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宮城旅行記6〜震災遺構旧大川小学校〜

南三陸町を後にして車を走らせる。
穏やかな海を傍目に海岸線の道路を走ると
この海が本当にあの凄惨な津波の被害を産んだのかと疑問になる。

しかし、途中の案内標識は至る所に
「津波の到達地点」と記されたものがある。

私の地元、神奈川の海岸沿いの道では
見られないものである。

あったんだなと。身の引き締まる思いで
ハンドルを握る。

そして宮城県石巻市にある旧大川小学校に到着する。

旧大川小学校全貌
この川を津波が遡上し
小学校を呑み込んだ
校舎の中に入ることはできない
天井部分の抉れは津波の仕業
柱を倒すほどの威力
剥き出しとなる基礎部分
津波でズタズタになった卒業制作


津波による被害を受けた大川小学校の
当時そのままのものと、展示室がある。

旧大川小学校は震災の大津波により、
児童108人中74人、教員10人が亡くなった。

学校の時計
津波が到達したであろう時間にて止まる



大川小学校は海岸の3.7kmに位置しており、津波による被害はないと考えられていた。
しかし実際には川を津波が遡上し、この学校を襲ったのである。

地震発生から、充分に避難する時間があったにもかかわらず何故ここまでの被害が出てしまったのか。そこの背景には様々な問題があった。

学校の裏山 校庭から目と鼻の先
ここにみんなで避難する選択はしなかった。

展示室には津波後に小学校で発見されたものの展示や大川小学校で起きたこと、その後の遺族の裁判などの経過を克明に記している。

被害に遭われた方々のご冥福をお祈りします

複雑な感情が入り混じる中、
大川小学校を後にした。


大川小学校で起きた事をまとめたものを発見したので紹介して今回の記事を締めくくらせていただく。

津波の被害だけではない人災的な側面が
ここ大川小学校で起きた事である。

後手に回った避難。その間に何が起きていたか。震災後の行政の対応も疑問に残ることが多数ある。

そして、もしかしたらこれらの事実は闇の中だったかもしれない。

愛する家族を失った遺族の方々が真実を知りたい。その一心で動いていたことを思うと、何と悲痛なものだったのだろう。

そして震災から10年以上経つ今もそれは続いている。その事実に目を背けてはならない。

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