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この国が沖縄を何度見捨てたか、数えたことがありますか?

2024年2月12日〜14日、ひめゆりの塔と資料館沖縄県平和祈念資料館、辺野古・大浦湾・安和・塩川、伊江島の反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」、瀬長亀次郎さんの「不屈館」を訪れました。

人々が残した証言を改めて少しばかり勉強して、1月10日に防衛省が埋め立てを始めた青い大浦湾を見て、この国はいったい何度、沖縄を見捨てるのかと思ったのですが、皆さんは、いったい何度か、数えたこと、考えてみたことが、ありますか?

沖縄防衛局が1月10日に埋め立てを始めた大浦湾(2024年2月14日筆者撮影)

1.1945年、沖縄、本土の捨石にされる

1945年、日本軍は「米軍の本土上陸を1日でも遅らせる」ために沖縄を「防波堤」として使いました(参考)。米軍は3月26日に慶良間列島、4月16日に伊江島(参考)で上陸作戦を展開、沖縄本島でも日本軍を掃討。住民は、米軍だけではなく、中部から南部へ敗走する日本軍、さらには国が戦中に行った皇民化教育の犠牲にもなって命を落としました。日米の戦死者約20万人のうち12万人は沖縄県民。実は同時期、3月10日からは東京などの大都市が住宅密集地で大空襲を受けました(参考)。結果的に「防波堤」という作戦すら、嘘か失敗か、そのどちらかでした。敗戦を認めない日本軍にとって、沖縄は捨て石の一つだったんです。

沖縄戦を生き延び、「もうあなたたちに頼むしかないんだ。しっかり頼みますよ」と反戦への強い気持ちを語った謝花悦子(じゃはな・えつこ)さん。2024年2月14日筆者撮影。阿波根昌鴻さんが設立した反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」の中庭にて。

2.1952年、沖縄、米国の施政下に残される

1952年、サンフランシスコ平和条約の発効。日本が主権を取り戻した4月28日は「主権回復の日」ですが、沖縄では「屈辱の日」。米国の占領下に完全に捨て置かれました(参考)。

米軍のキャンプ・シュワブ前のゲートで、機動隊と民間の警備会社の警備員に挟まれ、毎朝、座り込み、非暴力の抗議活動を繰り広げる市民たち。2024年2月13日筆者撮影。

3.1955年、「銃剣とブルドーザー」で強制接収

1955年3月、米軍は伊江島で「銃剣とブルドーザー」で島民から土地(家や畑)を取り上げました。食べるために農地を耕しても、米軍にガソリンで燃やされ、6月には餓死者が。島民たちは沖縄本島に出向き、「乞食になったのではなく、武力によって乞食を強いられている」と琉球政府前から行進。後に「乞食行進」と呼ばれるようになりました。(*)

工事資材を米軍「キャンプ・シュワブ」へ運び込むダンプカーなどの車列に、「NO辺野古新基地」、「埋立に血税使うな」、「基地建設 サンゴ移植 絶対反対」のプラカードを掲げての非暴力活動。
2024年2月13日筆者撮影。

4.1971年、沖縄の声を反映しない返還協定が強行採決

1969年の日米共同声明で1972年の沖縄返還が決定。1971年、沖縄の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)公選行政主席(後の初代沖縄県知事)は住民の声を訴える「復帰措置に関する建議書」(参考)を国会に届けるべく上京。しかし、自民党は「沖縄返還協定」を強行採決しました。1972年5月15日、「基地のない平和な沖縄」(参考)への願いは捨て置かれ、戦後27年間の米国統治が終わりました。

5.米軍基地の占める割合:返還前4割から7割に

それで何が変わったでしょうか? 本土復帰したはずの1972年でしたが、それまでにもそれからも、本土の米軍基地反対運動の皺寄せを受けたのが、沖縄でした。全国にある米軍専用施設のうち、1959年にはその38%が沖縄にありましたが(参考)、1972年には58.7%、2021年までに70.3%(参考)と増えています。

伊江島土地を守る会(代表:阿波根昌鴻)が作った団結道場。2024年2月14日筆者撮影。

6.1996年、普天間“返還”の代わりに沖縄で新基地建設

1996年には「沖縄県民の負担軽減」などを目的に、日米政府の「沖縄に関する特別委員会(SACO)」の最終報告で、普天間飛行場を全面返還することが合意されました。ところが、それは「代替施設」の完成などが条件でした。結局、米軍「キャンプ・シュワブ」のある辺野古崎をV字型に挟むように、南と北の美(ちゅ)ら海を埋め立てて滑走路が作られることが県民の頭越しに決まりました。

