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持たざる者が、分かち合えるモノ

動いて体験したセカイは、先入観をはるかに超えていく

 先入観は自然と作られていきます。
 マスコミなど関係性が遠いものだけじゃなくて、両親や兄弟や友達とか親しい人たちから受け続けている影響はおびただしいほど。
 男とは、女とは、日本とは、地球とは…誰かが語る話は、語り手が言語化する過程で頭脳を通って紡ぎ出されるもの。育った環境や使っている言語すらも排して、完全に何の影響も受けずに語れる人がいたら、それは神の領域ではないかと思ってしまいます。
 それほど今あるツールで、物事を純粋に伝えるのは難しい。。。
 言葉や文章はもちろん、誰かが編集した映像でも同じこと。伝える人の生きてきた背景やエゴをフィルタリングしてしまう。
 だから私たちは、どこから来たのかさえわからない考えをあたかも自分のものとして取り違えてしまうのかもしれません。

 そんな先入観のひとつとして私は、

東南アジアは危険で不潔で貧しい
日本よりも民度が低く遅れた国である

 という今となっては世間知らずにもほどがある、こっ恥ずかしいことを
 心の奥の奥の裏側の端っこあたりに持っていました。

 一度も行ったことがない国々に対して、本人が意識できないレベルで持つ思い込みはどこから来たのかわかりません。ですが、マレーシア移住の準備をする段階から、その先入観はちょいちょい表へ出てきていました。
 その度に「あ~、またしてもわかった気になってたぁ~」「日本人が、なんぼのモンやねん」と気付かされることしきり。

 こんな感じで意識はせずとも、フィリピンの子どもたちに先入観はあったと思います。日本のようには恵まれず可哀想な境遇だと。。。

 アホか、私

 両目をガンジス川で洗いたい。。。
 幸い今現在の地球では魂に合ってないことは、ナチュラルに軌道修正されます。よって、この狂った選民思想はフィリピンでガツンと打ち砕かれました。

 なぜなら、

 フィリピンで会った子どもたちは、日本からしかセカイを見ていない私より何段階も達観していたからです。

今の宿命を受け入れているからブレずに前を向ける

フィリピンのショッピングモールで年に一度だけ、養護施設にいる子どもたちが靴とお菓子を選んで買える企画がツアーでの支援のメイン。子どもたちの顔は掲載できないのですが、後から写真を振り返るとみんながめっちゃ笑顔です。

 私が参加したフィリピンの子どもたちの支援団体は+one(プラスワン)。

 昨年、知人が紹介していたFacebook記事が参加のきっかけです。

 貧しい身なりで打ちひしがれている的な。。
 自分が孤児院暮らし(詳しくはFBにて)だった時の先入観によるイメージとは違って、

 まずは子どもたちが放つ“気”に圧倒されました。
 それは助けを必要としている頼りない存在ではなくて、一人ひとりが明確な意思を持つ強いエナジーです。
 東南アジアで出会ってきた、特に経済や家庭環境的に厳しい状況の人たちから私が感じるのは、この生きる力の強さです。足が埋まるほど大地にすっくと立っている、ブレないグランディング力。

 彼らが靴を選ぶ姿からも、それはしっかりと感じ取れました。

 実は、

 集まった支援金で、100人以上の子どもたち全員が買える靴はかなり限定されます。
 東南アジア全体が経済発展とともに年率3%以上も物価が上昇する中、子供靴の価格が上がっているそう。
 好きな靴と言っても、ブランド靴や新作は手が出せず、セール品コーナーからしか選べないのが現状でした。

 その時の私のクソ狭いポイントビューでは

「横目にブランド品を見ながら、セール品しか選べないなんて可哀想。。私が億万長者だったら全部買ってあげられるのに」。。という恩着せがましいお金バンザイ思想だったのですけど、

