母さんが銀賞をとった

母さんが銀賞をとった。

数年前に趣味で始めた習字。60代後半だが、子どもたちに混じって教室に通い、大会で銀賞をとったらしい。

この一報を聞いたとき、自分も頑張ろうと思えた。そして、なぜか昔のことを思い出し、胸がザワザワして泣きそうになった。

思えば、母さんは欲がない人だった。

僕が小さい頃から、必要最低限のものしか買っていなかったし、自分のために何か買っているのを見たことがない。今思えば我慢していたように思う。

ウチは貧乏だった。

僕が中学1年生のころ、借金のことや、父親にいろいろあって家族は離散状態に。持ち家もなくなった。

小学生の妹と母さんは家を出て、親戚宅で居候状態。地方の大学に行っているお兄さんの空いている部屋に住まわせてもらっていた。

一方、僕はこのままでは父親が一人になってしまうと、父親のところに残った。数週間後、これもいろいろあって僕が母さんのところへ行くことに。父親と離ればなれになるとき、僕は玄関で「また帰ってくるから!」と父親に向かって泣き叫んだ。もう、精神的にボロボロになっていた父親のあの悲しげな表情はいまだに覚えている。

父親と別れたあと、駐車場に停めてある車に向かう中、僕は母さんへ決死の覚悟で「死んでやる!」と叫んだ。当時の心境までは覚えていない。ただ、なぜ家族が離れて暮らさないといけないのか。どうしていいのか分からず、そんな言葉を発したのかもしれない。

そんな僕の言葉に、これまた母さんもとても悲しそうな顔をしていた。とっさに僕は、“言ってはいけないこと”を言ってしまったと思って、無言で車に乗り込んだ。

親戚のお兄さんの部屋で3人で住まわせてもらったあと、市営住宅に住むことになった。同じ地域に引っ越したから転校はナシ。持ち家から借家に住むことになったものだから、不審に思った友だちに言い訳するのが大変だった記憶がある。

紆余曲折経て、数年後には父親が戻ってくることに。相変わらず貧乏だったけど、僕は十分すぎるほど、贅沢をさせてもらった。サッカー部に入れさせてくれたし、新しいスパイクも買ってくれた。市営住宅の狭い家だからと、庭にプレハブの部屋も買ってくれた。

僕が高校を卒業して夢のために大阪へ行ったあとも援助してくれた。そうとう無理をさせていたように思う。妹も僕のために我慢したことがあっただろう。

夢を追いかけた代償もあって、働き始めても自分で食うのがやっと。もちろん仕送りなんてできない。母さんにお金を送ってもらったこともあった。数年後、東京に出たが、生活苦で借金をして、税金を払えない時期が何年もあった。

ずっと、ずっと親には負い目があった。恩返しできていない負い目、結婚して孫を見せられていない負い目……世の中にはたくさんの幸せがあって、“子どもが親に与える幸せ”の項目をひとつも達成できていなかった。

東京に来て約10年。ようやく食えるようになり、少しばかりお金を送れるようになった。何度送金しても、当たり前のように母親は「いらない」と言ってくる。

僕はまだ結婚する相手もいないし、お金でしか恩返しができない。もちろん、普通の人がやっていることだし、毎月送っているわけでもないから、自慢できることでもない。

ただ、長年いろいろ我慢してきたお母さんに、少しでも贅沢してほしいし、美味しいものを食べて、好きなことをして、母さんの笑顔が増えたらいいなと思っている。でも、どこかで「母さんは僕が息子で幸せなのだろうか」「家族が離散状態になった前後から、母さんが“幸せだ”と感じることはあったのだろうか。辛いことばかりが多かったのではないか」と考えることがある。この想いは一生消えないだろう。

今回、母さんは自分でやりがいを見つけて、自分で努力して、自分の力で成果をあげた。

母さんが銀賞をとった。

なぜだかその出来事が泣きそうになるくらい嬉しかった。ただ“よかったな”という気持ちだけではない、この嬉しい気持ちはなんだろうか。母さんに“いいことがあった”というのが嬉しいのだろうか? とにかく今度は、僕の手で母さんに“いいこと”が訪れるような恩返しをしたいと思った。


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