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エッセイ/Quod Erat Demonstrandum

毛錢の話なのである。

取りみだして失礼、とりあえず、読んでいただければよいのだ。

*

カントもびっくり、きょうも律儀に、朝いちばんのルーティーンである、「娘と歌いながらだれもフォローしていないツイアカのおすすめを読む」を実行していた私は、このツイートを目にし、ことばどおり仰天した。

一読して、軽い動悸をもよおしたものの、これは症状かもしれない。再読して、やや呼吸が荒くなるのを覚えたが、これはストーブの換気を失念したからかもしれない。身体はたしかに正直だけど、こいつは何にでも正直すぎるから信用ならない。

*

この詩人のことも、また、言及された寺山の著作も、非学にして知らなかった私であるが、すなはちググり詩集がまあまあお高いのを確認し車に乗り中央図書館の書庫から詩集を出させた。このあたりの直情径行は、まあ合格だ。

残念ながら、目あての詩集はなく、創元社「全詩集大成 現代日本詩人全集 14」を借りる。(岡崎清一郎、山之口貘、菊岡久利、大江満雄、藤原定、坂本遼、淵上毛錢。このなかでは、山之口貘しか知らない。) さっそく一読、ちなみに上掲の『死算』は、載せられていなかった。

    死  算
じつは
大きな声では云えないが
過去の長さと
未来の長さとは
同じなんだ
死んでごらん
よくわかる。

淵上毛錢

*

判る前に、全身全霊が醒める詩、という経験が、わたしにはいくつかある。中学のときは三鬼の「水枕ガバリと寒い海がある」、三好達治の『雪』、やや長じて茂吉の「去年今年貫く棒の如きもの」、中也のいくつか、八木重吉『うつくしいもの』、そして放哉……。そして、この『死算』は、入団、即スタメン入りである。

衝撃はそのままで、わたしには、同じなんですね、すいません、よく分からないです、としか言えない。これは毛錢の声ではない、彼は聞書きをしている、なにかの声を書きとっている。だが、この凄みは、なんなのだろう。

*

じつは、いましがた、全集の毛錢の詩をひと通りながめた。いくつか印象に残るものもあり、書き出しもしたが、本音としては、まあ悪くはない詩人、だ。『死算』は、これはちょっと別格である。

過去の長さと、未来の長さは、同じなんだ。

無粋な青道心の私ゆえ、無粋な『解釈』なり『憶測』なりは、なくもない。だが、ここでなにを語った/騙ったところで、死んでごらん、よく分かる、と、笑顔で突きかえされる。近代詩のアストロンだ。

何がこの迫力をきわめつけているのか、いま気づいた。おしまいの「。」である。ここまでのプレゼンスをもった句点は、そうそう無い。無意識に、q.e.d. と読んでしまうのだ。

*

ああ、けふもまた厄介なことばに出くはした。
まだまだ、生きたくなるではないか。

(なお、さんざん荒唐無稽をかましたところで、しまいに「死んでごらん よく分かる。」を添えればまず負けない、なんてのは、ここだけのナイショだよ。)

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