 彼らは、その状況さえもすでに受け入れて、喜び勇んでセール品コーナーに向かっていきます。

 今の自分たちが選べるのは、この中。だったら、そこで好きな靴を見つけてせっかくの買い物を楽しもう!
 って、
 すぐには変えられないムダな比較はせず、今この瞬間を生きているように見えました。
 この時点で、頭をガツンと殴られた上に感動で泣きそうだったんですけども、後2つ大きな号泣ポイントがありました。

 それは、

持っているものは、みんなで分かち合う

 靴を買った後、ショッピングモールで予算内のお菓子を選んでランチを食べました。
 そこで驚いたのが彼らの自然な行為です。

 それぞれが好きなものを選んだら、当たり前のように一緒にいる人と分け合っています。
 おかずのリクエストができるワケではなくて出された食事だけの日常だったらなおさら、自分の好きなものをお腹いっぱい食べたいと(私なら)周りを気にせずパクつきます。
 それが、
 子ども同士で分けるならまだしも、大人の私たちにも自分の持っているお菓子を差し出して「Enjoy」と笑うのです。

 いいよ、いつもは食べられないんだから、好きなだけ食べなよ。なんで、いっぱい悲しい想いをしてきたはずなのに、そんなことが自然にできるの?

 バスの中で隣に座った女の子が、自分が食べるよりも先にドロップを私に差し出した時、まさに私は泣いてました。そこに、純粋な愛があったからです。

与えられた命と体を、本気で使うから楽しい

 フィリピンツアーは3泊4日。
 買い物や食事だけじゃなくて、施設全体で私たちを歓迎してくれるレセプションにはじまり、盛りだくさんの内容です。
 経済的な支援に対して、もらうだけじゃなくて自分たちができる“もてなし”をしたい、という感謝の気持ちが伝わるプログラムでした。中でも、100人以上の子どもたちの各チームによる歌と踊りのパフォーマンスにはビックリ!

 写真はほんの一部で、チームごとのパフォーマンスはもっといっぱいありました。そのどれもが、練習量を物語る完成度。お金払って見る価値があるような仕上がりです。
 このクオリティを担保しているのは、技術というよりも彼らの本気度。いくら上手くても手を抜いてタラタラやっていたら心を打ちません。とにかく一所懸命なのです。
 それが舞台から伝わってくるから、またしても泣ける。。。

 なんで、ここまで子どもたちが楽しんでやっているかと聞くと、
 ゲームやテレビやスマホみたいなデジタルの娯楽を自由にできない代わりでもあるそう。

ない、ことを嘆くのではなく、あるもので楽しむ

 結果、体を本気で使うことで今に集中できるし、余計なことも考えない。さらに仲間意識も高まるのかも、と勉強になりました。

 毎度、めっちゃ長くなりましたが、

 フィリピンで出会った子どもたちと過ごした3日間で、私の中にあった「東南アジアって…」という先入観がぶっ飛びました。

あなたに触れる時、あなたは私に触れている

 これは、エサレンマッサージ®を習った時に感じたこと。
 幼い時からキツイことを経験してきた子どもたちに、どう接していいかわからなかったけれど、ただ触れる、ただ一緒に食べる、ただ一緒に踊るだけで、お互いを充分に感じられました。

 その純粋さに触れることは、私の中にある本質的な愛を揺り起こすきっかけにもなりました。

 安全かつモノやサービスでは何不自由ない日本ではなく、当たり前が何ひとつないアジアだからこそ気付けたことかもしれません。

 もし、日本では常識とされる考えや価値観に心がザワついていたり、信じられるものなんて何もないと虚しく思えたり、して孤独を感じてしまうなら、

案外

見たくない

もしくは

見る価値もない

と、決めてしまったモノやコトの中に
見たかったセカイがあるかもしれません。

私の言葉では、
この純粋さを超えられませんが
その場のエナジーに触れることで
日本での生きづらさを壊すことは
できるような気はします。

1日33円からできる支援

ありがとうございました。

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