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議論におけるダブルスタンダードによる指摘の本質についての考察

ハロー、フェミニストの皆さん。またはそうではない皆さん。どうも、クズです。ブラジルの皆さん聞こえてますかー!!

タイトルを見て「あ、ぜってークソ難しいやつだな」とか思ったそこの貴方!そんなに難しい話じゃないのでご安心を。

さて、先ずはダブルスタンダードとは何か、というのを説明したいと思います。とりあえず辞書を引用…。

「ダブルスタンダード
同じ事柄を、二つの異なる基準で評価すること。二重基準」

はて、何を言っているのだろうか。

と、ダブルスタンダードを知らない人が見たら思うかもしれません。簡単に言うと、ダブルスタンダードとは「例外を作ること」です。ちょっと具体例を出してみますね。

「花子ちゃんは自分の裸を人に見られるのが恥ずかしい。けれど花子ちゃんの親に裸を見られても恥ずかしいと思わない」

このような状況があった場合、花子ちゃんは「親」という人を「親以外の人」と異なる基準で見ています。何故なら、もともと恥ずかしいと感じる条件が「人に見られること」なのですから。つまり親には何かしらの「親以外の人」には無い要素が追加されているのです。だからこそ「人に見られること」という条件から「親」という例外が生まれたのです。

そしてこのような例外を生み出す一連の動作をダブルスタンダードと称しているのです。

さて、それではダブルスタンダードの説明も終えたところですし、本題に入りましょうか。この時点で理解出来ていない人は読むのやめた方がいいかも〜…。


そもそも何故このような話になったのか。これは議論において「ダブルスタンダードである」という指摘をした時点で論破をした、と捉える輩が一定数居るからなのです。

私は断言する。ダブルスタンダードとはあくまで「例外を作ること」であり、本質的矛盾は存在しない。

先程の花子ちゃんの例えを引用してみましょう。花子ちゃんは親に裸を見られるのが恥ずかしくないからと言って「人に裸を見られるのは恥ずかしい」という論理が破綻するのでしょうか。

否、そんなことは決してない!!

例えば花子ちゃんの「人に裸を見られるのは恥ずかしい」という論理に「ただし、花子ちゃんの裸を見るのに慣れている人は除く」という前提があれば、親には見られても恥ずかしくなく、人に見られるのは恥ずかしいという状態が正当性を持って成立します。

このように、ダブルスタンダードというのは例外が例外足り得る前提が隠れているだけなのです。つまり、ダブルスタンダードへの指摘とはあくまで論理の抽象的部分を明らかにするだけであり、論理を破綻させる能力は持ち合わせていないのです。

簡単に言うなら「おめーさ、基準よくわかんねーから明確にしてくんね?」と議論を進めるための潤滑油のような存在であります(会社の面接風)。

それでもダブルスタンダードによる指摘をした時点で勝ち誇るのであれば、きっと指摘した人が勝ったのは相手ではなく、相手の論理をねじまげることによって生まれた「藁人形」なのでしょう(因みにこのような詭弁は藁人形論法という名称があります)。

よってダブルスタンダードを指摘した時点で議論をやめるのではなく、寧ろそこから議論を掘り下げていくスタイルを私はオススメします。



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