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発掘【エッセイ】一二〇〇字

 早大エクステンションセンターの「エッセイ教室」に通って、7月で丸5年を迎える。センター本部は、(かなり儲かっているのか)早稲田通り沿い、穴八幡裏門前にある新築の専用ビルとなっている。が、昨年までは、二浪目にお世話になった予備校、「早稲田ゼミナール」の建物だった。ビルの裏、大隈講堂の裏側、通称「隈裏くまうら」には、演劇研究会、劇団木霊、舞台美術研究会の、3つのアトリエ(潰れそうな小屋)がある。予備校時代、よく教室から眺めていた。
 センターは、社会人向けのオープンカレッジ。早稲田の卒業生が多いが、だけではない。(ワタクシ以外は)レベルが高い。作家を生業としているのではと思えるぐらい。そんななか、最前列の席を定席としている。苦悶する表情が伺い知れないように、と。
5年前の手帳をめくると、7月13日が第一回。酷暑だった。受講動機は、「ボケ防止」。というのは、表向き。書くことによって、忘れていた過去が浮かび上がってくるときの快感を得るためということになろうか(想い出したい過去だけでなく、忘れたいことも浮かんでくるけど・・・)。年四クール開講される。1年に28のお題。これまで未提出はないので、5年で、140作書くことになる。
 席に着くと、白板にお題が書かれる。自由題なら、「note」に書き溜めた投稿記事からテーマと重なるエピソードをチョイスし、詰めて、600字にまとめればなんとかなる。しかし、出されたお題で書くとなると、かなりネタが限定される。いつも、「こんなの書けないよ」と思う。毎回、悩む。授業時間中も考えている。何かないか、と。過去に、最近の出来事に気を集中し、記憶の欠片を探し始める。自宅に戻っても考える。が、浮かんでこない。音楽を聴きながら(いつも同じ。『Don’t worry be happy』)、テレビを観ながら、頭の中は、課題のこと。その日じゅう、真っ白な頭が続く。今回は提出できないかもしれないと、半分以上は覚悟したこともある。
 トンチンカンなエピソードを追い続け、思い直して、最初に戻ることも。何度か苦しみ悶える。すると、おぼろげに「何か」が見え隠れしてくる。そのうちに、書き出しと終わりのフレーズが浮かんで来たら、ほぼほぼ書き上がったも同然。出来の良し悪しは別として。
 遺跡の発掘で、文献から推定される場所を推測し、可能性の高い一帯を縦横にトレンチを掘る。ネコで土砂を仮置き場に運ぶ。その繰り返し。そのうちに遺物らしき塊が顔を出すと、スコップから草削りになり、竹ベラ、刷毛と徐々に繊細な道具に替わる。最後は、測量をし、図面描きをする。エッセイを書くのは、まるで、自分の遺跡の欠片を発掘するかのようである。
 そして、何度も、推敲する。それは頭がまっさらになった朝が良い。その作業を、多和田葉子が宣う。<何度も読み返し推敲していると「これ以上いじると悪くなる」瞬間が訪れる。そうなったら旅立ちになる>と(『言葉と歩く日記』)。
 最終的にどうにか書きあげ、教室の課題提出ボックスに投げ入れる(「note」にも、エイヤーと投稿する)。作家のどなたさんかがおっしゃったが、一度手から離れた作品は、排泄物となる。なんちゃってね。単に評価が怖くて忘れたいというのが、本音なんだけどね。

(おまけ)

朝日新聞朝刊(2023年6月7日)

「軍拡」が、「恐怖の連鎖」を避ける手段なのでしょうか。次の投稿は、久しぶりに「政治ネタ」でいきます。

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