扉の向こうにいるきみと

それは、2歳でもなく4歳でもなく、3歳のある日のことでした。

その頃のぼくは家の前にある駐車場で、毎日小石を集めていました。すると、いつも決まった時間に向こうの方から、ひとりのおじいさんが歩いてきます。
優しい顔のひとでした。
鼠色のズボンに水色のポロシャツに紺色のベストを着て、髪は白く、眼鏡はかけていません。
ゆっくりと歩いてきて、ぼくのそばに来るとしゃがみ、
なにしてる?
とやわらかな声で言います。
これはなにかな?
ポケットからお菓子を取り出し、そっとぼくの手に握らせます。
再び、立ち上がるとまたゆっくり、おじいさんは歩いて行きました。

その日、ぼくは待っていましたが、おじいさんは来ませんでした。

理由を話す母親の様子を思い出します。
言葉を選びながら、言葉に詰まりながら、どこかでそのことを肯定するような話し方でした。
お星さまになったのだと。

3歳のぼくはお星さまになったということが少しもわからなかったのでした。
それで、こういうことだと思ったのです。
おじいさんはなにかになったのではなく、どこか遠くへ行ったのでもなく、なくなったのだと。
消えた、という感覚に近いものとして受けとめ、刻まれました。

ひとはある日、消えるのだ。
そういうものなのだ、という感覚がぼくの根底にはあります。

歳を重ねていくなか、幾つかの消失を経験しました。
3歳のときのように現象をまっすぐに捉えることはできなくて、感覚に感情が混ざるものだから、消えたという、そのことだけを見つめるのは難しく、まっさらな目で見るまでには時間を要します。

あのひとのことを思い出しては、溢れる感情に翻弄されたりもしますが、不思議なくらい、記憶の中のあのひとはいつまでも失われることなく存在しています。

本を開くと、ひとつのシーンがいつでもそこに書かれているように、思い出もまた、思い出せる限り、いつでもあり続けます。

物語にとって、ひとつのシーンにはそれぞれの意味があるように、それぞれの記憶にはメッセージと呼べるものがあります。

誰かと共有することのできる記憶もあれば、ぼくたけが知っていることもたくさんある。
ひとつひとつの記憶がぼくに伝えること、それをぼくはぼくではない誰かに伝えたいと思います。

ぼくでないひとに手渡したくなるもの、
それがぼくにとっての、大切なものなのです。

今朝のことです。
パパぁ、と呼ぶちびちゃんの声で目を覚ましました。

パパぁ、きょうはね。

ひとつひとつ、ゆっくりと、丁寧に、
ちびちゃんがぼくに伝えてくれたのは、
朝食のメニューでした。

それでは、良いお年をお迎えください。

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