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わだかまりに対する行き場のない感情を時には愚痴にして吐いてもいいでしょ。

やさぐれ投稿。

「日本の底が抜ける」的な議論が続いて久しい。国や民の「底」もそうだし、あふれんばかりの情報の前に人々が立ちすくみ、誰かの言葉を自動機械のようにオウム返しして劣化した感情のままクソリプよろしく自慰行為をしているのが結構な方々の現状で、まあ宜しくない。

「弱い者がさらに弱い者を叩く」的な衝動の先にはぺんぺん草も生えないのはわかりきっている。なのに、そうは問屋が卸さないとバカ腐って、「法を犯してでも大切な人を助けるべき時がある」という「法外に存在する高尚な倫理」を捨て去り、法の内側の安全に居直って「法外」にいる「社会的に『弱くさせられている人たち』」を見ないようにしているのだから救いがない。しかも、そんな彼らはスタンダードな行動の尺度を損得勘定であつらえて、お金や権威に駆動させられている。

左様なメンタリティが跋扈する日本では民主政治も法治国家も成り立たない。民主制は、基本的に法や制度に「『やって良い』と明記されていることだけ、やる」からこそ正当だと見なされる。でも、現今は「やったらダメだと書かれていないから、やる」という仕草がもっぱらだ。これでは法は法たり得ない。

法律が法律として威力を持てる理由に「それが法律だから」という以上の理屈はない。岩井克人が「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣だから」と言ったのと同じで、みなが共同で法律という虚構を信じているがゆえに社会は法治で回っている。法律が力を持つのは「次のケースでもまたこの法律が執行されるだろう」という信憑があるからだ。その前提を崩して、「次から法律の適用の仕方、変わるよ」と言わんばかりに法を法として扱わなければ、法治も成立しない。権力が都合よく法律を使って、放漫になってアウトだ。

もちろん俺は、民主制万歳! という感じではない。民主制にも問題はある。民主的な手続きをきちんと踏んだら大丈夫かといえばそうでもない。運用者の良的なコモンセンスが前提になければ、民主制は不調に陥る。トクヴィル的にいえば、健全な民主制は自立した個が支え、個人は自立的な中間集団が支えるのが理想となるだろう。だが、言葉の自動機械になって「任せてブーたれる」大衆が「民意」なる怪しい“一般意志”にも似つかないものを形成したら、間違いなく民主制は傾く。

本来であれば、そこに中間集団やコモンといった、アントニオ・ネグリやマイケル・ハートが可能性を見た〈帝国〉的「政治牽制機関」が機能することによって、政治に調整弁がつくのだろうけれど、今のところ散発的で(しかし)貴重な運動が全国各地で起き始めているという段である。すでに巨体となり果てた〈帝国〉は自立どころか権力に依存し、そこに属する個人は集団の決定に依存してる。この状態の危険さはリーダーが愚昧な時にこそ狂気として吹き出すので、毎日が冷や冷やモンである。

ちなみにリーダーの愚昧さの度合いに基準として用いることができるのが、「これだけは人としてやっちゃいけないよね、ということは『しない』」ように振る舞えるかどうかという点だ。施しを「する」、慈愛を「注ぐ」という決定も大切だが、もっと大事なのは「『しない』という判断ができる」ことである。アガンベンとかがここら辺の議論をガッチリやっているのだが詳細は割愛する。ポイントは、良識や良心も「善をなす」より「悪をなさない」ことにより支えられるということだ。

この意味からいっても、昨今の「やったらダメだと書かれていないから、やる」という政治は、不味さの極みだとしかいえない。徳政治はどうか。徳倫理はどうか。資本主義に徳はあるか。スポンヴィルがかつてこんなことを社会に投げかけていたのを思い出すが、いま想起してもクソ議論だったと思う。資本主義に、徳はない。民主制にも、ない。

民主制も資本主義もプレイヤーに徳や良心がないとうまくいかない。あと、品性も必要だ。これはパーソンズの物言いだけど、マイケル・サンデルがそれに対し「市民の徳」を、またパットナムが「社会関係資本」を持ち出したのは面白い。両者に共通しているのは「べき論」では世界は変わらないということ。ソーシャル・デザインをアジャイル的に育んで、身近な共同体から良識ある紐帯を築くしかない。

でも、こういうことに真剣に取り組んでいる心ある人たちは、世間からあまり注目されていない。今の日本にもたくさんいるのに。もしくは、そういう人が日の目を見たとしても、何かを始めたことへの「できていなさ」、取り組みの「夢想さ」「瑕疵」を陳列され、一部から叩かれる。お花畑的◯翼なんてレッテル貼りで尊い行為が人目の届かないところに追いやられるケースもある。

それでどうする。どうしたらより良き社会を実現し、維持させられるかを共に考える方が「徳」策だろう。というか、クソリプ的な批判のための批判は百害あって一利なし。もうそういうの止めようや。ダサいわ、端的に。

「社会」は提供されるものではなく私たちが作るものであり、「なる」ものではなく「する」ものである、という意識が大事だ。

さて、今日は何をする?

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