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心に虹を描く 〜葬送のフリーレン展にて〜

葬送のフリーレン展に行ってきた。
好きな作品のイベントに出るというのが実は初めてで、どんなもんかとワクワクしながら行ってきた。

今までは良くも悪くも真面目すぎたのか、こういう「遊び」のために休日を使うということを全くやってこなかった。

施術が好きであるのは間違いないが「好き」の矢印があくまでも「施術」というものが軸だったので、どこか仕事チックになってしまっていたのが普通だった。

この作品においても施術のヒントになる部分はたくさんあるが、純粋にただ好きだから行くという目的で自分の時間を使うことはなかったので嬉しかった。

今回は一人ではなく、誘ってもらった人と2人で行ってきた。
積もる話というわけではないが、お茶しつつ入場時間までの時間を過ごした。

そこでの話がとにかく面白く、一瞬なんのために集まったのか忘れるほどに盛り上がったので、その様子も記録していこうと思う。

僕は最近、人との会話の中で「これ面白いな」って感じたものは残しておくことにしてる。

ここ数日の中で急に浮上した「枠を設けるという自由」というテーマに沿う話題が、自分の求めるタイミングでやって来たことに喜びを隠せない。

今までは「鳥籠の外に出ることが自由」だと思って、色々なことを学んだり行動したりしてきた。

これらを経て今新たに「あえて枠を自らの意思で創るという自由」というものがあることに気づいてしまった。

枠の広さや形、素材などを自分で選んで構築する。自分の尺度で伸ばしたり縮めたりしながら「物質世界」というものへの認識を一段深く踏み込んでいるような感覚が生まれる。

まるでONE PIECEのルフィのように「やりたいこと全部できる」と言ってしまいたくなるような、そんな感覚に包まれる。

「ふざけた能力」と言わしめるほどの要因として、この「枠」を自由自在に使いこなすことがあるのではと思うほどにはハマっている。

今までは「精神世界」において、自身の五感や感性を磨いて使ってきた。
そのため「いまいちよくわからないフワッとしたこと」については無限のインスピレーションと閃きで遊び尽くすことはできても、「物質世界」においてはどう使ってたらいいかまるでわからなかった。

その結果生まれたのが「サイキック整体」であると確信していたが、まだ先があることに気づいたのだ。

自身が知りたいと思う分野に専用の「枠」を創り、そのために試行錯誤することで今まで培ってきた「感性」や「インスピレーション」がそのまま流用できることに気がついた。

例えばビジネス。
これから2週間の間でこれくらいの売り上げを立てるという「枠」を創る。
そこに注力することで施術やその他精神世界で培ってきた感性という「液体」が「2週間の間で立てたい売り上げ」という枠に注がれる。

これはとても凄いことだと思った。ものすごく興奮している。
僕は今まで「精神世界は精神世界、具体的な物理の世界でこれを使用するのは難しい」と勝手に設定していた。

物理には物理のルールや方法があるから、そっちで頑張るにはまた新たに能力を開花させて磨かないといけないと思い込んでいたのだ。

しかしそうではなくただ「枠」を設定するだけで、元々持っていた自身の感性という液体が、その枠に注がれるという光景を身体で味わった。

これを行うことで竹内晶貴という存在がもつ先天的、後天的要素を余すことなくその「枠内」で発揮することができる。しかも自然に。

ビールに注ぐ器はジョッキであるように
ワインにはワイングラス
お茶には湯呑みといった具合で、適切な器、枠に自身の存在から放たれる感性という液体を当たり前のように注ぐことができるこの事実に、喜びを隠せなかった。

そしてここに新たな視点が今日加わった。
PCや自転車、バイクなどの「物体」の仕組みや構造を知ることは僕がサイキック整体で行っている「精神の紐解き」の物質バージョンであるということだ。

精神の紐解きは個人の主観や直感的な要素が強く、また無意識的なことであるため、いかに自分を信じられるかが鍵になる。そして実感が得にくい。
しかもこれは「個人」にとっての正解という側面が非常に強く、そしてわかりにくい。

