何がデジタル化を阻むのか?IT業界が「紙とハンコ」から学ぶべきこと

僕は紙の書類が大の苦手だ。あれはそもそも毎日のように同じ机に出勤している人たちにしか向いていない。わたしのように毎日違う机に出勤し、あちこち飛び回っていると本当に不便だ。今日も休日というのに、理事をやってる業界団体やら講演先から送られてきた書類に署名・捺印してポストに投函しなきゃならない。電子メールで用事は終えたのに署名捺印された書類が必要らしい。送られてきたExcelを印刷して捺印したのを写メで送ったり、電子データで構わないのでといわれて印影作成サイトなんかを紹介された日には、自分が何のために何をやっているか本当に分からなくなる。働き方改革といって在宅勤務やら副業を推奨するのであれば、まずは紙の書類を一掃すべきだと常日頃から感じている。

9年ほど前にIT戦略本部で何とかハンコをなくせないものかと画策したことがある。きっかけはNYに出張している最中に規制改革の委員会の委嘱状がきたことだ。翌週も成田トランジットで台北、シンガポールと回る予定だったのだが、すぐに承諾書が必要になるという。今も愛用しているマイクロソフトで入社時にもらったフルネームのシャチハタは机の引き出しにある。ハンコだけで済むのであれば秘書にお願いして判を押したのを送付してもらうところだが自署も必要という。当時は出たばかりのiPadに指で署名して、それを東京で印刷したのにハンコを押したのでどうかと掛け合ったものの、その場合に「原本はどれになりますか」と聞かれて答えられない。NYで署名して送付しようにも日本と違ってスーパーや文房具屋にハンコが売ってない。窮余の策としてTwitterで助けを求めたところ、小倉弁護士という人から「とりあえずNYのスーパーでも芋は売ってるだろうから、芋判をつくって押したらいいのではないか」という大変建設的なご意見をいただき、事務方にメールで確認したのだが「総理宛の文書に芋判というのは前例がありませんね」と困惑されて、帰国後まで提出を待っていただけることになった。よく考えればホテルのビジネスセンターでで印刷して署名した書類を東京のオフィスに送って、秘書に捺印、投函してもらえば良かった話なのだが、当時のわたしも随分と意固地なものだ。

高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部 情報通信技術利活用のための規制・制度改革に関する専門調査会(第5回)「電子書面の有効性」に関する関係者からのヒアリング及び議論 議事次第・資料 議事要旨

何ヶ月か前にデジタルファースト法案を巡って、はんこ業界からの働きかけもあって法人設立時の印鑑登録義務の廃止が見送られた。さきの内閣改造では当のはんこ議連の会長がIT担当大臣に着任されたことでネット界隈で波紋が広がっている。だがちょっと待って欲しい。我が国において「はんこ文化」がなかなかなくならないのは、そもそもはんこ業界の抵抗によるものだろうか?十何年も前に電子署名法が立法されて、現行法の下でも電子契約は認められているが、なかなか広がっていない。仮に法人登録時の印鑑登録義務が廃止されたとして、サプライチェーンの上流にある企業が紙と実印での契約を求めたならば、取引先は印鑑登録と紙での事務を続けざるを得ない。いまだって取引先に対して手形で決済して、いついつどこそこまで取りに来いとやっている大企業さえ残っているのだから。きっと法人設立時の印鑑登録義務を廃止したところで、急に印鑑業界が消えてしまうようなことはない。

まずは業務の印鑑レス化を推進して、法人における事務のペーパーレス化がそれなりに進んで、印鑑登録が実態として形骸化したところで、印鑑登録義務を見直すのでも本来であれば決して遅くはない気がするけれども、物見高き人々から散々「日本の電子政府はイケてない。エストニアは住民カードがあれば10分で法人を設立できる」と叩かれたこともあるし、まずはカタチから入ることも技術導入を促進する上では、ひとつのやり方ではある。あるのだが、反対を押し切って法人設立時の印鑑登録義務が廃止されたとて、取引先の要請で大半の企業はこれまで通りに印鑑登録を行って、紙の書類にハンコを押して、やれ契約書だ委嘱状だとハンコと書類に追い回される生活が続くのであれば、せっかく反対を押し切って規制緩和をやったところで泰山鳴動して鼠一匹となってしまう。

