見出し画像

『徳川六代 馬 将軍』連載第二回

第一話 イェド、仲間たちとフウイヌムの国を出、ヤフーの国に到着する

 わたしの生まれたのはフウイヌム国という国です。もっとも、フウイヌムというのは日本やオランダのような国の名前ではありません。フウイヌムというのは、あなたたちが自分たちのことを「人間」と呼んでいるのと同じ意味ですが、ここでは誤解を避けるため「馬」ということにしておきます。ちゃんとした国名がないのは、わたしたちには「国」という概念がないからです。わたしたちの世界は唯一の世界で、他に世界はないのです。だから、国境も戦争もありません。もっとも、その世界に生きているのはわたしたちだけではなく、他の動物たち――たとえば、犬、猫、鼠、さらに鳥、魚、昆虫たちもいます。われわれを含めたすべての生き物は平和のうちに共存していました。ただし、ひとつだけ例外があります。ヤフーという野蛮な生き物がいたのですが、それについては後で詳しく話すことにします。
 わたしたちの国は周囲を海に取り囲まれていました。今は、そこが島だったとわかりますが、住んでいた時はまったくわかりませんでした。島、という概念もなかったからです。だから、その海の向こうに、わたしたちの世界とは別の世界があるなどとは想像もしていませんでした。それは、わたしたちが自分たちの世界に満足していたせいもあるでしょう。もし、そこがいくさに明け暮れる世界、犯罪の絶えない血なまぐさい世界、あるいは、権力者の圧政によって自由を奪われた世界であったのなら、新世界に行きたいと大海原に船出したのかもしれません。
 それなのに、わたしがフウイヌムの国を出た。べつに不満があったからではありません。理由は、夢……。そう、わたし――いや、わたしと友人のシルヴェルは夢想家だったのです。

 シルヴェルはわたしと同い年のフウイヌムで、家が近かったこともあり、子供の時から大の仲良しでした。わたしが夢見がちになったのは、おそらくシルヴェルに感化されたからだと思います。わたしたちは一日の終り、雨が降ったり曇ったりしている日を除いて、近くの芝地から夜空に浮かんだ月を眺めてはロマンティックな夢想に耽りました。
 なあ、イェド、と彼は言いました。あのまぁるい月の中にフウイヌムの影が見えないかい?
 そう言われたらそう見えるね、とわたしは答えました。
 ひょっとしてあの月にわれわれの仲間がいるんじゃないのかな。
 まさか。
 とは言いましたが、もしいたら素敵だろうなあと、その時は思いました。しかし、確かめる術などありません。
 その時はそれで終わったんですが、数日後、シルヴェルが月に行く方法を見つけた、と言い出すのです。
 わたしはびっくりして、どうやって行くんだ?、と訊きましたら、シルヴェルは、こうやってさ、と地面にあった小石を後ろ足で思い切り後ろに蹴りました。小石は勢いよく遠くの空へ飛んでいきました。
 そりゃあ小石なら蹴れば飛ぶかもしれないが、ぼくたちは大きいからそうはいかないよ。
 わかってる。ぼくたちの力じゃ馬力不足だ。でも、「蹴り上げる」という動きを、大仕掛けな機械からくりで再現してみたらどうだろう。
 なるほど、それは面白い考えだね。うん。やってみよう。

 それからわたしたちは日夜、蹴り上げ装置の開発に取り組みました。失敗の連続でした。振り子の原理で球を衝突させたり、あるいは、水車の回転を利用したりしたんですが、思うような力が得られません。苦労するわたしたちにヒントをくれたのは、意外にも、シルヴェルの妹のピエでした。
 何も動きを全部真似しなくてもいいんじゃない? まだ子供のピエが言います。蹴り上げる動作の途中からでいいのよ。ほら、ここから。ピエは小枝のようなしなやかな後ろ足を、蹴る瞬間からではなく、蹴った後、真後ろにぴんと伸びたところからフィニッシュまでの僅かな動きを再現してみせました。
 うーん。それじゃ力が足りないよ。シルヴェは目を険しくして異議を唱えました。
 しかし、ピエは、そんなことないわよ、と言うと、近くに生えていた灌木の幹を足で踏んで、地面すれすれまで押し倒し、それからぱっと足を離しました。木の幹はびゅんと勢いよく風を切って元に戻りました。
 こ、これは……。
 驚いて耳をピンと立てたわたしとシルヴェルを見て、ピエは白い歯を見せてにこっと微笑みました。

