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マウア植民地(ブラジル日系移民による大豆栽培の歴史)

ブラジル・サンパウロ州の西隣にはパラナ州がありその西の端にイグアスの滝があって、隣国パラグアイへと続いています。
パラナ州の中央部には標高一千メートルほどの高原があり、そんな所にマウア・ダ・セーラという郡があります。

1940年ごろ、オランダ人の木材業者が、蒸気で動く製材機を持ち込んで、周囲のパラナ松を伐採し始めました。そのころイギリスの鉄道会社が線路を敷設してマウアという駅ができ、レバノン人のジャモス氏が市街地造成と土地の分譲を始めました。

マウアは毎冬降霜があり、バナナやパパイヤなどの熱帯果実も育たない生産性のない土地で、なんといっても重要な換金作物であるコーヒーが作れない所だったので、コーヒー農家からは「あそこの土地ならくれても要らない」などと言われるほどでした。

ですから土地の値段が格安だったために、1957年ごろから日本人たちが集まり始め、一時は二百家族を越す植民地(移住者によって新たに経済的に開発された土地)になりましたが、なかなか適した作物が見つかりませんでした。
1968年に私(まだ20代でした)がマウアへ移りたいと言ったら「マウアは人がどんどん出ているのに、何でそんな所…」と先輩から言われました。
でも養蜂は耕作放棄地に生える雑木が良い蜜源になるので好都合だったのです。

その後、離農して村を出る人の土地を捨て値で買い集めた一割ぐらいの日本人は、間もなく大豆栽培を軌道に乗せることに成功し、次第に大豆栽培が広がっていきました。
その結果土地の値段も、今ではコーヒー地帯のそれを上回るほどになりました。

1970年代にマウアの日本人が、畑を耕さず除草剤を散布してから、大豆の種子を直播する不耕起栽培の実用化に成功し、パラナ州でも有名な日系植民地に発展していきました。

【今日の名言】
「川上濁れば川下濁る」

(ブラジル国民の道徳意識が低下して治安の悪化につながったのも、最初は国の支配者である政治家と高級官僚の腐敗から始まりました。私がブラジルへ来たころは、ブラジルの治安も今よりはずっと良かったです。)

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