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新選万葉集 和歌表記の謎を考える

 今回、和歌の表記のスタイルの話です。その関係で、和歌の歴史に興味が無いと全くにどうでも良い話です。ただ、古典とされる和歌が、本来、どのような姿だったのか、歌が作られた時にどのように解釈されていたか、ここに興味を持つと避けては通れない話ではあります。
 ここのところ新選万葉集に遊んでいます、その新選万葉集について、一般論として、新選万葉集の和歌表記形式が平安時代初頭の和歌を表記する標準的な形態だったと決めつけ、和歌表記の形態としては万葉集時代と古今和歌集時代とを繋ぐものと解説するものがあります。まず、この解説は、ほぼ、間違いです。新選万葉集と古今和歌集とのその編纂成立の時期に注目すると、その間は10年間しかありませんから和歌の表記を進化させ、それを貴族階級に普及させるには短時間です。また、新選万葉集の和歌はおおむね寛平御時皇后宮歌合から取られていますから、寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との和歌表記が同じでないと都合は悪いのですが、和歌研究者たちで両詩集の和歌が同じ表記スタイルだったと考える人はいないと思います。つまり、いい加減な想像で従来は新選万葉集を解説していることになります。
 和歌表記の確認として、和歌を文字で表すときに万葉集では大きく四つの形態があります。万葉集での和歌を文字化した時のこの四つの大きく違う形態の最初の発見は江戸時代中期の賀茂真淵です。ただ、和歌道や古今伝授などの関係から藤原定家が普及させた漢字交じり平仮名で表記するスタイルが和歌表記の本流として、万葉集での四つの形態発見は無視されます。そして時代が下り、この万葉集の四つの形態の再発見は昭和時代中期の阿蘇瑞枝の「柿本人麻呂論考」の発表によります。現代では万葉集の四つの形態を、詩体歌、非詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌と表現します。
 ただ、昭和時代にあってもこれがただちに万葉集研究での重要な再発見とは認められていなくて、和歌表記の歴史にあって注目されるのは昭和後期から平成初頭です。昭和にあっても従来の和歌研究の基本であった藤原定家が解釈しそれを漢字交じり平仮名表記で表したものを普及させて、それを伝統としていましたから、本来の万葉集の四つの形態の存在を認め、それへと和歌表記法を変えることに抵抗しています。理由は先達や大学教授たちの万葉集の研究は漢字交じり平仮名で表記された和歌ですので、その表記とは違う本来の万葉集の四つの形態で表記される和歌を扱うと、研究の継続性や扱う和歌自体が相違して来る可能性があったからです。例えば、詩歌を原文から研究するか、翻訳から研究するかでは、研究の本質が違うと言うことになります。
 
1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに
 
 なお、昭和後期から平成初頭になって、昭和時代に古典と考えられていた万葉集、古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集などの多くは鎌倉時代初頭に藤原定家たちによって、読み易さを目的に漢字交じり平仮名のスタイルに翻訳されたものとの認識が合意・確認され、それ以降では急速に本来の古典作品の姿への復元が進んでいます。基本として現在では万葉集以外の古典和歌の本来の姿は歌中に表語文字となる漢字を持たない清音で借音一字一音の漢字で表記します。この借音一字一音の漢字表記のものを現在では印字体の平仮名で表記して提示します。
 
1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ
 
 和歌人たちが意識して古典和歌で歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記するようになったのは、何時か? この疑問に対して万葉集はその集中で答えを用意しています。それが令和の元号の典拠となった梅花宴の漢文の序にあり、「若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。」の一文です。
 
梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
前置 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の令月(れいげつ)にして、氣は淑(よ)く風は和(な)ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
序訳 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。
 
この梅花宴での宴を主催した大伴旅人の歌
集歌八二二
原文 和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母
訓読 吾が苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
私訳 私の庭に梅の花が散る。遥か彼方の天より雪が降って来たのだろうか。
 
