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休職・復職の繰り返し。暴走して木っ端みじん|連載『「ちょうどいい加減」で生きる。』うつ病体験記

本文中に、うつの症状に関する記述があります。そうした内容により、精神的なストレスを感じられる方がいらっしゃる可能性もありますので、ご無理のない範囲でお読みいただくよう宜しくお願い致します。

人生には、苦境がおとずれます。八方ふさがりとしか思えない状況に置かれることがあります。悲嘆にくれる人もいるでしょう。孤独にふさぎこみ、感情が無になってしまう人もいるでしょう。それらを「悲しい」という一言でくくってしまえば、一見すべてが「悲しい」で説明できるかのように感じられるかもしれませんが、じっさいの、一人一人の各場面における「苦しみ」は多様です。一つとして同じ苦しみはありません。私は、人生相談に乗るたびにそういった「同じ苦しみの存在しなさ」を痛感してきました。だからこそ一人一人の悲しみに寄り添う難しさも感じてきました。

うつ回復のどの段階にも苦しさがある

この「同じ苦しみの存在しなさ」は、一人のうつ病患者の闘病プロセスについても言えます。うつのどん底で引きこもっているとき。自殺未遂を繰り返しているとき。過食や拒食にさいなまれているとき。散歩ができるようになったとき。友人と遊べるようになったとき。職場に復帰しようとしているとき。薬の量を減らす段階にきたとき……。これら各段階にそれぞれ大変さがあるわけですけれど、一般的には、快方に向かえば向かうほど苦しみは減るだろうと考えられがちです。しかし、各フェーズを体感した私の感想は違います。それぞれの段階にそれぞれ独特の苦しみがあり、そのときどきでとてもつらかったというのが私の実感です。

ですので――少し前の話に戻りますが――ようやく職場に復帰しようというところまできた私は、(ご多分にもれず?)復職でとても苦しむことになります。

たとえば、うつ病のときは脳がうまく働きません。まるで、濁ったゼラチンに脳が包まれているような、モヤがかかったなかでいつも物事を見たり考えたりしている、そんな感覚に陥ります。そのため、資料をつくればすぐに誤字脱字の量産が始まります。会議をど忘れするなど、スケジュール管理もできません。意見を求められれば頭は真っ白です。同僚はそれらをテキパキとこなすので、自己嫌悪にもなります。

あまりにもつらかった復職

私は当時、一応は記者の肩書きを持っていました。ですが、取材をするような仕事は担えません。与えられた任務の一端として、せめて「校正=原稿について種々の誤りや不備を正すこと」だけはしっかりやろうと心に決めていましたが、単純な表記ミスすらスルーしてしまう始末です。「何のために新聞社に勤めているんだろう?」と自分を責めました。新聞をつくっているのですから、当然、正確さが要求されます。ですが、うつと正確性はとても相性が悪く、私にとって職場は「こんなこともできなくなってしまったのか……」と落胆する種で敷き詰められた場になっていきました。

気持ちは、いっぱいいっぱいです。いまにも水がこぼれてしまいそうなコップのようでした。しかもそのコップは、不安定な場所に置かれています。風が吹けば、かんたんにガッシャーンッと倒れてしまう。うわの空になってしまった私は、ようやく乗れるようになった通勤電車で、降りるべき駅を何回も乗り過ごしたりしました。それでやけくそになって、駅のホームから線路をひたすら見つめたりしました。どうしたら、ラクになれるかな、と……。

復職、休職、復職、休職を繰り返す

こんな精神状態で、心が長くもつわけがありません。

このときの私の復職は、結局うまくいきませんでした。再度、休職することになったのです。その後も、ある程度まで病が回復してはふたたび復職を試みますが、挫折します。それを、繰り返しました。

じつは、うつ病は、右肩上がりのグラフのようにまっすぐに良くなることはあまり(ほぼ)ありません。良くなっては悪くなり、また良くなっては悪くなりを何度も経て、徐々に回復していく傾向にあります。つまり、うつ症状は一進一退なのです。これには私も相当に堪(こた)えました。せっかく良くなってきて「ああ、これが『健康』という状態なんだ! なんて清々しいんだろう!」と思えたかと思ったら、地獄のような日々に墜落するのです。それが一度ならず、二度、三度とあるわけですから、そうしていくうちに、「進めども進めども、いっこうに光が見えない」という気持ちに心が固着していくのも仕方がありません。

最後は派手にクラッシュ

私は、何度も絶望に打ちひしがれました。「俺の病気は、もう治らないんだ」とあきらめもしました。やがてはあらゆることが機能不全になり、働くこともできなくなり、のたれ死ぬのだろうとも考えました。思考の負のスパイラルです。

復職、休職、復職、休職の繰り返しは、私がうつ病になってからの計算でいくと、6年以上つづきました。そして、最後の"とどめ"になったのが、精神病棟への入院です。

私にとって入院は青天の霹靂(へきれき)でした。当時の私は、家族に言わせれば「明らかにおかしい」状態だったそうです。でも、私にその自覚はなく、過剰な熱量をもって仕事に取り組んでいました。もう二度と倒れたくないという強迫観念が、変な意識をつくり出していたのでしょう。たとえば、そのときの私は、妙な使命感を働かせて、一丁前に新聞社の未来のことを憂いながら――当時、新聞の電子化が進んでいたため、紙の新聞の価値が社会的に問われていたのです――大胆にも会社の上役をつかまえては新聞の改革を訴えるという行為に走っていました。いま振り返ってみれば、明らかに異常です。でも当時はそれと気づかず、目を血走らせ、鬼気迫る感じで鼻息を荒くしていました(そんなことをする前に、記事生成の最低限の仕事をできるようになれって感じですよね)。そしてそのまま、まるでクラッシュするレーシングカーのように、木っ端みじんに砕けてしまったのでした。

家族に説得されてイレギュラー的に診察に行くと、医師から想像もしない言葉が飛び出しました。

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