埋め立て区域の3割を占める辺野古崎の南側での工事は、2017年から強行されました。これは、3度の沖縄県知事選と県民投票で示された「辺野古新基地反対」の民意に反した、国の行為です。

阿波根昌鴻さんが作った反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」。2024年2月14日筆者撮影。

7.2024年1月、辺野古崎の北側も埋め立て強行

2024年1月10日、辺野古崎の北側に広がる大浦湾(おおうら・わん)で、防衛省沖縄防衛局(以下、防衛局)が埋め立てを強行しました。12日に予定されていましたが、1日に能登半島地震、2日に日本航空機と海上保安庁機の衝突と、本土メディアの報道枠が埋まる中、2日前倒しの「不意打ち」だと地元紙では報じられました。

2024年1月10日沖縄タイムスは、1面トップ、2、3、4、24、25、26面がこのニュースだった。

8.大浦湾側:マヨネーズ並みの軟弱地盤に着工

北側の滑走路予定地は、マヨネーズ並みの軟弱地盤(最深90メートル)。そのため、防衛局は2020年になって地盤改良のための設計変更を公有水面埋立法に基づいて申請。これを沖縄県知事が「不承認」としたため、防衛局が行政不服審査法に基づいて申請、国土交通大臣が知事の「不承認」を「取り消す採決」を出すと同時に、知事に是正指示を出しました。しかし、知事は是正に応じず、「不承認」を維持。

出典:「沖縄から伝えたい。米軍基地の話。Q&A Book 令和5年版
Q24の縦並びの図を横並びに筆者改変

2023年12月28日、今度は、国土交通大臣が「代執行」で知事に代わって「承認」。これを受けての1月10日の強行でした。この代執行については、沖縄県は、国と地方公共団体との関係を「対等・協力の関係」とした地方分権改革の成果を無にしていると指摘(参考)、行政法学者も異議を唱えています(参考)。

なお、行政不服審査法は「公権力の行使に当たる行為に関し、国民が(略)不服申立てをすることができる制度(略)により、国民の権利利益の救済を図る」(第1条)ための法律です。公権力を持っている国(防衛局)が、県に判断を取り消すように国(国土交通大臣)に申し立てるのは、筆者には、公権力の濫用だとしか思えません。

大浦湾を埋め立てる土砂の運搬業務に対する抗議行動を行う住民。運び込まれた土砂は安和(名護市)の桟橋から船が運搬する(2024年2月13日筆者撮影)

9.地方裁が国の「取り消し」の「取り消し」を却下

2024年1月17日、知事はさらなる一手を繰り出しました。知事の「不承認」を国土交通大臣が取り消した採決の「取り消し」を地方裁判所に求めましたが、却下されたので、今度は高等裁判所に控訴しています(参考)。 

そもそも、大浦湾には軟弱地盤があることを、防衛局は2007年段階で知っていたこと(参考)、さらには辺野古崎の南側の埋め立てが始まる前の2015年にも業者から報告されていたこと(参考)が、共同通信によって暴かれています。

平たく言えば、軟弱地盤がバレた後に、地盤改良のために7万本以上の杭を打たなければならないからと、公有水面埋立法に基づく変更を承認して欲しいと申請したわけです(参考)。当初は2300億円であるとされた総工費は4倍の9300億円に膨れ上がっています(参考)。

大浦湾を埋め立てる土砂は、現在、名護市安和の桟橋(上写真)と本部町の塩川港で、一日何百台ものダンプカーで船へと積み込まれています。

土砂はダンプカーから塩川港に接岸した船へ。海上には大浦湾へ向かう何隻もの船が待機している。
(2024年2月13日筆者撮影)

10. 知る人ぞ知る安和と塩川の非暴力運動

こうしたダンプカーの出入りに対して、牛歩で対抗する行動を住民は交代で続行しています。牛歩に合わせて話を聞くと、「軟弱地盤でできないかもしれないところに、血税を投入するのは許せない」、「利権を貪っているだけだ」、「今日にでも事業が止まるかもしれない。アメリカがある日、突然、もう要らないと言うかもしれない。その時に少しでも海への影響が少なくて済むように、土砂の埋め立てをスローダウンさせたい」と、さまざまな思いを吐露してくれます。辺野古のキャンプ・シュワブのゲート前以外にも、多くの人が知らない非暴力運動が続いています。

