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短編小説「真贋」④

第四章

埼玉県警の海野は、過日の記者会見を無事くぐり抜けたこともあり、また犯人検挙率の高さから、縁遠かった本部に異動になり、階級も警視になっていた。

昇任試験を受けた契機になったのは、あの記者会見だった。事件の当事者でもない記者達からの質問に返答しているうちに、現場の捜査に集中するには階級を上げるしかないと考えた。

警察組織は縦社会であり、自分のやりたいことをやるには偉くなるしかない。

あの記者会見から十数年経過しているが、海野の眼光の鋭さと鍛え抜かれた肉体は健在であった。

その海野のもとに最近奇妙な郵便物が届くようになった。

郵便物には『田村美咲は事故死ではなく、殺された』とだけワードが打ち込まれたA4の紙一枚が内包されており、豊島区池袋の消印で海野宛で郵送されてきた。

十数年前のことを何で今さら…さして気にすることもなかったが、封筒の宛名書きが手書きなのに驚いた。

通常このような郵便物を送りつけてくるイタズラは、大概封筒に記載された文字も印字されていることが多い。またはかなり乱れた文字で書かれ一目でイタズラと分かるものだ。

ところが今回届いた封筒には綺麗な文字で海野の名前が書かれ、どことなく女性が書いたような印象も受ける。

親しみすら感じさせるその文字の様子から、単なるイタズラとして片付けられないことで疑問が湧くのだった。

田村美咲の知り合いか、またはその他近しい存在であった人間か。いずれにしても、海野にとってその件は蒸し返して欲しくないものだ。

既に親は他界しており、文字通り天涯孤独の身となっている海野は、その郵便物の送り主を調査することもなく、相変わらず捜査に没頭していた。

今捜査しているのは、大宮駅付近の地方銀行で発生した銀行強盗だ。今時銀行強盗をするという点だけでも珍しいことに加え、銀行が被害にあったのは金庫を開けるというところまでだった。

犯人グループは従業員を脅して店奥の金庫を開けさせた後、その場に大量の現金が存在していたにもかかわらず、逃走を図った。

防犯カメラに映っていた映像を解析しているが、穴の空いたスキー帽を被り、脅しに使用した凶器がどこにでもある包丁を用いていることで、犯人の特定が遅れている。

しかし捜査を混乱させているのは現金を持ち出さなかったことでも、スキー帽で特定できないことでもない。現場に残された遺留品によるものだ。

『序章』とだけ手書きで書かれたA4用紙一枚だけが、金庫に貼られていた。

目的や動機が読めない中で、ましてや、類似した事件が次も起こる可能性を示唆されていることで、海野は珍しく後手に回っていた。

この事件は他と違って欲を感じない。海野には、様々な事件の背景には必ず人間の欲求が反映されるという考えがある。

もはや世捨て人のように生きている海野にとっては、敏感にそれを感じとることで、これまで解決してきた。この事件はなぜこんなにも異質なのか。

海野がもう一度現場に聴き込みに行くか、そう逡巡していたところへ、血相を変えた部下が捜査本部に転がりこんできた。

「報告いたします。大宮の事件と同一と思われる犯人グループが、現在全く同じ手口で春日部の銀行を襲ったと通報がありました」

やはり、序章とはそういう意味だったのか。現場へ急行するために、ジャケットを手に取ろうとしたそのときにさらに別の部下が入り込んできた。

顔面蒼白のその部下が、息も絶え絶えに告げた報告は海野にさらなる衝撃をもたらす。

「お、大宮と同一犯と思われるグループが、はぁはぁ、草加と越谷の銀行に現れたという、つ、通報がありました」

何だこれは。ただでさえ珍しい銀行強盗が白昼堂々三件も同時に。

三件で終わる保証が無いという自分の最悪の想定に、海野は背中に汗が流れるのを感じた。

山下には特に気負いは無かった。これだけ多くの人間に計画を話すことに対し、高揚感も緊張感もなく、ただただ段取りのみを語った。

池袋にある貸し会議室。彼女にとって人々がその提案を受け入れる器量があるかは興味の対象とはなりえない。彼女にはいつしかその行動を起こすべきだとする自覚と、かねてからの計画が存在するのみだ。彼女の声は不思議とよく通った。

話し終えた後、まともに人々の目を正視できなかった彼女は、深く息を吐いた後、ゆっくりと顔をあげてみた。数秒の静寂の後、一人の男が右手の拳を突き上げるのが見てとれた。

成功だ。あとはどれだけの人間が追随するか…しかし、その心配はすぐに杞憂であることがわかった。その計画を実行することがあくまで自分の目的と合致するかのように、ある者は拍手、ある者は興奮をかくしきれないでいた。やはりこの場に集めた人間達はそれぞれ思うところがあるのだろう。

「それでは、国家、文化、呼び名は何でも良いけど、その存在に是非を問いましょう」

集められた人間の中には、あの竹塚の姿もあった。集められた人間は全員、山下が教鞭を振るう高校の卒業生だった。

卒業生は現在警察官として活躍する者の他に、消防士、救急救命士、システムエンジニアなど、職業は多岐に渡っていた。

山下が卒業時に、自分の長所を伸ばして召集を待つよう指示していたことで、皆忠実にそれぞれ特殊技能を備えていた。

山下はこの日のために10年という歳月をかけて教員生活を送り、竹塚のように、学校生活、果ては社会に絶望した人間を救ってきた。

「ふふ、後手に回った海野さんの表情を見られないのは残念だわ」

普段感情を極限までコントロールしている山下も、この日ばかりは興奮を抑えきれなかった。

週刊太陽の石原は迷っていた。石原は発行部数を大幅に伸ばした功績から、編集部の部長として後進を育てるポジションに就いていた。

警察に切り込んだ記者会見の様子も社内では時折語り草になるほど、主要人物としての地位を確立できた。

そんな中、石原はつい先刻、自分宛にかかってきた電話の内容を思うと、まるで禁断の果実を手にするか、我慢するか、葛藤しているアダムになったかのような感覚に陥るのだった。