世の中には様々な業態があって、せっかく法人設立時に実印をつくったところで実際には全然使わないような働き方もあるのかも知れないし、印鑑登録義務はなくすに超したことはない。とはいえ本当に日本社会の生産性を上げるためには、まずは日々の仕事において、紙とハンコに頼らなくても業務が回るようにすることこそ本筋の議論ではないか。

電子署名法ができて20年近くも経って電子契約が期待ほどには進まなかったのは、決してはんこ業界の政治的影響力が強かったからではなく、企業や個人にとって市場で提供されてきた電子契約が経済合理的ではなかった、算盤を弾いてみると紙とハンコを使うことの方が理にかなっていたということを不本意ながら認めるところから始める必要がある。あたかもはんこ業界が抵抗勢力として業務のデジタル化を阻んでいるかのような幻想を振りまいたとて、法律に書かれているハンコ絡みの条文だけを弄ったところで、紙の文書とハンコに頼ったビジネス慣行を変えることは難しい。

とはいえ実のところこの十数年で、業務のデジタル化はそれなりに進んでいる。いま新規開業する企業であればクラウド会計をはじめとして様々なSaaSを使っているが、これらの多くは紙の契約なしにサイト上の約款同意で使い始めているケースが多いだろう。企業と個人の間の契約にしてもオンライン上のサービスは約款同意である。デジタル化が進んでいないのは個別契約の電子化で、統制の行き届いた組織であれば、アルバイトひとり雇うにも契約を巻く必要がある。多くの金融機関が改正銀行法に従ってAPIを整備したけれども、個別に契約を巻くのが大変過ぎてなかなか利用が進まないといったことも起こっている。これまで必ずしもデジタル化が進んでこなかったという話でもなくて、デジタル化に取り残された非定型事務を、紙とハンコが支えているといった方がいいだろう。

ここ数年はRegTechといって契約書のレビューや契約締結を面倒みるサービスが山ほど出てきたけれども、文書による契約の電子化は、まだまだこれからの世界だ。そして契約締結において本当に面倒なのは、押印や紙の書類の保管以上に、契約のレビューと交渉そのものであって、押印そのものにまつわる事務が全体の工数に対する影響はそれなりにあるとはいえ限定的だ。実際に押印にまつわる事務フローを効率化する際には、押印そのものをどのように置き換えるかどうか以上に、契約を極力テンプレート化するとか、契約にあたっての交渉コスト自体をどこまで削減できるかが重要となる。

現状では、はんこと比べて法人向けに販売されている電子証明書が高額かつ毎年のように更新する必要があり、判例がないために契約を結ぶことで本当に紛争を解決できるのかが定かではなく、署名や検証に必要なソフトウェア環境が複雑で、いつまで同じサービスが提供されているか分からないといった諸々の不確実性があって、どの契約事務にどういったサービスを使って問題ないかどうか、リスクを洗い出すだけで更にコストがかかってしまう。

本気で事務から紙の文書を一掃したいのであれば、はんこ業界を叩くよりも前に、はんこよりも低廉で使い勝手が良く、長期的に安定して利用できるサービスを提供し、地道に判例を積み重ねていくことこそ重要だ。毎年はんこよりも高い利用料を取り、使おうとしたらWindowsとInternet Explorer、ICカードリーダーが必須で、OSをアップデートしただけで急に動かなくなったり、将来いつサービスを止めてしまうか分からないようなサービスしか提供できないようじゃ、お話にならない。企業単位で整備されてきたITシステムの多くは、組織内の定型的な事務を機械化するようにできていても、組織間の非定型な事務を高い法的安定性を持って支えるようにはできていないのである。

業務のデジタル化が進まないのは誰かが反対して止めているからではなく、未熟なデジタル技術が、今なお様々な観点から紙を使った業務フローと「はんこ」に負けているからに他ならない。そこから虚心坦懐に学んで、業界が利用者に寄り添った使い勝手の良いサービスを地道に提案していかない限り、そして利用者も日々の業務に埋没して「これまでこうやってきたから」と漫然と続けるのではなく「何をやりたくて、本当に必要な要件は何か」問い直し、手間を惜しまず前向きに業務を組み立て直す気概を持たない限り、新しい日本の職場が紙とハンコから解放されることはない。わたしたちをはんこに縛り付けているのは、はんこ業界ではなくわたしたち自身なのだ。

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