見出し画像

ワン・カットによる<主張>を見逃すな~マサムネ内記流映像作品分析術Part2&映画『グリーンブック』論評~

随分間が空いてしまいましたが、シリーズ2回目です。
前回はこちらのリンクからどうぞ~。
http://note.com/masamune_nike/n/n1ca1b3230adb
と言っても今回は「クリスマス前にオススメしたい映画」があるので、その話がメインです。

気軽に読んでいってほしいですが、映画『グリーンブック』のネタバレがある点だけ注意!


映像作品における<作品の主張>

ある作品を見ながら/見終わった時、観客である皆さんは「作者はこういうことを言いたいのだな」とそれぞれ思うことでしょう。
いわゆる<作品の主張>というものです。

それは一人ひとりが印象に残ったシーン/描写/台詞などから読み取れたことに由来することが多い。

映画『ゲド戦記』であれば「命を大切にしないやつなんて大っ嫌いだ」というテルーの台詞は大変重要であると皆さんは感じることでしょう。

画像1

これは直接的な<主張>の方法です。
台詞によって表現されること自体が「安っぽい演出だ」と評する人もいますが、演出への評価は作品での<使われ方>が上手くいったかどうか?ですから、台詞で直接主張させること自体は悪くないと僕は考えています。

『ゲド戦記』についてはここまで。

僕が今回メインで取り上げたい映画は、『グリーンブック』です。

この映画を通して

・映像作品における<主張>はどこで見出すことが出来るのか?

をテーマに掲げ、考えていきたいのです。


映画『グリーンブック』について

『グリーンブック』は、2019年の第91回アカデミー賞で作品賞/脚色賞/助演男優賞の3部門を制した名作。
僕自身も大好きな映画で、クリスマスに観る映画の新定番にしたいくらいです。

1962年。
アメリカが公民権運動に揺れていた時代。
ニューヨークにある名門ナイトクラブ「コパカバーナ」で用心棒をしていたイタリア系白人トニー・“リップ”・バレロンガ(演:ヴィゴ・モーテンセン)は、クラブの改装工事によって一時的に職を失う。
彼は仲間から「あるドクターが運転手を探している」と仕事紹介され、面接を受ける。
しかし、面接相手は天才的な黒人ピアニストであるドン・“ドクター”・シャーリー(演:マハーシャラ・アリ)
ドクター(ドク)は11月から12月クリスマスまでの約8週間、黒人差別が激しい南部でのコンサートツアーを計画しており、その運転手兼用心棒を探していたのだ。
黒人と一緒に仕事をすることなど考えられなかったトニーは一度辞退するが、給料の良さや妻からの後押しで引き受ける。

ドクのバンド仲間である白人2人も引き連れ、計4人での旅が始まった。
交渉力や腕っぷしは頼もしいが、無教養で抜け目がないトニー。
知的で誇り高いが、浮世離れしているためにトラブルも引き寄せてしまうドク。
最初は衝突することもあったが、2人はツアーの中でお互いの違いと良さを認め合うようになる。

しかし、ツアーでは南部の白人による「黒人差別」と向き合うことになる。
黒人が白人と同じトイレを一緒に使うことは許されない。
紳士服店では、ドクのみがスーツの試着を断られる。
宿泊場所は「黒人専用ホテル」のみ。
この宿泊場所を案内している黒人専用ガイドブックこそ<グリーンブック>なのだ。
こうした黒人差別の実態を目の当たりにし、トニーも憤りを覚えるようになっていく。

一方のドクも、トニーと交流するようになって徐々に柔らかさを見せ、信頼を寄せていく。
しかしツアーを通して、南部の白人が黒人への差別意識を変えてくれることはない。
無力感や自分のアイデンティティの悩みと向き合いながら、それでも最後のコンサートで変化が訪れる。
白人の主催者が「黒人は同じレストランを使えない」ことを伝えた時、トニーとドクは決然とコンサートをキャンセルしてやったのだ。

8週間のコンサートツアーを終え、無事にニューヨークへ戻ってきた一行。
トニーの家族や仲間たちとのクリスマスパーティーに、ドクが一人だけで現れる。
それまで黒人を避けていたトニーがドクと親しむのを見て、仲間たちも喜んでドクを迎え入れたのだった。

あらすじだけでも、良い話感が伝わってくるでしょう?
実際に観れば分かりますが、この作品はかなり良く出来ています。
アカデミー作品賞を取った作品といっても、全く難解ではない。
親しみやすい作品です。

画像11


公開直後の『グリーンブック』への批判

ところが、です。
『グリーンブック』の作品賞受賞にあたっては、当時異論がありました。
いわゆる<白人の救世主>を肯定する作品内容で、保守的だという批判。
当時の騒動については、BBCのニュース記事がよくまとまっています。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47367572

<白人の救世主>は、ハリウッド映画でしばしば問題になる話題です。
有色人種の差別問題や生活の苦しさを、白人が理解し、解決する話。
「白人=助ける側、優位」「有色人種=助けられる側、不利」という構造を基底とし、白人側の視点で描かれることが多い。
(最近は少なくなったと思いますが、20世紀のハリウッド映画を観ればかなり多いパターンです)

例えば映画『ラストサムライ』も<白人の救世主>映画だと言われればどうでしょう?
オールグレン大尉(演:トム・クルーズ)が、勝元(演:渡辺謙)らサムライ達への無理解から理解へ、敬意へと改めていく。
特に未亡人・たか(演:小雪)は、「武家の女性として気丈に生きる一人の女性」というよりも「再生し、誉れを取り戻したオールグレン(≒元の夫)に心惹かれる妻」になっていくので、白人男性に救われる日本人女性?と見なす人もいるでしょう。
(「オールグレンにたかが寄りかかるカット」があることで、二度と想い人が戦死し悲しい思いをしたくない妻=心の支えを欲している女性としての面が強調されています。)