いや、答えは決まっている。後は自分を納得させる理由を見つけるだけだった。

「お久しぶりです、石原さん。山下香織です」

そんな挨拶から始まった先程の電話。自分の名前さえ出せば、石原がさもすぐに自分を思い出すかのような自信に満ちた声色。トーン。

記者会見以降、一切接触が無かったのになぜ今頃になって…あのときは想像通りの成果は得られたのか。田村美咲に対する同級生の印象はどうなったのか。聞きたいことは山ほどあったが、山下の声が聞けただけで高揚している自分に気づく。全く情け無い。

いずれにしても、大人になった山下香織を見てみたい衝動に駆られる。

「また連絡しますね」

フフフっと笑いながら、まるで石原の気持ちなど見透かしているかのように、先程の電話は終わった。

週刊太陽は週刊誌だけでなく、時代に合わせてネットニュースも扱うように事業を拡大していた。

山下が今度持ちかけてくる話は何だろうか。皆目検討もつかない。

しばらく落ち着かない日々を過ごすことになりそうだ。

昔と違い、コンプライアンスを意識して部下を一人残らず帰した編集部に、唯一残っていた石原は禿げ上がった頭を撫でながら、久しぶりに自分の思い通りにならない案件に出くわしたのだ。

「さて、禁断の果実は吉と出るか、邪と出るか」

口元に笑みを浮かべながら、石原はそうひとりごちた。

「現場付近には交通規制を敷くように指示しろ。また、近くにいる警察官はいきなり銀行に踏み込まずに、取り囲むように包囲し、犯人を逃さないようにしろ!いいか、警察の威信にかけて、こんな時代遅れの犯罪を許すなよ!」

海野の檄が飛ぶ。白昼堂々の三件もの銀行強盗。こんなものを許したら、法治国家としての沽券に関わり、いつ模倣犯が現れるかわからない。

海野としては、この初動に全てを掛けていた。

「一刻を争うので、指揮は無線を通じて行う。草加班、春日部班は、それぞれの署の指示に従え。土地勘のある彼らに前回の手口を共有し、方針を策定後、報告をするように」

そう告げた後、幾人かの部下を集め、さらに発信した。

「国道は避けて、俺たちは中間に位置する越谷に向かうぞ!」

さっき手に取りかけたジャケットを手に取ると、指示もそこそこに、足早に車に向かった。

駐車場に停めてある車両に乗り込むと、運転に定評のある部下の中島が素早くエンジンを入れる。

検挙率の高い海野を崇拝する信頼できる部下の一人だ。

車が走り出すと、海野は何か見落としていることはないか、思考し始めた。

なぜ、春日部、越谷、草加なのか。陽動にしては、それぞれの銀行はそこまで離れていない。むしろ、所沢や、朝霞などを同時に襲われていたら、それこそ警察は混乱するだろう。これまであまり組織だった犯罪に対応した前例が無いためだ。

自分が犯人だったら。なぜこうもリスクが高い犯罪を繰り返すのか。

いくら考えても意図が掴めない。やはり現場で感じ取るしかない。

車窓から見える景色はまだ明るく、人々は平和な日常を過ごしている。家族連れが公園で遊んでいる姿が目に入ると、未だに胸の奥にチクリとするものがある。

彼らの日常まで卑劣な犯罪で失わせるわけにはいかない。

海野が越谷の現場に到着すると、越谷警察署の人間が海野のもとに飛んできた。

「海野警視。越谷警察署の杉田と申します。10時27分に本部から発信があった直後、銀行を取り囲むため現場に急行しましたが、我々が到着した10時37分には既に犯人は逃走。今は逃走ルートと考えられる箇所に検問を置いています」

杉田の報告は、時系列を交えているため、犯人達のスピード感がより詳細にイメージできた。

「被害状況はいかがですか」

本部の人間はいつ署に異動するか分からないため、普段直属の部下に接するような姿勢ではなく、海野は早く状況を掴みたい衝動に駆られながらも努めて丁寧に杉田に尋ねた。

「先程、大宮の一件を共有いただきましたが、大宮同様金庫を開けるところまで。金銭、並びに証券などの物損被害、そして行員、利用客ともに人的被害もありません」

まさに大宮と同じ状況だ。これほど大規模な組織犯罪にもかかわらず目的が読めない。犯人は何がしたいんだ。

犯人に振り回されていることに海野が苛立ちを隠さずにいるところへ、春日部と草加に急行させた部下から連絡が入った。

「申し訳ございません。現場に到着したときには犯人は既に逃走。大宮同様、被害はありません」

春日部も草加も同じ状況であった。やはり、犯人の目的は金銭ではなさそうだ。警察を混乱させて、何がしたいのか。単なるいたずらにしてはリスクが高過ぎる。

越谷の現場に来たものの、破壊行為に及んでいるわけでもなく、銀行は特定の支店というわけでもないので、銀行に対する私怨の線も薄い。ましてや行員が誰も被害を受けていないのだ。