 万葉集の編纂を見ますと、大伴旅人と山上憶良たちによる筑紫歌檀時代と称される神亀年間以降では漢語交じり一字一音万葉仮名の常体歌と一字一音万葉仮名だけの万葉仮名歌との二つのスタイルになります。常体歌の一字一音万葉仮名を平仮名表記に変えれば、藤原定家たちの漢字交じり平仮名歌と同じものとなります。ただ、鎌倉時代、西行法師たちが藤原定家たちの漢字交じり平仮名歌スタイルでは、その漢字がその文字自体が単独で言葉の意味を持つ表語文字であることから読み手に一方的に漢字表記により特定の意味を示すことで掛詞などの和歌の面白みである複線的に和歌を鑑賞できなくなると批判しています。和歌技法が進化して同音異義語の言葉遊びである掛詞などの和歌の面白みを求めるのなら、歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する歌、つまり、古今和歌集のように清音のひらがな和歌でなければまずいとの指摘です。
 ここで、万葉集には次の同音異義語の言葉遊びの歌があります。歌は大伴家持と大伴池主との間での相聞和歌による遊びです。歌は言葉遊びですから借音一字一音の漢字だけでの表記です。
 
<大伴池主>
集歌4128
原文 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。
 
<大伴家持>
集歌4133
原文 波里夫久路 己礼波多婆利奴 須理夫久路 伊麻波衣天之可 於吉奈佐備勢牟
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)これは賜りぬ摺(す)り袋今は得てしか翁(おきな)さびせむ
私訳 針と針を入れる袋、これはもう頂きました。また、頭を包む摺り染めた袋を今度は頂いた。すっかり、老人らしくなりました。
裏歌
試訓 針袋これは戯(たば)りぬ摺り袋今は得てしか置(お)き為(な)さびせむ
試訳 針袋、この題材では、もう戯れました。頭を包む摺り染めた袋を今度は得ました。この題材で戯れましょう。
 
 奈良時代中期までには和歌を歌い表記する技術はここまで進化をしていますし、その和歌技術の一旦の集大成が古今和歌集にあるとされます。こうした時、新選万葉集とその作品のベースとした寛平御時皇后宮歌合の成立は寛平5年(893)であり、古今和歌集が延喜五年(905)としますと、おおむね、同時代です。言いたいことは、寛平御時皇后宮歌合の和歌も古今和歌集の和歌も同じ表記スタイルではなかったかの指摘です。
 長い助走でした。今回の本題は、新選万葉集の和歌の表記スタイルは万葉集から発見された4つの表記形態の内、どれに相当するのかです。まず、明確なのは歌中に表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する歌ではありません。また、一切の「てにをは」の表記を持たない詩体歌でもありません。以下に上下巻から3首ずつを抜き出しましたが、和歌の表記は万葉集の常体歌のようですが、そうではありません。万葉集の常体歌は表語文字の漢字と借音一字一音の「てにをは」となる万葉仮名との組み合わせですが、新選万葉集の和歌は漢詩で漢字を読む時の訓読み法に似た感覚で「てにをは」を表現するような独特な表現方法なのです。歌番140では「幡(はた)」、「鉇(かな)」、「革(かは)」、「兼(けむ)」と非常に自由な表記ですし、歌番60の「可為岐(しぬへき)」や「不来夜者(こぬよは)」には漢文的な読み返しの要素があります。加えて歌番180の「色殊殊丹」の「殊殊」の表記は表語文字となる漢字の可能性を示す選字でもあります。このようにすこし万葉集の常体歌とは趣を異にするのです。
 
上巻から20番毎に抜き出し
歌番20
和歌 鶯之 陬之花哉 散沼濫 侘敷音丹 折蠅手鳴
読下 うくひすの すみかのはなや ちりぬらむ わひしきこゑに うちはへてなく
 
歌番40
和歌 夏草之 繁杵思者 蚊遣火之 下丹而已許曾 燃亘藝禮
読下 なつくさの しけきおもひは かやりひの したにのみこそ もえわたりけれ
 
歌番60
和歌 秋山丹 恋為麋之 音立手 鳴曾可為岐 君歟不来夜者
読下 あきやまに こひするしかの こゑたてて なきそしぬへき きみかこぬよは
 
下巻から20番毎に抜き出し
歌番140
和歌 去年鳴芝 音丹佐牟幡 似垂鉇 幾之閒革 花丹狎兼
読下 こそなきし こゑにさもはた にたるかな いつのまにかは はなになれけむ
 
