成くらいまでは、誰もが昨日の巨人戦の結果は知っていた。

家に帰るとアニメやバラエティ番組が観たいのに親父がビールを飲みながらナイター中継を見ている的な。そこには”観る”という明確な意志が無くとも”見る"ことができた環境があった。

だから「巨人の背番号33は江藤」であることは巨人ファンでもない宮城県出身の28歳でも知っている。

しかし時代は進み現代は明確に”観る人”とそうでない人が白黒はっきりしてしまっている。

プロ野球を観ようと思えばサブスクリプション登録をして毎月お金を払わなければ観ることはできない。

文化を創ってきたのは明確に”観ようとする人”と、”全く見ない人”の間の人たちだったと思う。別に野球を観ようと思っていないんだけど、家では中継が流れていて「あー松井って選手がホームラン打ったのか。そういえばこの前も打ってたな。多分すごい選手なんだろうな。背番号は55か。」みたいな。

だからプロ野球球団が行うべきはスタジアム周りのグレーゾーンを造ることで、居酒屋にすべきはスタジアムの中ではなく、外だ。意図してグレーゾーンを作るべきであり、明確な境界線を引くべきではない。

そうするとそこにユニフォームを着た人達が集まってくるし、その人たちは中へ入っていくと思う。そしてれは街へ派生していく。こうしてユニフォームを着れる街ができるはずだ。


”誇り”と”流行り”


流行の根っこは希少価値である。初めは「ウチらだけが知っているめちゃくちゃクールでイケてるやつ」というサブカルチャーから始まる。その熱が何かしらの弾みで一般社会に伝染した時に流行になってゆく。

ただ、当の本人たちは誰にもバレたくないし、もしそれがマスへ認知されてしまったのならそれは”終わり”を迎える。

それは俺たちだけが知っていたロックバンドがMステに出てしまった感じだし、誇りに思っていたブランドがUNIQLOとのコラボを発表した感じだし、街がパタゴニアのフリースやノースフェイスのダウンだらけになるあの感じだ。

恐らく流行のピークは”知っているけど持っていない”状態であって、「認知が人気に変わった瞬間が流行が終わる時」だ。

流行の曲線

サブカルチャーがメインカルチャーになる事は無くて、サブカルチャーがメインカルチャーになった瞬間それはメインカルチャーな訳で。

だから、プロ野球球団が街でも着られるようにロゴを変えたり、主張を抑えたり、チームカラーを殺したカジュアルラインを販売することはチームがファンに対して行う行為であって、多くの人に着てもらおうとデザインをUNIQLOに寄せることと、多くの人が街でユニフォームを着るというのは似て非なるものだ。


スポーツが文化から離れていく


最近のNPBでみられる流行りのTikTokを選手に踊らせてSNSにアップしたり、ガールズデーにピンク色のユニフォームを配ったり、チームカラーやロゴを無視したド派手ユニフォームを着せたり、アニメなどとの意味不明なコラボイベントをすることは短期的にお客さんを呼ぶことにはなるかもしれないが文化を創ることやブランド価値を高めることとは正反対の方向へ向かっているように思えてならない。


永続的にそのスポーツやクラブを残していくことを考えると、エンターテイメント興業としてのファンや客を増やしていくのではなく、文化としていつの間にか気付けばそこにある我がまちのクラブを目指すことが大事な気がしてならない今日この頃である。


身近な例でたとえばプロ野球を見に行く。結構な楽しみです。いいチャンスにホームランが出る。また素晴らしいファインプレーみんな大喜びです。胸がすーっとします。だがそれがあなたの生きがいでしょうかあなたの本質とは全く関わりない。そのホームランのために自分の指1つ動かしたわけじゃないし、スタンドでの感激はあっても、やはりただ見物人であるに過ぎないのですまして、テレビでも見ている場合はなおさらでしょう。人がやったことあなたは前、人間的にそれに参加してはいない。結局自分は不在になってしまう。空しさは自分では気がついていなくても、カスのようにあなたの心の底に溜まっていきます。

岡本太郎「今日の芸術」


菅野雅之

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?