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理解・分解・再構築

そういえば、当たり前のように「治る」とか「整える」とか言ってきたけど、そもそもどういう意図と境界線で使い分けているのかが曖昧だったなと思った。

良くも悪くも、発展途上中というか、日々変わり続けているので、自分が一体何をどこまでやれるのかがわかっていない。

なので「今の自分ができること」と「それは流石にまだ・・」と感じることを再度文章にして明確にしていこうと思う。

その前に竹内晶貴にとっての「なおす」「ととのえる」とは何かを再定義する。
辞典上でのそれぞれの「なおす」に触れながら整理していく。

「直す」
正常な状態であったものが、壊れたり傷んだりした場合に元の正常な状態へと戻す意。

正常な状態とは言うものの、正真正銘の正常な状態を知らないなぁと。
良い姿勢と言うものの、お手本となる姿勢、いわゆる構造を僕はよく知らない。
軸になる経験がないから比較することによる「差」を認識できてない。
あくまでも、自分や今までの施術、出会い、経験という「側面的経験」を元に繋ぎ合わせて導き出しているような感じだ。

「治す」
病気や怪我を治療して健康にする。

「治療」してどうなるのが「治す」なのか。
症状が消えれば良いのか、気にならない程度にまで、その「治す」ことができれば良いのか。

⭐️いわゆる西洋医学は症状に対して薬を飲んだり、病気の原因になっている箇所を手術したりする。人体をパーツで見て、局所的に対応するようなイメージ。

⭐️東洋医学は人体をパーツではなく全体として見て「流れ」を大切にしているような感じ。それぞれの繋がりを見て治療法を選択しているような感じ。

西洋医学への批判は症状の原因追及というより、結果への対処という側面が強いことが要因だと思っていて、確かに極端だよなとは思う。

でも個人的には東洋医学もまだ物質的というか、まだ足りない。
もっと深く行かないとなと思う。

というのも人生の積み重ねの結果が「症状」であり状況なので、そうなるに至った経緯(日々の選択や環境要因から形成される性格)という「個」の部分へのより直接的なアプローチが必要だと思うからだ。

様々な「力み」が「過度な硬直」を生むことで「症状」という声が起こされると思っていて、それは内省や振り返りなしには変化しにくいと思っている。

自分の選択を省みる事なしに、西洋だろうが東洋だろうが、自分の皮膚より外の「治療法」を選択している時点で変わらないのではと思う。

だってそれを受けるのは隣の人じゃなくて自分なのだから。
皮膚より内側の、身体が形成されるよりも手前の領域において「自己」になるキッカケとなった部分に手を伸ばすような、そんな感覚が大切だ。

僕は自身の施術で「症状」を「橋」にすることでお客様から話を聞き、そこを繋げて納得してもらうことで心身ともに楽になるというコンセプトでやっている。実際にこれを行い、楽になっている様子を見てきた。

自身の身体から生まれた「不都合」は生まれてから今日に至るまでの間で形成された「ズレ」や「歪み」であるのは、当たり前の事だと思う。

生き方の通りに身体は形成される。
自分の見た目は「そういう思考、癖、願い、信念」の集大成だ。

ただ、各々の人生の中で「歪みを作らないと生きれなかった」とか「無理やりにでも頑張る必要があった」とかやむを得ない事情がある場合もたくさんある。

受けにきてくれる方は大抵そういう「無茶しなきゃいけなかった」みたいな人がほとんどだった。

でもそれも「教育」や「環境」、「社会」という土台がそういう意図やデザインで組まれているから仕方なかったと思う。

こういう視点というか、感覚を身につけられる練習を幼少期から行えるとかなり違うのではと思っている。

自分たちを育ててくれたお手本の「大人」がこの社会のデザインの元に生きているのだからどうやったって仕方ない。

稀に、ここに違和感を覚えて、自分の力で打破する者もいるが、多くは用意された意図やデザインという「大きな1」の中で生きる。

大きすぎる嘘はなんとやらというが、社会がどのような意図やデザインで組まれているかという視点は、進撃の巨人でいうところの「壁」みたいなものだ。

生まれた時から壁があるのに、その外側がどうかなんて想像するという概念が生まれない。

そう「疑問という土台にすら上がってこない」わけだ。
認識しなければ「0」のまま。
なので前提となる「1」があれば、後は他の刺激的なものに五感を集約させれば「2」になる可能性はかなり低くなる。

認識の向こう側なんていうのは偶然気づくとか、脈々と受け継がれてきた「私」というたすきに染み込んだDNAという名の汗が、「違和感」という形で訴えかけてくるくらいのもので、大抵は気のせいで済まされることだ。

「アメリカは靴のまま家に入る」みたいな、自分たちとは全く異なる価値観で生きている領域に踏み込めば「視野が広がる」という表現によって、気づきのチケットをもらえることもあるんだけれど。

だから「海外に行くと人生観が変わる」わけで。
実際は全く異なる価値観、その土地の空気に触れて視野が広がったに過ぎない。

話がズレたが、まずは「自身を振り返る」という軸なしにどんな治療を受けてもあまり意味がないように思うということだ。

どんな治療を受けるにしても、受ける自分自身が変わらないことにはその効果の恩恵は受けにくいような気がしている。

そこで僕の現状の答えとしては

「個人の納得を追求すること」が最善なのかなと思っている。
個人に合わせてその時点における最然を実現する。症状によって気づきを得る必要があるならば、全てを取ってしまうのは仕組みに反する恐れがあるからだ。

インスピレーションを大切に、より透明な世界に至れるよう日々生きているが、その根本は信頼できる「仕組みや構造」通りに選択するという意外にシステマチックな感覚もある。

症状をそっくりそのまま取ってなかったことにするのは西洋医学と変わらない。
手段と言葉を変えてそれっぽくしてるだけで詐欺と同じだと思っちゃう。

介入してはいけないラインがある。
あくまでもサポート。神でもなんでもない。
何を信仰しているかといえば「仕組み、構造」なので、ここは完璧という信頼がある以上、この軸を土台に気づいてもらえるようにするのが僕の施術であり、やりたいことだ。

僕は人が嫌いだが、「ヒト」の仕組みというか構造は大好きだ。
ヒトは世界(便宜上)から生まれたのだからヒトを通して世界を視る。

性善説推しではないが、仕組みや構造という点においてはきっと優しさや愛で溢れているはずだ。と信じている。信じたい。

言語化や探究心だけでなく、身体や世界に対する「認識」も施術に一役買っていると思っています。

良い意味で発展途上中、じわじわ広がっているサイキック整体。
ご予約が取れなくなる前にぜひ一度受けにきてみてください🤩笑

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