通常は犯罪に実際に手を染めている興奮から、一人ぐらい暴走する人間がいてもおかしくないはずなのに。このまま越谷の現場検証を続けるべきか。

もし自分がここまで意志の統制が取れる組織を率いる犯人だったら…

「検問は継続してください。私は一旦本部に戻ります」

海野はある予感がして、現場を探ることより、指揮が取れる本部に戻る決断をした。

石原はとんでもないものを受け取ってしまったと狼狽していた。今自分の手元にあるUSB。そこにある映像が映っていた。

一体山下香織は何者で、何がしたいのか。

こんなものを週刊太陽がネットで流せば、瞬く間に全国を駆け巡るに違いない。それと同時に、情報源はどこから得たのか、警察からの激しい追求は免れないだろう。

きっと山下はそこまで見据えても尚、発信源に自分という人間を選んだ。そこには、山下の中で石原が今回の話に乗るだろうという目算があってのことなのだろう。

全く腹立たしい。なぜこうも、ふた回りも年下の人間に良いように振り回されるのか。

社内の中心人物になれたとはいえ、ここ最近はパッとせず、過去の栄光にすがっているような停滞感は否めない自分にとって、山下から預かったUSBは正に禁断の果実だった。

「俺は将棋が下手だからな。この手を打ったらどうなるか、想像もつかない」

相変わらずの独り言だったが、前回と同じく石原の肚は決まった。

「全く大したもんだ」

そうつぶやいた後、週刊誌の編集部から、USBを握りしめてネットニュースを扱う部署に向かった。

本部に戻った海野は、草加と春日部の現場検証の捜査状況を逐一報告させながら、辛抱強く何かを待っていた。

大宮の一件と違い、今回は特に現場に遺留品は残されていなかったが、捜査員は懸命に手掛かりを見つけようと努力している。

もう一度原点である大宮の資料を洗い直そうとめくっていると、序章という例のA4用紙を写した資料が妙に引っかかった。

この字体、筆跡はどこかで見た気がする。

A4用紙を見ながら、なんとか思い出そうと思いを巡らしていると、目の端で最近海野に届いた封筒を捉えた。

慌てて封筒を引き寄せる。見比べると海野の名前が書かれた字体、どことなく親しみを感じさせる筆跡が似ている。

この2つの奇妙な事象は繋がるのか思案し始めたところへ部下が入ってきた。

「海野警視!一連の銀行強盗の犯人を名乗る人物が、ネットを通じてこの後14時より犯行声明を出すと発信がありました!」

「ネット?どういうことだ」

「週刊太陽を発行している出版社に、犯人から一方的に映像が送りつけられてきたようです。担当者の話では、犯人からの動画を配信しないと、銀行と同じ目に遭わすという脅迫があったということで、13時にこれより一時間後に声明を配信するという発信がありました」

週刊太陽?何か聞いたことがあるような気がしたが、その情報を警察が掴んだのが今だとすると、これより3分後には配信されてしまうという状況下で気に留めてはいられなかった。

「内容によっては、週刊太陽にも聞き込みをしなくてはならんぞ。犯人から一方的に送られてきたという話だが、どうも怪しい」

そう言いながら海野はパソコンを立ち上げた。

週間太陽デジタルと表した画面を開くと、犯人からのメッセージまで後二分といったカウントダウンが画面上に映っていた。

悪ふざけが過ぎる。さっさと流すなら流せ。

犯人からの犯行声明と聞くと、宗教、政治団体、個人的な思想など映像のバックに映り込んでおり、何かしら手がかりや、動機に繋がりそうな背景がありそうなものだが、この犯人グループはこれまでと全く様相が異なっていた。

畳で敷かれた六畳一間の部屋に背景は襖のみ。目と口部分が開いただけのスキー帽を被っているという特徴は情報通りだが、映像には一人しかいない。

映像が少し不鮮明な上に、部屋に全く物を置いていないため、比較ができず犯人の身長や体格が今ひとつ掴みにくい。

「それも計算通りというわけか」

どうも、この犯人は自分が目立ちたいタイプではないらしい。犯人の特定につながるようなヒントを出して、警察と知恵比べをするような愉快犯の傾向は今のところ感じられない。

「日本国民に問う。我々の危機管理に対する体制は万全だろうか」

時間通りに始まった映像から流れる音声は、当然ながら電子変換されており、個人の特定には繋がらない。

「我々が先に行った銀行での所業は、周知の通りである。我々はいずれの支店においても金庫にたどり着き、さらには誰も傷つけていない。また、多くの支店で行為に及んだにもかかわらず、誰も我々の足取りを掴めず、こうして声明を配信できている」

海野は思わず舌打ちした。警察にとって挑戦状とも取れる内容と、いちいち鼻につく表現に対して…ましてや事実手がかりを掴めていない現状に対して苛立ちを募らせた。絶対に捕まえてやる。

「我々が犯行に及んだ目的は、治安維持という視点において、いかに我が国の危機管理体制が脆弱であることを証明し、この点について、ある警察官と対談をするためだ」

対談?それだけのためにこんな大掛かりな仕掛けをしているとでもいうのか。くだらない。他にも防がなくてはいけない凶悪犯罪が世にあるというのに、こんな奴らに振り回されているのか。

「その警察官とは、埼玉県警の海野警視。あなただ」

海野は鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。対談の相手は自分だと?全く予想だにしていなかった展開に戸惑いを隠せない。

背中に汗が流れるのを感じる。それはなぜ自分が矛先になるのかという疑問のみならず、また事件の当事者になることに対し、多くのマスコミに執拗に追われることになるだろうという予測によるものだった。

「対談の時間と場所は海野警視個人に追って知らせる。それまではいかに、我が国の危機管理体制が脆弱か、銀行での我々の所業の様子を我々独自のサイトで配信し続ける。尚、対談相手を防衛省の類ではなく、なぜ警察組織でなおかつ埼玉県警の人間を指しているのかは凡人の知るところではない」

そう言い残した後で、警察しか押収していないであろう銀行での犯行の様子を収めた監視カメラの映像が流れ始めた。

廊下を走ってくる音が聞こえる。それも一人や二人ではない。海野はパソコンを閉じた後、しばし呆然としていた。思考の整理が追いつかない。

なぜ自分なのか。犯人の真の狙いは…とにかく、この映像を入手した週刊太陽に出向く必要性について思案し始めたところで、この部屋の扉が乱暴に開かれた。最初に口火を切ったのは、先程まで運転を任されていた中島だった。