画像11

画像12

『グリーンブック』の場合は、スパイク・リー監督や故チャドウィック・ボーズマンのように鋭く問題意識を持った人たちが批判するのは仕方ない部分があったと思います。
黒人差別問題を扱ったにしては、軽妙な作風であることも影響しているでしょう。

しかし敢えて僕が言いたいのは、「映画の見方は人それぞれである」。
スパイク・リー監督たちに従って観るのではなく、自分の目で観て考えるべきです。

では、僕はどうだったか?
マサムネ内記は『グリーンブック』を楽しめた者です。
それはなんといっても、

トニーとドクの関係を「1+1」で表現するようなカットやカメラワークが確認できる、映像作品として楽しめるものだったから

に他なりません。

画像8

そして「映像として楽しめるものだった」というのは、無邪気に見れたから良かったという意味ではない。

・映像作品における<主張>はどこで見出すことが出来るのか?

このテーマを考えるにあたって『グリーンブック』を通じて思索を深めることが出来たのが、何より面白かったからです。


トニーとドクの関係を物語るツーショットを見よう

『グリーンブック』は、トニーとドクのロードムービーでもあります。
2人の道中に起こる様々なトラブルを見ていきますが、彼らの関係は道中を通じて変わっていきます。

彼らを撮るカットは、ツーショットが基本です。
トニーとドクはいろんな距離を取りますが、車内では特徴的なカットがあります。

2人は同じカット内にいますが、台詞のタイミングに合わせて、被写界深度(ピントが合う範囲)の調節をし見せたい人物(被写体)を切り替えているのです。

画像3

画像4

このカットでは、どういう狙いを感じさせるか?

それはこの時点ではまだ打ち解けていない空気であり、トニーとドクの立場や意識の隔たりそのものです。
2人は同じ空間=カット内に同居しながら、意見はまるで噛み合わない。
そうした表現として、この被写界深度の切り替えをしていると思うのです。


また、トニーとドクが車内で一緒にケンタッキーフライドチキンを食べるシーン。
このシーン最後の、カップをポイ捨てしたトニーをドクが叱るカットでは、コミカルなやり取りの中で道路にある2本のラインが印象に残るものになっています。

画像5

このカットは結構重要ではないかと考えています。
シーンのラストに持ってくるカットですから、このシーンを綺麗にまとめるカットになる。
そうすると、2人のやり取り以外に印象的に残る<2本のライン>を、トニーとドクが「並んでいる」象徴として読むのはどうでしょう?
2人のコミカルなやり取りに加えて、映像上のメッセージとしても上手く機能していると僕は思うのです。

『グリーンブック』は、この他のツーショットにも見所は多いです。
トニーとドクが初めて出会うシーンや、ドクがトニーに手紙の書き方を指導するカット等で、位置関係が対称的/対照的であるようになっている。
これらは全て、「2人の関係がその時その時でどうなっているか」を示唆するように計算されている。
服装もカラートーンの調和が取れているときは、風景も相まって溶け合う空気が醸し出されています。

画像6

画像7

すなわち、この<カットの意図>が最も監督らによって計算されているものであり、彼らの<主張>に関わるものではないか?

トニーとドクの関係を「1+1」で表現するようなカットやカメラワーク=ツーショットに注目する。

白人だの黒人だのといった人種ではなく「ひとり+ひとり」での関係を見ていくことが大切だという考え方で作品を、ストーリーを見直すのです。

トニーとドクは、白人と黒人という見方が存在する世界から出発しました。
しかし旅の途中でお互いの考え方が変わっていく。

トニーは「ドクは黒人らしくないな」と思わなくなる。
それは<黒人らしさ>を白人が押し付けることでトラブルが発生していたのを目にしたから。

ドクもまた、自分自身を<白人でも黒人でもない人間そのもの>として意識を変えていく。
白人の中にいても<黒人らしさ>を押し付けられず。
黒人からも疎外される<はぐれ黒人>にもならない。
ドクは、ドク自身でしかない。
そういう境地に至って2人は肩を組んで喜び、クリスマスを迎えたのです。

こうしたワン・カットの主張を重視して鑑賞することで、作品全体での<主張>に近づける。

そしてここから、ワン・カットの主張が明快かつ筋道の通った作品であればこそ名作と言えるのではないか?と僕は思うのです。

画像11


ワン・カット単位で見る観客になろう


映画『グリーンブック』の場合は人種差別問題を扱っていることが一目瞭然だからこそ、観客の多くはストーリーに引き込まれやすい。
しかし僕は、ワン・カット単位で細かく見た時の作品の印象は、流れるストーリーを見た時の印象とはまるで異なると思っています。

ストーリーに飲まれやすいところをグッとこらえて、ワン・カット単位で見れる観客になれるかどうかが試される。

映像作品の基本単位はワン・カットであり、映像作品はワン・カットで主張できる媒体であるからこそ、観客はシーンではなくカット単位で観る目を持たねばならないと僕は思うのです。

・映像作品における<主張>はどこで見出すことが出来るのか?

このテーマを頭の片隅に置きつつ、映画『グリーンブック』を鑑賞してみて下さい。

きっと貴方は、この素晴らしい映画のストーリーを堪能しながらも飲み込まれず、目ざとい観客としてカット単位で見ることが出来るようになるでしょう。

そして、鑑賞後にはケンタッキーフライドチキンを食べたくなるでしょう!
(この映画ほどケンタッキーフライドチキンを美味しそうに見せる作品は無いと思います)

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?