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地域共同体と個人主義(ブラジル移民が見る景色)

日本からブラジルに来た農業移民のほとんどは、農村の出身者だといわれていますが、何家族かでまとまって開拓地に入ると、周辺の日本人も自然と集まってきます。

彼らは「日本人会」を作り、そして、「会館」を作りました。

日本に帰るつもりだった戦前の移民の皆さんは、その会館で日本語学校を開き、新年会や天長節、入植祭や結婚式、時にはのど自慢や演芸会もやりました。

毎年、農閑期には運動会を開き、そんな日本人村がブラジルに出来上がりました。

日本人会には、婦人会や青年会もあり、農事部・運動部などがありますので、日本の村とよく似ています。

言葉も事情も分からない異国で、家族を飢えさせないために、家長同士がお互いに助け合って生きて行こうという、共同体意識が強かったのですが、まだブラジルの行政サービスが地方まで及んでいなかった時代は、道路の維持や橋の補修などのインフラ整備、学校や運動場などの建設も、共同作業で行いました。

もともと、日本でも家を建てたり屋根の葺き替え、水路の保守管理、祭礼や伝統芸能などもみな、村落共同体の中で協力し合ってきたわけですから、移住先でも日本でやっていた通りにやりました。

ブラジル南部の方にはドイツ人村、オランダ村、ポーランド集団地や、東欧などの雪の多く降る国から来た移民は、共同体を作ってまとまろうとしますが、ポルトガルやスペインといった南欧、イタリアなどから来た移民は、入植しても集落を作ってまとまることはありません。

広い草地が必要な牧畜民は、散村と言った感じて営農し、道路の数十キロおきに給油所や店、食堂や集荷用倉庫が作られると、そこから少しずつ町に発展していきました。

有畜農家はもともとが個人主義です。イタリア人会やスペイン人会などを作って、同じ国の者が集まるといった話はまず聞いたことがありません。

しかし、日系集団地でも小農から少しずつ大農になって、営農規模を大きくし環境が豊かになるほど、共同体という集団主義も不要になります。

ソ連や中国も、貧しい時代は共産主義によって人民の大量餓死を防いだものの、次第に豊かになると共産党自体が一部の特権階級のものに変質していき民衆の支持を失って党崩壊につながります。

やはり人間はわがままなのでしょうか。
共同体の維持に欠かせない"同調圧力"という強制を好まないのでしょう。
日本も飽食の時代になると、簡単にコミュニティーという地域共同体が崩れて核家族化、里山が過疎化していったのと同じです。

「繁栄はわびし、一人で田を植える」 
富重かずま
(何十年ぶりで日本を訪問する)

※富重かずま……俳人。1920年〜2005年。1959年1月、ブラジルへ移住。1986年3月、月刊俳誌「蜂鳥」を創刊。1997年3月、第一句集『相聞歌』刊行。サンパウロ市にあって俳句に専念。日系コロニア文芸委員。国際俳句交流協会終身会員。俳人協会評議員。「耕」名誉同人。

【今日の名言】
「卵を割らなければオムレツはできない」
(殻に閉じこもってへそを曲げている人へ)


編集協力:和の国チャンネル


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