「海野警視!映像をご、ご覧になりましたか?」

海野が信頼を寄せる部下達が次々に入室してきた。

「先程の映像はどういうことなのでしょうか。なぜ海野警視を…」

「そんなことは私にもわからん。こんな映像が流れたら、上の人間達は私を捜査から外そうとしかねないな。そのときは、お前達、分かっているな」

「はいっ、常々言われている通りに動きます。しかし、なぜ海野警視を…」

「ふっ、まだ言うか。そもそも我々は犯人の手掛かりをいっこうに掴めていないので、何とも言えん。遅かれ早かれ、私の周囲を監視するよう指示があるはずだ」

「そんな、我々が海野警視の監視なんて…」

「うむ、しっかり監視、いや護衛してくれよ」

そう言って海野は手掛かりが無さそうだったが念の為映像を解析するよう指示し、極力不安を感じさせないよう無理に明るく振る舞った。

週刊太陽の石原は山下香織に送付された映像をインターネットで放映して以降、その姿勢に対する賛否両論の社内の評価に満足していた。

ここ数年、社内の話題になるような実績を残せていなかった石原にとって、批判があろうがなかろうが社内での存在感を増すだけでも大いに効果があったと言える。

問題はこの後だ。情報の出どころに対して、警察から激しい追及が予想される。独断で動いたことなので、会社は守ってくれないに違いない。

「将棋は苦手なんだよ、将棋は」

後は野となれ山となれ。そう呟いた後、電話機から内線が鳴った。

「石原さん宛に埼玉県警の海野様という方が面会したいということでお越しになられています…お約束はなさっていないということですが、いかがいたしますか?」

受付の女性に告げられた内容は、石原を焦らすには十分な衝撃を与えた。早い、早すぎる。もうどうにでもなれ。

「30分程度ならお時間取れますので、お通しください」

額の汗を拭いながら石原は、あの記者会見以来の再会の時を待った。

海野は週刊太陽への道中、同社のことを調べ上げていた。顔はうろ覚えだが、石原康介という記者の名前は鮮明に覚えていた。

最近自分の手元に届くようになった郵便物。18年前のことを蒸し返すような手書きの内容。銀行に掲示された「序章」という字体との奇妙な近似性。犯人が通信手段として選んだのが週刊太陽デジタル。そして犯人からの対談の指名が自分。全てが18年前の事故に繋がっている。

私怨にしては回りくどく、逆恨みなら誰も傷つけていない犯行内容と結びつかない。それともターゲットである自分以外は傷つけないと決めているだけなのか。

考えても始まらないということで、直接石原を訪ねることにした。

週刊太陽の本社は新宿駅西口から歩いて5分程のところに位置していた。

以前は足立区の北千住駅付近に本社を構えていたようだったが、事業の主体を週刊誌だけでなく、ネットニュースを取り扱うようになってから広告収入で飛躍的に経常利益が上昇し、ここ新宿に移転したということだった。

「さて、今度はこちらが乗り込ませてもらうぞ」

自分を奮い立たせるように、海野は週刊太陽の正門に足を向けた。

「埼玉県警の海野様がお見えになりました」

応接室にいる石原に女性社員がそう声をかけた。

「どうぞ」

緊張を押し隠すように大きな声で石原は応じた。

ドアを開けて入室してきた海野は、五十代とは思えない体つきをしており、そのどこか冷めた瞳は相変わらずであった。今からこの男に詰問されるかと思うと気が重い。

「埼玉県警の海野と申します」

「週刊太陽の石原です。どうぞお掛けください」

失礼します、と対面のソファに座るまでの動作に無駄がない。

「お約束が無いにもかかわらず、お時間を取っていただき感謝しています」

想像より丁寧な海野の切り口上に石原は面食らっていた。

「お時間も無い中なので、早速本題に移らせていただきますが、先日の週刊太陽デジタルにおける犯人の声明の映像ですが…」

「その前に海野さん、こちらにお目通しをお願いします」

そう言うと石原は便箋のようなものを海野に渡した。海野に主導権を握られないよう石原は必死だった。

「今回、犯人から声明の映像が送りつけられていた中に同封されていたものです。埼玉県警の海野警視が訪ねてきたら、こちらの封書を渡すようにとメモ書きがありました。ご本人以外が開封したら弊社を不幸が襲うという注意書きとともに」

「犯人に心当たりはありますか?石原さんを私が訪ねるという予想がなされていたということになりますが…」

部下に週刊太陽を訪ねさせる選択肢もあるにはあったが、海野の性分から直接訪れるであろうことをこの犯人は想定していた。

海野は動揺を隠しながら、封書を丁寧に開けていく。

「いえ、事前に報告させていただいた通り、犯人がなぜ弊社を発信先として選んだのか、皆目見当もつきません。そんな中で放映した理由としては、映像を流さなかった場合に対する脅迫めいた表現を懸念したことと、弊社のネット配信事業をさらに多くの人に知ってもらいたいと思ったからです」

石原は山下が準備した通りの答えを述べた。山下が用意したストーリーは、石原の口の堅さを信用しているものではなく、犯罪幇助の疑念をかけられる可能性から石原を救うためのものだった。

煙に巻こうとする人間には何人も会ってきた海野にとって、石原が何か隠していることは明白だった。

「石原さん、警察を舐めないでいただきたい」

先程までの紳士的な佇まいから一転、凄みを利かせた捜査官の目に戻った海野に石原は一瞬たじろいだ。

「証拠が無ければ警察は何もできないとでも思っていますか。石原さん、勘違いしてはいけない。警察は証拠を辿って捜査を進めるのではない。自分の勘を信じて証拠を集める商売なんですよ」

「私の先程の話が嘘だとでも…」

「ええ、部分的に、ですけどね。私の印象では用意された答えを述べただけに過ぎない。文量としても多すぎず、少なすぎず、無難な回答はかえって怪しませるものなんですよ。まぁ良いでしょう。この封書を得ただけで、今日のところは良しとしましょう」

海野の本音としては、封書の中身を確認したときに、石原に拘ってる場合ではない状況が発生したのだが、半ばカマをかける狙いもあり、そう放って応接を後にした。

海野が出ていった後、石原はふうっと大きく息を吐き、ハンカチで額の汗を拭った。海野の目に晒されていると、正直生きた心地がしなかったからだ。

あれ以上長居されたら、山下のことをこぼしていたかもしれない。何をされたわけでもないのに、それぐらい圧をかける力が海野にはあった。封書を渡したことで何とか回避できた。

