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「強い女オケ」を応援しながら考えていたこと――オーケストラと第三波フェミニズムについてのメモ

まだ終わってもいない、まだ聴いてもいないコンサートのことを書くなんて普通はあり得ない。これは、L'orchestre de femme fatale(通称「強い女オケ」)をめぐるここ数日(3月1~2日)のTwitterにおける盛り上がり(と言えばいいのか、何と言えばいいのか、少なくとも「論争」というようなものではないが、「盛り上がり」に含まれる楽しげなニュアンスもどこか違う、が、とりあえずこう書いて措く)を横目で見ながら考えていたことを、リアルタイムでは整理できず後日思い至ったことも含めて書き留めたメモである。

本文の前に、もしこのオーケストラ団体のことを知らない方がいたら、せめてHPをご覧になってから本文をお読みいただきたい。(ただし、このオケを知らないということは、そもそもこの記事を書くきっかけとなった「盛り上がり」を知らないということなので、読み進めるのは難しいかもしれない。)

ざっと流れてきたのを眺めていた程度なので、全部の批判を確認出来ているわけではないが、個人的に目がついたのは、「音楽に性差を持ち出すとは無粋だ」という批判である。だが、少なくとも公式の公報で「女の方が」といったある種の比較的な言葉遣いを僕はみたことがない。たとえ「女」を強調していても、それだけで「男との差」を表現しているわけではないだろう。

そして、「音楽は政治や社会問題からは無縁であってもらいたい」という言及もあったが、これはおおよそ、近ごろ毎日のように報道される女性差別という社会問題に、このオケの文脈を求めたのだろうと思う。直近だけでも耳を疑うニュースに頻繁に接するし、気持ちはわかる。けれども、最初から一貫して公報されてきた楽団コンセプトを、まず僕たちは受け取るべきだ。

というか、その「社会問題」に直接的に応答したかったわけではなく、別の理念があってこのオケを彼女たちが設立したとしても(実際そうなのだが)、男性中心主義の弊害があらゆるところに生じている今の日本/世界に生きている限り、その文脈を当の彼女たちが全く意識せずにいることは現実的に不可能だ。その意味では連日報道される社会問題に呼応「してしまっている」というだけで、「それもあるにはあるけど、言いたいのはそういうところではない/やりたいのはそういうことではない」というのが当事者の心境だろう。(補足として、このオケの設立は2020年6月と推測されるが、着想は通常企画が走り始めるよりもずっと前であることがほとんどで、今日から1年くらい前に着想されたものだったとしてもおかしくない。その点でも、タイムリーな時事問題に応答しているとは考えにくい。)

実際にその後、公式アカウントや関係者からは、楽団の着想、活動の意図が改めて説明されていた。繰り返しになるが、そこでの説明や、当初からの公報内容をまず、僕たちは踏まえないといけない。なかでもi-amabileに掲載する告知文は、短文にまとめないといけない分、重要な要素が凝縮されている。「団員全員が自分の思う”femme fatale”を見た目と演奏をもって全力で表現します」ここにこのオーケストラが何をやろうとしているのかが見て取れる。

ここでいったん話を脱線する。僕には、ある批判者の「音楽は政治や社会問題からは無縁であってもらいたい」とは、実はすごくナイーブな考え方なのではないかと思える。実も蓋もないかもしれないが、音楽であれ絵画であれ、あらゆる作品は、ある社会のコンテクストの中で、あるコードに従って制作される。この限りで極めて社会的な産物だ。「男声が必要だから男を、というのならわかる」(大意)、というような言及もあったが、僕たちがある作品の中で「男声」を求めてしまうその感性は、社会的な構築物でもある。

僕の不勉強ゆえかもしれないが、男性のソプラノ歌手や、女性のバス歌手というものを、僕はほとんど聞かない(昔はカストラートというのもいたがその話をすると込み入るので割愛する)。それは男ならバスかテノールで、女ならアルトかソプラノ、という前提が無批判にあるのではないか。それを、いやそれは違う、声帯の事情で向き不向きがあるのだ、という人がいると思う。けれども、男でも女でも、最初からバスからソプラノまで選ぶ選択肢が自然に存在している中で、それぞれが自分の事情と希望に合わせて担当を選ぶような世界に、僕たちは生きているだろうか。バトラーの『ジェンダートラブル』はまさにここを指摘している。ボーヴォワールはジェンダーとセックスを分けたが、バトラーはその根底にある物質的身体観に疑問を持った。むしろジェンダー的な規範が、そのまま僕たちの性差認識を形成していると考えた。

そしてそもそも、「芸術にはそれ自体に価値がある」という考え方自体が、芸術界によって構築されたイデオロギーでもある。価値あるとされる芸術の内実やそれを制作するときの振る舞いが定められていくごとに、その芸術の名のもとに抑圧・排除・周辺化されてきた存在があった。そのまごうことなき一例がまさに女性であり、それを暴いたのがフェミニズムだった。