だから僕はかなり時間がかかっているし、今でもそれを受け取るための練習は怠らない。

でも自転車やバイクというものはある程度仕組みや構造が決まっていて、しかもそれは現代の物理学とか、機械工学みたいな、「目にみえる結果」として味わうことが可能だ。その形状から作成に関わる意図や願いも、その部品等に触れて想いを馳せることができ、より実感を伴った形で心身に落とし込むことができると確信している。

この部品はどういうもので、どこに使われてどういう動作をするときに必要なのかとか、このメーカーのこの製品はこういうこだわりがあって好きだとか、とにかく僕が内面でやっていることを圧倒的な物理で表現しているという事実にとてつもない興奮を覚える。

自転車やバイク、PCに触れるという枠を設けたときに僕はきっと今まで培ってきた感性を総動員してこの「物質」からたくさんの情報を得ることができるはずだと。

なんて話しているうちに会場に着いたわけだが、まぁたくさんの人がいた。
それでも楽しめたのだから作品への愛は凄いなと我ながら感心してた。

葬送のフリーレンは「人の心を知る物語」だと言われてるらしい。
しかしフリーレンを見ているとその「人の心」というものはすでに知っているのではないかと僕は思う。

1000年以上生きた経験と出会った人たちから受け取った想いを、旅の仲間であるフェルンやシュタルク、ザイン達に伝えたり、誰かに託したりしている。

彼女の物語はきっと、知りたいと願う人間を通して「今まで受け取った想いに気づく旅」なのではと個人的に思う。

それはきっとハイターやアイゼン、ヒンメルは知っていたんじゃないだろうか。
僕は勝手にそう思っている。

1000年も生きれるような存在なのだからそこら辺は1000年かけて気づけるくらいのものとして設定されていると思う。

世にも奇妙な物語で「生まれ変わりに人気なのはセミ」という話を見たときに思った。

7日間しか生きれないことが気の毒だと感じるのは人間の尺度でしか考えていないからだ。
7日間で一生を生き切るなんてとてもパワフルなんじゃないだろうか。
ある意味燃やし尽くすみたいな。これもまた人間側の尺度であるけど。

人の一生が短いということをヒンメルの死という形で気づいて涙していたフリーレン。
生き物としての設定が異なるのだから仕方ないと思うのと同時に、種族が違えどこうして流せる涙があるのだと本当に感動した。

師匠であるフランメはそこまで見越していたのだろうか?
真相はわからないが、とても愛情深いキャラクターであると僕は思う。

イベントには各ポイントでクイズがあって、それをビンゴ形式で解いていき、最後に答え合わせをして景品をもらうというやつがあった。

全部正解して景品もらおうと意気込んでたら、
「これ事前に答え予測して穴開けていかね?」
なんとまぁ意味がわからない提案であったが、面白そうだと思ったので乗っかることにした。

選択肢は4つ。
1つ解くたびに次の4つの選択肢の中でどれが正解なのかを「自分に聴く」ことで試してみた。

結果は問題が5つに対して正解3つ。
正解したものとそうでないものの違いを分析した。

・1つ目と2つ目までは完璧だったがここが当たったことで興奮し、冷静な問いかけができなかったため3つ目は外した。

・2択まで迫ったが、「ながら」で決めた部分もあって集中力に欠け、反対にいった

・シンプルに問題が難しく、どれが正解かわからなかった

などを挙げてったときに「そういう目的でやるもんじゃねぇから」と言われ面白かった笑

なんやかんやあったがとても楽しかった。
ただ楽しく遊んだだけなのに、とてつもない大きな気づきと可能性に出会うことができた。

自身にある階層のうち、精神の領域であろう5以降の部分に確かな変化が生まれた気がする。

「神遊び」という音が入っている通り、自分にとって大事な気づきや開花の可能性は「遊び」の中に隠れているのかもしれない。

やはり魔法はイメージの世界だ。

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