もしかしたら、山下はそこまで見越して封書を用意していたのかもしれない。

「将棋が強い奴は羨ましいねぇ」

いつもの独り言を放ち、石原は海野が二度と来ないことを祈った。

海野は週刊太陽を出た後、本部に急いでいた。確かめなくてはならないことがある。封書に書かれていることが本当ならば、犯人の手掛かりは常に足元に転がっていたことになる。

『海野警視に送った郵便物を炙ってみて欲しい』

見覚えのある手書きの文字で、封書にはそう書いてあった。炙りだしなんて古風な真似を、と思いながらも海野にはこれまでの犯人のやり口から、これが単なるいたずらではないことが明白だった。

本部に戻ると何人かの部下とすれ違ったが、確証を掴む前に封書のことを伝えることもなく、週刊太陽は引き続き追う必要がありそうだとだけ伝えた。

自席に戻ると早速、田村美咲のことが打ち込まれた用紙を手元に引き寄せた。今となってみれば、銀行に貼られていた『序章』という文字の雰囲気とこの郵便物の文字の雰囲気が似ていると感じたのは間違いではなかったのだ。

ここでは人目がありすぎる。海野は男性化粧室に向かうことにした。炙るだけなら煙が出ずに、火災探知機に引っかからない。

男性化粧室に向かう途中、部下の中島と出くわした。

「海野警視、やはり、犯人から直接名前が挙がった海野警視は今件の捜査から外されたようです」

「やっぱりな。自分でもそう判断するだろう。後は頼むぞ、中島」

中島はあっさり身を引いた海野を訝しつつも、海野にそう言われては承知しましたとしか答えられなかった。

中島と別れた後、海野はようやく廊下の先にある職員用男性化粧室にたどり着いた。

個室に入り、胸元から便箋を取り出すと早速ライターで炙ってみた。

なかなか字が出てこない。ただのイタズラを真に受けたのか。いや、この犯人は意味のないことはしない。

海野が焦りを感じ始めたまさにそのとき、うっすらと字が浮かんできた。

「12月1日午後15時に以下の住所に海野警視一人で訪れてください」

そこには埼玉県の春日部駅付近の住所が書かれていた。

今から約一週間後。今日海野がこの炙りだしに気づかなかったら全てが水泡に帰す、犯人からの危うい仕掛けだった。

郵便物の送付日、大宮、春日部、草加、越谷の銀行を襲う日、週間太陽デジタルでのインターネット放映日、海野が週間太陽を訪問する日、海野が炙りだしに気づく日、全てをこの12月1日から逆算して設定していると考えたら、この犯人はどこまで先が見えているのか空恐ろしくなった。

指定の場所は春日部、か。例の事故に関わる人間と想定してからは海野はもはや驚かなくなった。

銀行強盗の現場となった春日部、越谷、草加は古利根川が流れている。古利根川は田村美咲が亡くなった場所だ。

それにしても長い年月が過ぎている。ここまで大掛かりな準備をして、なおかつ復讐と呼べるほどの被害を出していない犯人に、海野は個人的に興味が湧いていた。

山下は緊張していた。15歳の頃から数えて18年。海野を知るためだけに、これまで仕掛けてきた。12月1日の今日、きっと海野は郵便物の炙り出しまで辿りつき、かつ本当に一人で来るだろう。

捜査から外されているとはいえ、海野を監視している警察は海野を一人では行かせず、尾行はするだろうが、それに対しても対処はしてある。

山下の緊張は、この計画が失敗するとか、自分が逮捕されるのではといった類の不安からきているものではない。

いよいよ、大詰めを迎える中で結末がつまらなかったらどうしよう、海野警視との対談が取るに足らない内容だったらどうしよう、そんな不安からだった。

山下が対談場所に選んだのは、あの『こどもの森』の近くだった。

無人家屋を買い取り、山下を崇拝する卒業生達がリクエスト通りの図面にてリフォームしていた。

正方形の土地に、一見平屋と見紛うような一階建てのシンプルな建物であったが、中の構造に細かな細工を施していた。

道路に面した正面玄関を開けると、中にはさらに周りがコンクリートの壁に覆われた扉があり、その扉を開けると、また同じ構造の扉が控えている。計3回の扉を開けないと、奥の対談場所にはたどり着かない。

そして対談場所は、刑務所の面談室を模した形状に改修を行い、強化ガラスを中央に挟んで、椅子が正対する形を取っている。海野が山下を逮捕に及ばない仕掛けは練ってあるが、万全を期した。

正対した中央のガラス窓には、声がお互い聞こえるよう少し穴を空け、椅子だけだと不格好なので、中央のガラス下には申し訳程度の卓を配置している。

海野と対談を望んだが、逮捕されることは山下の本意ではない。あくまで、海野は研究材料の一人だ。

海野が来るまで、残り三時間。対談から、対談終了後の流れについて、卒業生達と最後のミーティングを行った。

海野は14時になったことを確認すると、ある物を手に取り胸ポケットに入れた。田村美咲の関係者なら必要なときがくるかもしれない。

一人で出向くことに不思議と危険は感じていない。それより集団で逮捕を目論み、犯人に警戒されることの方が厄介だと考えた。銀行強盗のときのように、また鮮やかに逃げられても困る。

できるだけ自然に階下に降りて、正面玄関へと向かった。部下と思われる何人かに見咎められた気がするが、幸いなことに声はかけられなかった。

海野はなんとなく、交通手段として電車を選んだ。車両は便利だが何かと足がつく。

駅に向かう道すがら、犯人が指定した時間帯の意味を海野は考えていた。なぜ日中なのか。逃亡を考えるなら、間違いなく夜の方が都合が良いはずだ。逃げるつもりがないのか、よほど自信があるのか、どちらかだ。