 いわゆる、抛石ほうせき(=投石機)です。石を飛ばす代わりに、乗り物を飛ばそうというのです。
 それからは順調に進みました。実験も重ね、いよいよ月に向かって旅立とうというその夜――

 わたしたちは今回のことを家族に黙っていました。言うと心配して止められると思ったからです。わたしたちは乗り物に乗り込みました。小さな納屋くらいのサイズの箱型の乗り物で、枠組みは木製ですが、軽量化のため、屋根や壁にはヤフーの皮を使っていました。
 ピエが見送りに来るというので待っていましたら、旅支度をしてやってきました。
 その格好は何だ。シルヴェルが咎めるように訊きました。
 何って、わたしも月に行くのよ。しれっとすました顔でピエが答えます。
 だめだ、おまえは連れていけない。
 どうして。
 どうしてって、危ないからにきまってるだろう。
 あら、でも、兄さんたちは行くんでしょう。危なかったら行かないはずよ。危なくないから行くんだわ。
 うるさい。駄目ったら駄目なんだ。
 シルヴェルが目に角を立てて強く言いますと、ピエも、わかりました。兄さんの言うとおりにします。
 そうか、わかってくれたか。
 でも、お父さんお母さんに言いますから。
 そ、それは困る!
 だったら連れてってよ。ねえ、お願い。
 選択の余地はありませんでした。わたしたちはピエも連れていくことにしました。

 わたしたちを乗せた乗り物はぐんぐん上昇して、あっという間に、厚い雲を突き抜けました。地上よりはるかに明るい月明かりが綿菓子のような雲海を幻想的に照らしています。窓から前足を伸ばせば月まで届きそうでした。
 もうすぐね。
 ああ、もうすぐだ。
 期待と興奮が最高潮に達しました。しかし、そこまででした。乗り物は下降をはじめたのです。
 どうなるんだ?
 どうって、地上に戻るだけさ。それより用心しろ。怪我しないように。

 小さかった時、崖から落ちたことがあります。それほど高い崖ではありませんでしたが、足を捻挫して、しばらく足をひきずって歩かなければなりませんでした。だから、雲の上から地上に落ちた時、どれほどの衝撃を受けるのか、想像がつきませんでした。
 幸いなことに、乗り物が落ちたのは、水の上でした。ヤフーの皮のおかげでしばらく水面に浮かんでいて、沈む前にわたしたちは岸まで泳ぎ着きました。
 助かった。しかし、ここはどこだろう?
 見たことのない風景でした。池(湖?)のまわりをぐるりと高い山が囲んでいますが、あんな高い山、わたしたちの国にはありません。
 道らしきものがありました。どこかに通じているはずに違いないと、わたしたちはてくてく歩き出しました。しばらくすると、向こうから何かがやってくるのが見えました。
 ヤフーでした。野蛮で、汚らしく、争いばかりしている、いやったらしい動物。全部で三匹いましたが、不思議なことに裸でなく、毛深くもありません。
 ヤフーたちはわたしたちの方に近づいてきました。驚いたことに彼らは言葉を喋っていました。何と言っているのかはわかりませんが、まちがいありません。
 これは驚いた。もしかしたらぼくたちは、雲を突き抜けて、違う世界、違う星に来てしまったのかもしれないね。
 そうシルヴェルが言いましたら、ヤフーたちはびっくりして、尻込みしました。しかし、一匹がおそるおそる近づいてきて、手を伸ばし、シルヴェルの尻のあたりに触れました。
 何をする!
 シルヴェルは反射的に後ろ足を蹴り上げました。威嚇が目的なので、ヤフーに当てるまではしませんでした。普通でしたら、これだけでヤフーどもは泡を食って逃げ出すはずですが、そのヤフーたちは違いました。一匹が紐のついた棒を取り出して、それでシルヴェルを打ち出したのです。
 い、痛い! な、何だ、それは!
 フウイヌムの世界には武器はいっさいありませんから、鞭を見るのも、鞭で叩かれるのもはじめてでした。
 鞭打たれ、シルヴェルの毛並みのいい肌はみるみる腫れ上がり、血まで滲んできました。
 もちろんシルヴェルもやられっぱなしというわけにはいきません。
 おのれー、ヤフーめ!
 シルヴェルは前足を高く上げ、鞭を打つヤフーを踏み潰そうとしました。
 その時でした。パン、という乾いた音がしたのは。別のヤフーが撃った鉄砲の音でした。銃弾はシルヴェルの眉間を撃ち抜きました。
 お兄様ー!
 ピエの悲痛な叫びがあたりに響き渡りました。

(つづく)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?