はじまりをみつけた日

島根県にある10代続く鍛冶屋さんが、毎年ついた御餅をお店に送ってくれます。白くてぺったん丸いやつ。
それをお雑煮にして、3人でいただきました。
山の向こうから昇ってきたおひさまを初日の出だねと、見ました。
歩いてすぐの神社まで、散歩しようと話していたけれど風が冷たくてやめました。
荷造りをして妻の実家へ。
途中渋滞したところが藤野のあたりだったので、窓の向こうの日蓮大橋を見ながら、そこで暮らした日々を思い出しました。
みんなで囲む食事が楽しくて食べすぎちゃったり、じいじにまとわりつくちびちゃんを見てうれしく思ったり、妻のお姉ちゃんの長女である大学2年生になった女の子と好きな本について話したり。
穏やかな1年のはじまりです。

ところで、なんかいい本ある?ときかれ、ぼくと妻はあれもこれもと次々に思い出す本について語ったのですが、それのどこが面白くて、何度も読んでしまうのかを説明しながら、あ、しまった、すっかり忘れてたということを思い出しました。

たしか、ここでも書いたことですが、ちびちゃんの幼稚園で絵本の紹介をしたいと考えているということについてです。

どれにしようかと考えて、ひとまず1冊を選び、それについて書いてみて、なんか違うなと思って書き直し、またなんか違うと感じて、直し、別のでやってみることにして、またなんか違って、ということを繰り返しているうちに、気持ちが離れたのでした。

新しいことをはじめようとするとき、上手にやりたくなることがあります。
上手、にも色々あるけれど、この場合は読んでくれたひとに役立つような、広く伝わるものにしよう、そうしたら褒めて貰えるぞっていう気持ちですね。
その気持ちがぼくの作りたいという気持ちに条件を出し、制限をかけることになるので、きつい服を無理やり着せられてるような、我慢を伴う心地悪い状態を自ら生み出して、だから、やりたくなくなるのです。

誰に頼まれたのでもなく、ひとりでやりたくなって、ひとりでやりたくなくなってる。

じゃあ、どうしたらいいのかなーと考えながら、忘れてましたが、妻のお姉ちゃんの長女である前はちびちゃんと同じ年齢だった女性と話したことを思い返すと、とても楽しかったんですね。

なにを話していたかというと、ある1冊の本とぼくとの関係についてでした。
まず、はじまりにはこんなことが書かれていて、そのことがぼくにとってはどんな意味があるのか。
もう何度も図書館で借りて読んでいるのだけれど、どんな時に読みたくなるか。
インタビューという形で書かれているその形式がぼくにとってどんな作用を生むのか。

といったように、1冊の本を離れたところから、これはこういう本ですと、さっさか風景を写生したようなものではなく、ここがおいしいから食べてと包丁で切り落としていくような、そんな感覚で伝えることは、ぼくにとっては楽しいのでした。

ぼくが楽しければいいのかというと、そうではないのですが、少なくとも、まずはぼくが楽しくなければやる意味のないことですし、ほくが楽しいと感じながらやったことが他者にとってはどうなのかということはやってみなければわかないことだから、やってみたくなるし、という訳で、なんかちょっと、はじめられそうなものが見つかった、というはじまりの日でした。

妻と妻のお姉ちゃんの長女である大学2年生で今度松本へ遊びに来てくれるという女の人とぼくの3人でソファに座る姿を、ちびちゃんが写真に撮ってくれました。

とっても素敵な1枚です。
あんなに小さかったのに、小さい時も魅力に溢れたひとだったけど、大きくなったいまもそのまま魅力いっぱいで、そんな姿をぼくと妻の間に写してくれたのだもの。

どうもありがとう、ちびちゃん。


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