海野は浦和駅から一旦久喜駅まで向かい、そこで乗り換えて春日部に向かった。

東武線沿線はかつて海野が妻と暮らしていたときに使用していた路線で、何となく乗れずにいた。

久しぶりに乗ってみたが、車窓に映る風景は相変わらず海野を落ち着かせてくれる。山手線沿線ほど大きなビルが立ち並ぶわけでもなく、電飾が散りばめられているわけでもなく、程よく人々の生活感を感じられる。

海野が頻繁に利用していた頃は路線の掲示が東武伊勢崎線であったが、2012年にその愛称を東武スカイツリーラインと発表されて以降、表示内容が変えられている。

変わっているのは、そのぐらいだな。

海野が少し妻との思い出に浸りかけた頃、春日部駅に辿り着いた。

指定された住所は西口を出て、歩いて5分程のところだった。

平日の昼間ということもあって、西口にはさほど道行く人の姿は見えない。

パチンコ店とカラオケ店の間の細い道をまっすぐ進んでいく。住所は特に部屋番号などが書かれていないところを見ると、マンションなどの類いではないらしい。

駅から少し離れただけで、シャッターが降りたスナックが立ち並ぶ景観に変わってきた。

指定場所まであと少し。海野は念の為、浦和駅から何度行ったか分からない尾行者への警戒を行なったが、特に変わった様子は無い。

尾行されていない方が都合が良いはずなのに、こんなに簡単に自分の組織を出し抜けることに海野は複雑な心境であった。

この一件が終わったら、部下を再度鍛え直す必要がありそうだ。

そう海野が考えていると、黒のサングラスにニット帽を被った男が、こちらをまっすぐ見つめていることに気づいた。

随分分かりやすい目印だな。一応逮捕は恐れてくれているようで安心した。自分を殺すつもりなら顔を見ても支障はないはずである。

「海野警視ですね、中にご案内させていただきます」

「君が対談相手ではないのか?」

少しでも犯人グループの情報を得ようと話しかけてみる。

「私ですか?私は中への案内と、中からの退室方法をお伝えするだけの人間です。ではついてきてください」

退室方法?男に気をとられ、建物に注目していなかったが、たしかに変な作りをしている。

男の後に正面入り口のドアから入ると全く同じ作りのドアが目の前に現れた。

「このような造りの扉が後2回現れます。海野警視を最後の対談場所までお連れした後、それまで入った扉の鍵は私が閉めていきます」

「では私はどのように退室したら良いのだ?」

「部屋の四隅をご覧ください。それぞれ青、黄、赤に塗られたボックスが設置されているのは確認できますか?」

見ると、部屋の角には一つずつ箱が置いてある。

「青いボックスには、黄色のボックスを開ける鍵、黄色には赤、そして赤いボックスにはその部屋の入り口の鍵が入ってます」

「何でそんな回りくどい退室方法なんだ?」

普通、扉は外側に鍵穴があり、ツマミは中側にあるものだが、この建物は中側に鍵穴があり、外側にツマミがあるようだ。

「もちろん、対談終了後、我々が退く時間を得るためです」

なるほど。対談部屋から外に出るには、少なくとも計3つの部屋でいちいち、ボックスを開けて鍵を得てという作業をしなければならないとしたら、確かに多くの時間を要する。

やはり自分を殺す気はないらしい。いや、それも対談の中身次第で相手の気が変わらなければの話だが。

「この先が対談部屋になります」

3つ目の扉が開かれた。何だ、この部屋は。中央は厚みのあるガラスで仕切られ、奥にはそれ以上進めないようになっている。

海野が部屋の構造よりも目を奪われたのは、対談相手であろう椅子に座っている人物だった。

黒髪をハーフアップでまとめ、白いジャケットに紺色のスカートを纏ったその女性は大きな瞳に親しみを込めてこちらをじっと見つめている。この場に似つかわしくない美しさだ。

面識はない。入り口にいた人間とは違って顔を隠していないことを訝しみながら、想定していた犯人像とはあまりにもかけ離れた対談相手に戸惑いながらも、何とか平静を装い向かいの椅子に着席した。

「初めまして、海野警視。今日はお越しくださり感謝しています」

「面識は無いようですが、対談とはどのような内容でしょうか。私達は逮捕するか、逃れるか、それだけの関係に過ぎないと思われますが」

「海野警視はなぜ、犯罪が起こると思いますか?」

この対談に温度差があるのは当たり前なので、海野が少しでも耳を傾けるよう本題に入った。

「そんなものは人それぞれ動機が異なるので、いちいち気にしていられません。私は一つ一つ解決するだけです。今回の人騒がせな銀行強盗もさっさと解決したいのですがね」

「その件は既に先程実行犯達が自首したことで解決しています。海野警視が県警本部を出られたのと入れ替わりで犯人達が自首したようです」

なるほど。だから部下達の尾行が無かったのか。14時半頃に自首したのであれば、まだ自分に報告が無いのも頷ける。上の判断を仰いでいるところなのだろう。

「『ようです』とは随分第三者のような表現を使うのですね。対談相手である以上、あなたが主犯格と推察しますが」

海野の刑事としての勘がそう告げていた。外見からは想像つかないが、この犯人は危険だ。

自分に類が及ばないよう全てが計算されており、この先の警察の動きも自分の挙動も見通せているようで空恐ろしかった。

「なぜ犯罪が起こるのか、先程そんな質問をされましたね。それはいろんな動機があると申し上げましたが、他者との比較によって生じる、または自尊心を著しく損なわれたことによる感情の暴走が要因です。しかし、あなたが巻き起こしている今回の騒動は、これまでの犯罪と違い何も感じませんでした。あなたはなぜ、このような大掛かりな仕掛けを…」