足首まで隠すスカートは、正直チェロ演奏には不向きだろう。そうした事例は、僕たち男性の気づかないところで山のようにあると思う。特に気にしなくてもよい有利さのことを「特権」と呼ぶことがある。あるオーケストラで、演奏者の演奏の様子を見えないようにして演奏だけ聴いてオーディションしたところ、これまで男性ばかりが合格していたのに、今度は女性がかなり増えた、という事例を聞いたことがある。正当な評価とは何か。規範とは何か。オーケストラやクラシック音楽とは、まさに男性特権の世界だった。

話を少しずつ元に戻したい。2000年代以降主流となったフェミニズムを、いわゆる「第三波」と呼ぶことが多い。それに対して1960年代から1980年代までの間で主流だったフェミニズムを「第二波」と呼ぶ。この違いを細かく説明すると長くなるので、これも割愛させてもらいたい。二つ、とても大切なところに言及すれば、「第三波」とはまず、「第二波」が女性の権利拡大を連帯した運動によって実現しようとする中で、女性を「女性」とひとくくりにしたことを批判している。つまり「男性特権に抗うためのあるべき女性の姿」とでもいうべきモデルに女性をはめることを拒否した。具体的には、かつて第二波が主張した「女性」とは、結局のところ「白人中産階級女性」でしかなく、黒人もいれば低所得者もいるという重要な点が見過ごされていた。ここから第三波は、女性の中にある差異・多様性を重視した。そして二つ目は、日本を含めて経済成長を実現した後のいわゆる先進国では、女性の権利主張は、ポップカルチャーに始まる消費社会の内部で実現されるようになったことである。着たい服を着る。持ちたいものを持つ。そのことで女性は、自分らしさを主張するようになった。

だから、「団員全員が自分の思う”femme fatale”を見た目と演奏をもって全力で表現します」というコンセプトは、まさしく現代を生きる女性たちの自己実現を、オーケストラという舞台で目指し、またそれがオーケストラ・クラシック音楽文化自体への問題提起にもつながっていると言える。公式公報では、当初は「全員ユジャ(・)ワンみたいな衣装着るオケやりたいねん」という設立者の思いで始まったとしている。そして、参加者や支持者たちの、着たい服を着て、ふるまいたいようにふるまうことへの憧れ、その自由さへの歓喜は、タイムラインから十分に読み取れる。

また、通称「強い女オケ」の「強い」とは、個人的な推測ではネットスラングから無意識のうちに来ているのではないかと思っている。例えば「つよつよ」「よわよわ」と言うときの「強い」だ。例えば「つよつよの絵師さん」と言うとき、「うわー、かっけー、自分もこんなの描きたい!」という憧れを表現することが多い。もしくは、いわゆる女子の会話で「なにあいつ、つよー!」というとき、それは「自分には到底できないようなことをしている」というニュアンスを持っていることがある。だから、強いと言っても別に「マスキュリン」「パワフル」ではなく、ゆえに「(男より)女が強いオケ」という見方は、見当違いか、被害妄想だろう。そうではなく、「団員それぞれが思う〈強い女〉」とは、まさに、日頃なら遠慮しがちな、でもなれるならなってみたいと各自が思う憧れの姿なのだ。それを長らく女性に抑圧的な世界だったオーケストラで実現する。きわめて意欲的だと思う。

ひとつ気になることがあるとすれば、何の気なしにある団員がつぶやいた「練習ではいい匂いがしたので、普通のオケで空気がこもるのは云々……」(少しぼかして書いてある)のようなツイートは、身内からすれば笑って流せる人もいるだろうが、人によっては格好の炎上材料になる。特に今の時代、そうならない保証はどこにもない。不幸にも今のような時代に「強い女オケ」を名乗る以上、そのあたりのリスク管理やコンプライアンス対策は必要となってくると思う。もちろん、リスク管理というティップスだけを提示してその発言をかばっているわけではなく、それ自体があまり品の良い発言とは言えないので控えた方がよいことは確かだ。ただ、である。これまで、男が反対に似たような発言を公然としていても、女は何も言えなかった、それどころか「笑って受け流すのが甲斐性」とさえ言われてきた長い期間があったことを、男性はもはや忘れたとは言えないだろう。

いずれにしても、先日の「盛り上がり」を果敢に乗り切ったこのオーケストラはやはり強いと思う。「女」と書くだけで女を押し出しているように受け取られる苛烈な社会で、女性と自認したうえでの自分らしさを、それぞれが追求する。その自由さに敬意を表したい。そして当日、こんなことがあったことすら振り切って素晴らしい演奏を聴かせてくださることを楽しみにしていようと思う。

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