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今までの人生は「評価をされること」「自分を示すこと」が全てで、好きかどうかということは考えなかった。

考えても「自分が好きなものはこの世界に求められていない」という経験が「自分を信じる」ということをできなくさせていた。

そんなこんなで今年で29歳になり、いよいよ30代が目前に控えた2023年年末。
今までの自分の集大成でもあり、一区切りとも言えるようなイベントに遊びに行ってきた。

今までよく頑張りました。おめでとうございます。
今日この日を迎えられたことを我々は嬉しく思います。

あんた誰?我々って?
そんなことを感じながら、湯水の如く流れるインスピレーションに身を任せるばかりだった。

まるで走馬灯のように今年を振り返りつつ、年始に感じた「兆し」を思い出す。
「今年は今までの人生とは違う一年になる気がする、そんな予感がある」

根拠はないが、根拠よりも強い「確信」がそこにあった。

まるで奇跡のような魔法とも言える日々の中で、たくさんの出会いと経験をした。
その中で人生の転機となる決断も多かった。

目に見えない「感覚」に従って現実的な「行動」を選択する。
「陰陽」を「身体」を通して統合するような形で具現化する経験を、今年はたくさんすることができた。

今年の漢字一字は何かと聞かれたら「兆」と答える。
全ての始まりであり自身が積み上げてきた結果、予知とも言える「兆し」を感じたことがとても嬉しかったからだ。

そのイベントでの話の中に「挑戦」と「挑む」という話があった。
「挑む」とは「戦う」でなく「ただやるということ」
そこには個人の「熱」と「ワクワク」があり「競争する」というような直線的なものは存在しなかった。

今の生活には「直線」が溢れすぎていて「円、丸い」というものが見つけにくくなっている。そういうデザインがなされているのだ。

本来「自然」は丸みを帯びているものの中で構成されていてそれは人体においても同じ。

DNAが螺旋で構成されている時点で、生きていく上で「螺旋」や「円」をイメージした選択というものが大事であるのは言うまでもない。

それをこの「挑む」という言葉から感じたわけで、その向こうに見える「円環」の美しさに込み上げるものがあった。

人と人が手を取り、自分がやりたいことを共有する。
「切磋琢磨」は磨きあうものだが「挑む」は循環だ。

なんて美しいのだろう。とても自然で柔らかく、それでいて地に足がついている。
自身を信じ、善悪という基準を超えて「魂」の望むままに「挑む」ということ。

シンプルで無駄がなく「ありのまま」というものを体現しているようなそんな美しさがこの言葉、話にはあった。

年始に感じた「兆し」に「手」を加えると「挑む」になる。
「兆し」を感じた時は一人だったかもしれないが、自分に従って行動した結果「手」を繋いでくれる人たちに出会った。

その集大成が「挑む」という言葉に集約されていたかと思うと救われる想いでいっぱいだった。

傷つきたくないから独りになった。
独りだと思うようにした。
それでも諦めきれなかった。
だから前に進んだ。
そしたら、独りじゃなかった。

受け取ることが怖かった。
幸せになってはいけないと決めつけた。
その方が楽だった。
それでも諦めたくなかった。
だから前に進んだ。
そしたらとても愛されていることを知った。

猜疑心があるんだ。
自分を信じることが怖いんだ。
だって間違ってたらどうするのさ。
それでも信じてかっこよく生きたかった。
だから前に進んだ。
そしたら楽しいことばかりだった。

「兆し」で感じ、「挑む」になることで力を合わせることができる。

思えばたくさんの「手」があった

辛い時引っ張り上げてくれた手
寂しい時誘ってくれた手
可能性を感じて発掘してくれた手

感じたことを「手」を通して繋げるのが僕の仕事だ。
身体や感覚が感じる様々な違和感を手を通して具現化する。

身体(意識)と魂(無意識)を手を使って繋ぐ
この「手」が「兆し」を「挑む」に繋げてくれた手だと思う。

心身を繋げる、人と人を繋げる、言葉と言葉を繋げる。
手間を惜しまず、丁寧に。

そしてこの内容もまた「手」を使って書いている。
手を掴む側から差し伸べる側に。

そんなかっこいい人生をこれからは創っていこうと思っている。

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