大浦湾を埋め立てる土砂の運搬業務に対する抗議行動を行う住民。運び込まれた土砂は塩川港(本部町)に接岸する船からも運ばれる(2024年2月13日筆者撮影)。

以上が3日間の沖縄滞在だけで、この国はいったい何度、沖縄を見捨てるのかと私自身が思ったいきさつです。

沖縄をもっと知りたいと思った方に

(*)印をつけた話の続きを書いておきます。翌年1956年7月28日には、米軍による土地の強制接収などに反対する県民大会が、15万人が参加して那覇市で開かれました。主催は「全沖縄土地を守る協議会」。その会長は、後に初代沖縄県知事となった屋良朝苗さん。事務局長が上記写真で紹介した阿波根昌鴻さん。そして理事の一人が後述する瀬長亀次郎だったと、頂いたパンフ(創立75周年記念 劇団文化座公演148『命(ぬち)どう宝』)で知りました。歴史を動かした3人が同時にそこにいたことにじんわりとした感動を覚えます。その周りにも共に激動の時代を生き抜いた人々がいたはずです。

阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さん(1901-2002)は、伊江島で非暴力の闘いを島民と共に米軍に挑んだ「伊江島土地を守る会」の代表。占領による被害の記録を阿波根さんがカメラで収めた写真は、今、反線平和資料館「ヌチドゥタカラの家」に常時展示されています。また、それ以外に見つかった写真も含めた記録写真展「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」が、2024年2月23日(金)から5月6日(月)まで原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市)で開催されるそうです。

瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)さん(1907-2001)は、新聞記者を経て、米軍統治下で投獄されたり弾圧されたりしながら那覇市長に。その後、衆議院議員を7期務めました。那覇市内に「沖縄の民衆の戦いを後世に伝えよう」と設立された「不屈館」があります。館長で、亀次郎さんの次女である内村千尋さんによれば、「不屈館」という名称は、建設途中に左官屋さんが勝手につけたのを「いいね」ということにしたそうです。「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」という映画もできています。

たくさんの方に訪れていただきたい場所だと思いました。

わびあいの里の大畑豊さん、西浦昭英さんには、現地案内や資料提供など(このノートの間違い探しでも!)、大変お世話になりました。お礼を申し上げます。

今回はひょんなご縁があって、沖縄へと足を運びましたが、そのことについてはまたの機会に。

辺野古の浜の座り込みテント(2024年2月13日筆者撮影)

【タイトル写真】

グラスボートから大浦湾の埋め立て現場を遠く臨んだ(2024年2月13日筆者撮影)。日本自然保護協会によれば、「辺野古・大浦湾には、わずか20平方kmほどの範囲に5,300種以上の生物が生息」している。同協会は1月10日に、「大浦湾は深い起伏を持つ複雑な地形を有し、この海域特有の生物多様性を支える非常に重要な環境である。日本自然保護協会は、これまで辺野古・大浦湾の自然環境調査およびこの海域の生物多様性の保全を求めてきた立場から、工事を進める政府に強く抗議する」との声明を日本政府に対して発した。

【以下、訂正してお詫びします(2月21日0:02加筆)】
・1箇所✖️「砂川」→○「塩川」
・✖️「じゃなは」→○「じゃはな」
・✖️土地(家や田畑)→○土地(家や畑)
・✖️塩川港(名護市)→○塩川港(本部(もとぶ)町)
【以下も訂正してお詫びします(2月23日加筆)】
・✖️平和資料館→○反戦平和資料館
・✖️伊江島で戦火を→○沖縄戦を
・✖️7月には餓死者が→○6月には餓死者が
・✖️団結小屋→○団結道場
・✖️「代替施設」の完成→○「代替施設」の完成など←(参考
・✖️埋め立て区域の3割にあたる辺野古崎の南側の埋め立ては→
  埋め立て区域の3割を占める辺野古崎の南側での工事は(←埋め立て自体は2018年から強行)
・✖️辺野古基地新設反対→○辺野古新基地反対
・✖️トラック→○ダンプカー
・✖️辺野古の座り込みテント→○辺野古の浜の座り込みテント
・✖️抗議船(グラスボート)→○グラスボート


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