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129 続・共感が糞だった日


はじめに

前回の「129 共感が糞だった日」が、思ったよりインパクトがあったのかな?と感じていて、フォローの記事を書いてみます。まずは、私自身の反省から始めたいと思います。

 ラビ、ハロルド・クシュナーは著書『なぜ私だけが苦しむのか』(斎藤武訳、岩波現代文庫)のなかで、息子を亡くしたときにまわりの人が元気を出させようと気づかってかけてくれる言葉が、ひどく苦痛に感じられたと述べている。だが、それ以上につらかったのは、彼自身が20年間にわたって、同じような状況にある人に同じような言葉をかけていた、ということに気づいたことだった。

マーシャル・B・ローゼンバーグ; 安納献. NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法 新版 (日本経済新聞出版) (Kindle の位置No.1960-1964). 株式会社 日本経済新聞出版社. Kindle 版.

懺悔あるいは嘆き 

 私自身は、NVCの歩みにおいて、これまで「同情」と「共感」は違う。同情してはダメです!という”教義”を身に着け、実践し、他の人にも伝えてきました。
 それは、根本的に誤りでした。もっと言うと、自分の実践の愚かさがどれほどの痛みを生んできたのだろうかという、大きな嘆きを抱えています。

もし、私が息子を亡くしたことと関係して、私に投げかけた言葉でご自身が、私によくない影響を生んだのではないか?という心配を抱かれたとしたなら、そのことで心を痛めることは1mmたりとも起きて欲しくないと、私は願っています。

困難な状況にある人に、声をかける難しさを、私は、声を掛けられる側になって強く自覚しました。

大きな悲しみを目にしたとき、それに耐えられなくなるのと、相手の人になんと言葉をかけてよいかわからなくなるのです。

結果として、困難な状況にある人は孤独になります。

あなたが勇気をもって、その困難さを乗り越えて、声をかけてくださったことには、感謝以外ありません。

同時に、私は、無残な共感を実践してきた、先頭走者であるからです。あなたを責める権利など、私は決して持っていないのです。
それでも、という方がいらっしゃるなら、共に嘆きましょう。

共感についての知的な整理

共感について、混乱している方がいるかもしれません。
じゃあ共感するにはどうしたらいいの?という葛藤があるかもしれません。

そこで、ジャイアンに暴力を振るわれて泣いて帰ってきたのび太君に、どう声をかけるかを例にして、図表にしてみます。

共感の整理表

あまり、知的な作業を続けるのも、本筋から外れるので、共感をシンプルに言うなら二つです。
(1)相手と絆を結ぶことを大切にし、共にいること。
(2)相手に対する先入観や決めつけを排除し、自分以外の人の経験を敬意とともに理解すること。
聞けているかを確認するために、確認の言葉を投げかけること(感情とニーズの確認)。

共感に似て非なるもの、NVC学徒の陥りがちな罠

マーシャル自身が、「言い換えしても意図と誠意が相手に受け取られないとき」、として、指摘している文章があります。

NVCの構成要素を機械的にはめこんで言い換えてしまっているだけかもしれない。目の前にいる人間と絆を結ぶことより、プロセスを「正しく」実行するほうに熱心になっていないだろうか。あるいは、NVCのかたちをとってはいるけれど、ほんとうは相手のふるまいを変えてやろうという気持ちしかないのではないか。そんな問いかけを自分にしてみる。

NVC人と人との関係にいのちを吹き込む法新版(日本経済新聞出版)(Kindleの位置No.2105-2108)

NVCとはOFNRだという誤解が広がっているように、私は思います。
OFNRなんて、単なる道具なんです。

NVC学習者は、OFNRの手順が完璧に正しくできれば、共感が完全にできるという誤解をしがちです。というか、私はそういう誤解を長く続けてきました。
NVCの目的は、そこにはないんです。

特に、先ほどの「共感の整理表」の②と④は同じ言葉の投げかけなので、混乱が生まれます。

もし、OFNRという型があるがゆえに、目の前にいる人と絆を結べないなら、直ちにOFNRを捨ててください。
そして、敬意をもって相手と、ただただ共にいることから始めましょう。

最後に

NVCは原理はシンプルですが、その実践は、果てしのない道のりであると感じます。

今回、文章を起こすにあたって、マーシャルおじさんの参考となる言葉があったので、参考に添えますね。
私の愚論が、皆さんの人生を、ほんの少しでも生き生きと、より素晴らしいもにする役に立つといいなと、心から願っています。

【参考】

だが、そうした知的な理解は、共感するために必要な、ただそこにいるということを妨げてしまう。自分の考えとどう結びつくかを考えながら他人の言葉に耳を傾けているときは、その相手とともにいるのではなく、端から見ている状態だ。共感するために大切なのは「ただそこにいる」ということであり、相手や相手の体験とともにいるということだ。相手に共感しているのか、それとも知的な理解や同情を抱いているのかのちがいは、「ただそこにいる」という状態にあるかどうかである。相手の気持ちを感じ取り、同情することをあえて選ぶ場合もあるだろう。だが、そのときは、共感しているのではなく同情しているのだということを自覚しておくことが役に立つ。

 共感とは、自分以外の人の経験を敬意とともに理解することだ。中国の哲学者、荘子は、共感するためには自分という存在すべてで聞くことが要求されると述べている。「これを聞くに耳を以てすることなく、これを聞くに心を以てせよ。これを聞くに心を以てすることなく、これを聞くに気を以てせよ。聞くは耳に止まり、心は符に止まる。気なる者は虚にして物を待つ者なり。ただ道は虚に集まる」相手に対する先入観や決めつけを排除したとき、初めて共感が生まれる。ただそこにいるというあり方の本質について、オーストリア生まれのユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは次のように述べている。「同じように見えても、人生におけるあらゆる状況が、生まれたばかりの赤ん坊のように新たな顔をもっている。それは、これまでもなかったし、これから遭遇することもないものだろう。それは、まえもって準備することができない反応をあなたに要求する。過去のことは何も求めない。求められるのは、ただそこにいるということ、責任、そしてあなた自身だ」

NVCの構成要素を機械的にはめこんで言い換えてしまっているだけかもしれない。目の前にいる人間と絆を結ぶことより、プロセスを「正しく」実行するほうに熱心になっていないだろうか。あるいは、NVCのかたちをとってはいるけれど、ほんとうは相手のふるまいを変えてやろうという気持ちしかないのではないか。そんな問いかけを自分にしてみる。

すべて、「マーシャル・B・ローゼンバーグ;安納献.NVC人と人との関係にいのちを吹き込む法新版(日本経済新聞出版.株式会社日本経済新聞出版社.Kindle版.」より

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