「感情の暴走。まさに私が人々から無くしたい衝動そのものです。反対にご質問ですが、なぜ海野警視からは感情が感じられないのでしょうか?失礼ながら、初めて美咲の件を説明する海野警視を拝見したとき、私と一緒で空っぽだと、そう感じました。海野警視にこの質問を直接するためだけに取り組んできたと言っても過言ではありません」

「美咲?やはりあなたは田村美咲の関係者なのですか?」

海野の声色が変わった。

「申し遅れました。私はあなたが自殺と断じた田村美咲の同級生の山下香織と申します。私は今でも美咲は自殺ではなかったと信じています」

「…」

海野の様子がおかしい。うつむき加減で何も言葉を発しなくなった。

「…あなたが香織さんでしたか」

「え?」

見ると、海野の肩が震え始めた。その目は中央に挟んだガラスをいとも簡単に破壊できるかのように、山下をきつく見据えていた。

「私に感情が無いだと!何を知った風なことを!私には怒りが常に渦巻いている!人間に!犯罪者に!何より妻を守れなかった自分自身に!感情の暴走を無くしたいだと?笑わせるな!人間は感情なんてなくせない。無くしたらもはや人間ではない。私が冷静に見えたのは犯罪者の撲滅以外、興味ないからだ!」

海野はそう言って中央のガラスに右手を叩きつけた。

海野の反応に落胆の色を隠さず、もはやこの対談に興味を失いかけた山下は、海野が叩きつけた手とガラスの間に便箋が挟まっているのに気がついた。

「それを読んでみろ」

海野はそう言って、ガラス下部の隙間から山下に渡した。

海野に興味を失った山下は便箋を受け取ると、もはや早く退室したい様子を隠さずにぞんざいに便箋を開いた。

香織へ

きっと香織のことだからなぜ私が死ななければならなかったか、理由が分からず納得できないと思ったのでこの手紙を書いています。

香織、こんな私と仲良くしてくれてありがとう。学校で一番美人な香織から声を掛けてもらえて、また親しくできるなんて人生で一番嬉しかったわ。と言っても十五年足らずだけどね(笑)

香織は美人で聡明でスタイルも良くて私の憧れだったの。人々から感情をなくしたいと言っていたけど、難しいテーマだよね。でも香織ならきっと解明できると信じてる。

最近香織と親しくなれたことでクラスメイトも話しかけてくれるようになったよ。やっぱり香織の影響力はすごいね。

ねえ香織、私が児童養護施設に預けられるときの話をしたことを覚えてる?お父さんらしき人が私の肩に手を置いて、預ける理由を言っていたような気がするって。あれね、実は香織のおかげで思い出したの。

私が初めて人に親がいないことを打ち明けたら、香織も代わりに自分の話をしてくれたでしょ。

何て言ってくれたか覚えてる?

「私ね、ママを殺したの」

そう香織は言っていたわ。その言葉は香織のことだから本当なんだろうなって思ったよ。私には人の感情が分からないから、ただ本当なんだろうなって。そして、その言葉を考えているうちにお父さんの最後の言葉を思い出したの。

「ママを殺した人間を捕まえてやる」

お父さんは確かにそう言ってたの。はっきりと思い出したわ。それと同時に香織には話したけど、私のお父さんは捕まえた後、私を迎えに来るつもりは無かったんだなってことに気づいちゃったの。だって、自殺しちゃったんだもの。

だから、私もお父さんと同じ気持ちになってみたいって思った。どんな思いで人は自分の命を絶つのか。私には想像もできなかったから。

ねぇ香織。生まれ変わったらまた友達でいてくれるかな。香織みたいな素敵な女性が、私と友達になってくれて嬉しかったよ。もっと普通に遊びたかったな。香織の研究が成就することを祈ってます。 美咲

ああ美咲。そんな。本当に自殺だったなんて。しかも私の言葉がきっかけで…

「なぜこれを今さら…美咲は自ら命を絶ったんですね。なぜこれをもっと早く!」

山下は射るような視線を海野に浴びせた。

「感情を無くしたいあなたが、今私に浴びせているものは何ですかね」

焦がすような視線に海野はそう返した。

「そんなことは聞いていない!私の名前が出ていながら、なぜこれをもっと早く…」

山下は初めて自分をコントロールできなくなっていた。感情を無くすためのサンプルに過ぎなかった海野に、自分が向けているものを認めたくなかった。

「田村美咲は…私の…娘です」

「え…」

「美咲は、私の娘です」

今度ははっきりと聞こえた。

「だって、美咲の父親は自殺したって…」

「私が『こどもの森』にそのような便りを出したのです。父親の友人を装って。あの子の写真とともに」

「なぜそんなことを…」

「それは…自分はとうに父親の資格を失っていたので、里親のもとに行く決意を固めてもらうためでした。どこにでもある名前なので気づきませんでしたが、今思えば、田村は妻の旧姓です。住んでいた部屋の捜査で、美咲を預けた折に着ていた服と、私が送った手紙が大切にしまわれていたので確信しました」

「でも、この手紙を公開すれば記者たちからの執拗な質問も逃れられたのでは…」

山下は何から質問すれば良いのか戸惑いながら、かろうじてそう指摘した。

「この手紙を公開すれば、私と美咲との親子関係も明るみに出たことでしょう。そうなると、また当事者として世間にさらされることになる。さらにはこの香織という人間まで表舞台に引っ張り出すことになってしまう…それを避けるには、非公開という道を選択しました」

「そんな…」

「美咲に幸せになってもらうために送った便りが、結果的に美咲を自殺に追いやった。確かにあなたが言う通り、私は空っぽなのかもしれませんね、うっ…」

海野の鋭い眼光は影を潜め、悲哀に満ちた父親の表情をし始めたと思ったら、目から涙が流れ始めた。

「人はそれだけの経験をしないと空っぽになれないものなのでしょうか」

胸の奥にザワザワするものを感じながら、山下はそれを押し隠すかのように、誰に言うでもなくそうつぶやいた。

「どうですかね。現に山下さん、あなたの頬に伝ってるのは何ですか」

ハッとして、山下は自分の頬にも涙が流れていることに気づいた。感情を無くしたい自分が、涙を流している。

美咲の想い。海野の想い。言葉では言い表せないもの。山下の中でぐるぐる回っている。海野の言葉通りだとすると、あの記者会見のとき、海野は自分の娘の死について説明していたことになる。その心中は、もはや山下には想像もつかない。

