見出し画像

「オープンな問い」と向き合うことから生まれる「考える」という行為

あまり意識されていないことなのですが、私たち日本人は、向き合っている「問い」、別の言い方をすれば「考える」という姿勢に大きな問題点を抱えているようです。

最近読んだ『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(玉木正之著)という本にあったのですが、確かに私も含めて、たいていの日本人は「スポーツとは何か?」などということをまじめに考えたことがない、というか考えようともしていない、とも思います。

高校時代、4人いた体育の先生の顔は今でも鮮明に思い浮かべることができます。しかし、どんなに思い返してみても、この先生方と、スポーツとは何か、などという話をしたことは一度もありません。そう思うのはたぶん私だけではないはずです。

スポーツとは何か、など考えなくても体育の授業は成り立っていたし、そういう話をする体育の先生はその頃の日本にはあまりいなかったのではないか、と思えるのです。

■簡単には答えが見つからない問いとは?

確かにこの本でも言うように、体育の先生であっても、「スポーツとは何か?」などという、ものごとの本質を問うような問いとは向き合ったことがないのが日本の体育であり、日本という国の教育というものであった、と私も思います。

私たち日本人が幼いころから学んできた学校での教育は、その大部分が「クローズドな問い」で成り立っていました。「クローズドな問い」、つまり正解があることを前提としていて知識で答えられる問い、という意味です。

たとえば、「日本の首都はどこですか?」という問いに対する答えは簡単です。東京以外に答えはないからです。つまり、正解があることを前提とした「クローズドな問い」が、(すべてとは言えないかもしれませんが、)主要な部分を占めることで日本の教育は成り立ってきたということです。そのことが日本の教育が知識の教育だ、と指摘される中身でもあるのでしょう。

幼いころからのそうした経験も影響してか、「オープンな問い」、つまり、簡単には答えが見つからないことを前提とした、言うならば「考えざるを得ない」問いに向き合うことが不得意であり、慣れてもいないのが私たち日本人だと言っても間違いはないでしょう。

それは教師という職業に就いている人たちも同じです。体育の先生が、私にとっては懐かしい先生方であることは確かなのですが、スポーツと言うものはそもそも何なのか、など考えたこともない体育教師たちであった、というのはうなずけるのです。

しかし、こうした「問いと向き合う姿勢」が、結果として、日本の教育の場に、「正解というものはなくてはならないもの」だ、という無意識の前提を置いてしまっている教師を圧倒的に多数派にしてしまう状況をつくり出しているのです。

■「考える」という行為が持つ多様性

行為としての「考える」力を持つということと「知識を持つ」ということは全く別ものだ、という認識がまず必要でしょう。日本では、この二つの区別はついていないように思えます。

もちろん、考えるためには知識は必要なのですが、知識があるということと考える力があるということの間には大きな隔たりがあるわけです。
そして、繰り返しになりますが、日本の教育の大半は知識を習得することを目的とした教育であって、考える力を養うことを主要な目的とはしてこなかった、という注目すべき問題点があるのです。

人間が自分の頭を使って「考える」ということは、いくらしっかりとした手順を踏もうとも、ひとつの正解にたどり着くとは限らない多様性を含んだ複雑な行為です。そして、すでに既知のものとなっている知識を丸ごと覚えることと「考える」ということとは、全く異質の行為だということです。

大切なことは、「そもそも何が正しいのか」はそれこそ神のみぞ知る。つまり答えが初めからあるわけではない、というのが現実というものです。だから、正解はあるようでないわけです。しかし、同時にないようであるのだ、という一見矛盾しているのが現実です。これが現実世界のありようなのです。

だからこそ、必要なのは設定する条件次第でたどり着く答えはさまざまである、ということを前提としている「オープンな問い」と向き合う力をつけることです。
つまり、これこそが「考える」という行為だからです。

私たち日本人は、確かに、歴史的に見ても洗練された「型」を大切にしてきましたから、わかりやすい「型にはまった答え」を伝統的に大切にしがちです。そして、不透明なあいまいさはあまり好みではない人が多いのも確かです。知識さえあればすっきりとした間違いのない答えを導き出せる、「クローズドな問い」を無意識のうちに重視してきたからです。

そんなこともあって、日本での教育の場の多くがクローズドな場であるだけでなく、企業における会議や研修など、さまざまな組織や団体での会議なども含め、ほとんどの場が、「クローズドな問い」を大切にするクローズドな場になっています。予定調和が必要以上に重んじられているというのも、たぶんそのせいだと思われるのです。

私たち日本人はまず、ここでいう「考える力」が十分に養われていないという問題、その欠如の結果でもある思考停止、という問題を自分たちが抱えていることを認識することから始めなくてはなりません。

もともと課題が明確になり、やり方さえわかれば実行する段階においては力を発揮するのも私たち日本人ですから、問題の存在、その重要性が認識さえできれば、解決の方向に向かっていくのはそれほど難しくはないかもしれない、と私は思っているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?