歌番160
和歌 幾之間丹 花散丹兼 求谷 有勢者夏之 蔭丹世申緒
読下 いつのまに はなちりにけむ もとむたに ありせはなつの かけにせましを
 
歌番180
和歌 秋之露 色殊殊丹 置許曾 山之黄葉裳 千種成良咩
読下 あきのつゆ いろことことに おけはこそ やまのもみちも ちくさなるらめ
 
 どうも、新選万葉集の和歌の表記方法は万葉集からの伝統の常体歌や表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する万葉仮名歌でも無く、新選万葉集の和歌だけに創られた独特な表記方法の感がします。当然、寛平御時皇后宮歌合や古今和歌集の和歌の表記方法に類似する可能性はありません。
 もうひとつ、同音異義語の言葉遊びを踏まえると掛詞になりそうな言葉は表語文字となる漢字を持たない借音一字一音の漢字だけで表記する必要があります。そうでないと物事を示す表語文字の力で歌に一定の解釈の方向性が与えられることになります。この視点から見ると歌番40の「蚊遣火之 下丹而已許曾」の表記では、燻ぶり煙を立てている蚊遣火の下方に赤く燃える炎が見えて来ます。同じように歌番20の「花哉 散沼濫」の表記では、桜の花びらが沼の水面に散って花筏の風情を見せています。これは柿本人麻呂の和歌表現技法に近いものになりますが、伝統の常体歌や万葉仮名歌とは異なる和歌表現手法です。ただし、これが寛平御時皇后宮歌合などの歌と同じ景色なのかと言うと、伝統の新選万葉集の和歌とし読み下されたひらがな表記のものが示す景色と同じではありません。
 実に不思議なのです。序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。」と寛平御時皇后宮歌合などの和歌に漢詩を添えたとなっているのですが、元となる和歌、新選万葉集の和歌と漢詩、それぞれの表記に従うとこれらは鑑賞では別の景色を見せる独立した関係があり得るのです。
 ここで上巻の序にこの和歌表記の不思議さの背景を探ってみたいと思います。すると、序では万葉集と新選万葉集の和歌の姿を比較して「倩見歌體、雖誠見古知今、而以今比古。新作花也、舊製實也。以花比實、今人情彩剪錦、多述可憐之句、古人心緒織素、少綴不整之艶。」と述べています。新選万葉集の和歌の表記には「花」があるが、万葉集の和歌の表記は「實」であると論評します。
 この序の意味を万葉集の常体歌の和歌と新選万葉集の和歌とで比較してみます。二句目「吾戀居者」は「吾が恋居れば」の読み下し通りの情景ですが、「文織紊」は「あやおりみたる」と読み下しでは「水面の上にいくつもの丸い輪の文模様が織り出したようで、その輪が互いに干渉して乱れて行く」ような、このような情景を示します。これが万葉集の「實」と新選万葉集の「花」と言うことなのでしょう。歌の表現の歌体は常体歌としては同じですが、新選万葉集では「てにをは」となる言葉表記に、もう一歩、工夫を凝らしたと言うことなのでしょう。同じように末句「那倍手染濫」の表記について「〇〇らむ」と読む場合、万葉集では「将△」と表記する場合が大半です。つまり、「那倍手将染」が万葉調の表記なのです。それを「那倍手染濫」として「濫」の漢字により、山の緑の濃淡や葉枝の風による動きの風景の含みを持たせているのです。これも万葉集の「實」と新選万葉集の「花」との差なのでしょう。
 
万葉集 集歌488 額田王
和歌 君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
訓読 きみまつと わがこひをれは わかやとの すたれうこかかし あきのかせふく
解釈 貴方の訪れを待つと私が恋い慕っていると、人の訪れかのように私の家の簾を動かして秋の風が吹く。
 
新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上丹 文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ
解釈 雨が降ると水の上に丸い綾織り模様が乱れる、その春雨よ、綾織りの模様を織る春雨が山の緑をすべて染め上げるのでしょうか。
 
 平安時代初頭、寛平御時皇后宮歌合や新選万葉集の時代には和歌は一字一音の万葉仮名で表記される和歌だったのでしょう。それを前提に、寬平聖主である宇多天皇が余興として皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を詠ってみよと命じたのでしょう。その要求に応じての新選万葉集の漢詩ですが、それだけでは芸が無いとして新選万葉集の和歌を万葉集の常体歌の姿にし、歌体を一致せたのです。だから逆に「號曰、新撰萬葉集」となったと思われるのです。
すると、やはり、新選万葉集の和歌の表記方法は新選万葉集ためだけのものであって、和歌の表現方法の進化の歴史の中では非常に特殊な扱いが必要になるものです。万葉集から古今和歌集の間に置いて、和歌表現方法の道程のものとは出来ません。

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