自分の涙で山下は知ってしまった。感情を無くしたいと言いながら、人の反応が知りたいと言いながら、美咲がいない世界が許せなかったこと。

美咲、何で勝手に死んでしまったの。もっと一緒にいたかった。もっと話したかった。もっと笑い合いたかった。

山下の涙を見て、海野もさらに涙を流してくれている。期せずして、初対面の二人が、今初めて田村美咲の死を真っ直ぐに見つめ、置き去りにしてきた感情を抱いている。ここにきて二人はようやく田村美咲の死を偲んでいるのだ。

「空っぽに見えるのは、目を背けただけ、起きた事実に正面から向き合っていないだけ…」

山下が今起こっている事象について、そう理解しようとすると、海野がつけ加えた。

「人は起きた事実に全て正面から向き合えるものなのでしょうか。きっと起きた事実が自分の容量を超えるものだとすると、誰もが自分の責任とは捉えられなくなる。事実に見合った強さを身につけられて、初めて人は向き合えるのではないですか」

「海野さんは向き合えたのですか?」

「私は…今、向き合えました」

目に涙が残りながら、屈託の無い笑顔で海野はそう言い放った。そこには田村美咲と同じ、思ったことを素直に吐き出す清々しさがあった。

「起きた事実を受け止められる強さ。それは何が起きても、人のせいにしない強さ…」

「私は、妻の死を、美咲の死を、犯罪のせいにしてきました。そして、香織さん、あなたのせいにもしてみました。あなたがあの言葉を言ったから…でも今日お話していて、その涙を見て、あなたのせいにすることはできなくなりました。私は美咲の死に対して退路を断たれたのです」

「・・・」

「ほんとは美咲のそばから離れてはいけなかった。でも、私は美咲にお母さんは?と聞かれるのが怖くて逃げた。父親だけで娘を育てる苦労から逃げた。その結果、娘を死に誘ってしまった…」

「これからどうするつもりですか?」

「…やることは変わりません。美咲みたいな不幸を生まないよう、犯罪自体を撲滅する。そのための公僕として働く生き方しか、自分にはできません。そんな時間をあまりにも長く、過ごしすぎました…山下さん、あなたは?」

「私は…感情は…いえ…私は人が事実と向き合える強さを身につけるにはどうしたら良いのか、それを解明したいと思います」

「確かに、向き合えていたら私の人生も変わっていたかもしれません。山下さん、どうやらあなたは私が撲滅すべき犯罪者とは異なるようです。これ以上無為に時間を過ごすこともないでしょう」

「そうですね、貴重な時間を割いてくださり、誠にありがとうございました。これは、最初の青い箱を開ける鍵になります。どうぞ、お持ちください」

「最後に一つ、実行犯達はなぜ自首をしたのですか?」

「彼らは、もともと人を傷つけるつもりはありませんでした。というより、行員も自首に対応している警察も対応にあたる弁護士も、きっと私の仲間があたることになるでしょう」

山下は、海野に自分が追われる可能性は低そうだとの算段から、主犯という言質を取られかねない発言を厭わなくなった。

「警察にも入り込んでいると?」

「入り込む、という表現は正しくはありません。犯罪者が身を隠しているように受け取られかねないので。彼らは私が連絡したときのみ、私のやりたいことについて協力してくれる者達なので、普段はれっきとした警察官です」

「山下さん、あなたはどういう…」

「人は全員が全員、自分のやりたいことを見つけられるわけではないんです。人に与えられた役割を全うすることで、存在意義を見出せる、そんな方々のお手伝いをしています」

楽しい対談でした、とそう言い残して去ろうとする山下の表情は怪しく、そして美しかった。

海野はその後ろ姿を見送りながら、つい先程までの山下と、今の山下が本当に同一人物なのか見紛うほど雰囲気が違っていることに気がついた。

もし、あの涙が嘘だったら。もし、あの言葉が計算されたものだったら。

先程までの会話のやり取りで、海野の主犯格の逮捕という当初の目的は、山下が田村の同級生だったことで、その言葉を聞くことで失せていたが、それが全て仕組まれたものだとしたら。

いや、美咲の手紙の内容は今日初めて知ったはずだ。ましてや、二人は同級生だった。その言葉に嘘はないだろう。

海野が捜査官としての勘を働かそうとした空気を背中で感じたのか、不意に山下は振り返った。

山下は笑顔で首を振っただけで、何も発しなかった。

先程の言葉に嘘はないという意味なのか、それとも山下の逮捕はやめておいた方が良いという意味なのか。

海野は思考が追いつかず、考えるのも疲れたので、この対談部屋を出ることにした。

山下の言葉の真偽は定かではないが、山下と話すことで、海野が田村美咲の死を受け入れられたのは事実だった。

対談部屋から出た海野の目には、変わらず自分を受けとめてくれる春日部の風景が広がっていた。

「なるほど、だからこの時間だったのか」

普段は人通りがまばらな駅前が、仕事帰りの人々でごった返している。

山下は万が一、海野の後を警察が尾行していたとしても、群衆に紛れるための計算をしていたに違いない。

海野は警察本部に戻った後、中島から一連の銀行強盗について、犯人の自首により解決したとの報告を受けた。

自首した犯人とは別の主犯格の存在について、埼玉県警の誰もが可能性を疑っていたが、これ以上捜査が長引いて警察の信頼を失うことを懸念し、一件落着とすることになったようだ。

山下は警察の落としどころを心得ていたことになる。

いったいどこまでが本当で、どこまでが虚構なのか。海野はふぅっと大きく息を吐いた後、その眼光は既に次の捜査に目を向けられていた。

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