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結核病棟(5の1)【エッセイ】一四〇〇字

画像:堀辰雄が結核を患い入院していた八ヶ岳山麓の「富士見高原療養所」。小説にはこの療養所がよく登場する。
私が入院していたのは街中の市立病院。その別棟の隔離病棟。大きさこのくらいあった。
                  ※
 初めて触れた「おとなの世界」だった。
 北海道滝川の進学校2年の年末に結核が見つかり、滝川からバスで30分の家で三が日を過ごし、早々に、母に付き添われての入院となった。病棟は、市立病院本館から廊下でつながる木造建て。1階に看護婦詰所(ナースステーション)と面会室、風呂場、40畳位の集会場。その奥と2階に病室がある。看護婦に案内されたのは、階段上ってすぐの他の部屋と直角に突き出た部屋だった。近くに個室が4部屋。その奥は8名の大部屋が4部屋。集会場では、定期的に行事が行われていた。

 病室は、10畳位の広さに3名。一人は50代後半の白木さん。滝川市役所の公務員をしていたらしい。あと一人は、松田さん。病院の隣で花屋をやっている家の息子。4、5歳年上。私立の商業高校を出て遊んでいたようだ。いまいう青白きイケメン、ホスト風って感じ。
 白木さんは、2年以上前から入院していたようで、窓近くにベッドがあった。病棟でもぬし的存在。その向かい側の壁沿いにベッドがあり、松田さん。私は、白木さんの右横の壁側だった。自己紹介が終わり、パジャマに着替え、備え付けの本箱に発売間もない『万延元年のフットボール』と教科書、ラジオを並べた。

半年過ごした病室

 昼食を済ましてから、安静の時間が3時まである。しかし、目を閉じているだけで眠ることができなかった。3時になると検温。看護婦さんが体温計を渡しに全室を回る。看護婦さんが出たあと、10秒くらいで、松田さんは体温計をベッドに置き、速足で部屋を出て行った。
 白木さんが浪曲師のようなダミ声で教えてくれた。「彼は風呂に行ったんだよ。検温が終わったら入浴できるので、ズルして。一番風呂ってわけだ」と。
 当時の体温計は、5分くらいは脇に挟まないといけなく、彼は毛布で先の水銀の部分を擦って平温にしていたのだ。私も、次の日からはそのズルをマネして松田さんと一緒した。
 結核と言えば、昔は不治の病。森鴎外、二葉亭四迷、正岡子規、国木田独歩、樋口一葉、石川啄木、堀辰雄などの文豪は、肺病(肺結核)を得て生涯を閉じたことは、あまりにも有名。堀の『菜穂子』は、サナトリウムという療養施設が舞台だった。しかし、昭和50年頃には、抗生物質や、ストレプトマイシン、パスの新薬を併用することで、治せるようになった。それでも、治療期間は1年、2年の長期療養が必要とされていた。亡くなるひともいる。入院中に二人いた。幸い私は無菌で、軽症の診断。とはいえ、半年の期間を要する。ひたすら安静にし、太ることが仕事で、「贅沢病」とも言われるようになっていた。
 太ると言っても、病院の食事だけでは、無理。退院したときには10キロ以上太ったのだが、母が週に2、3日のペースで肉料理を持ってきてくれたからだ。好物の豚カツと焼き豚だった。ちょうど冬だったので、何日分かの量を。
 母は、病院に来るのが楽しかったようだ。というのは、病院の帰りに近くにある実家に寄れるからだった。父は、実家に出かけるだけで機嫌が悪くなり、なかなか外出ができなかった。自分の悪口を言っていると勝手に決めつけていたのだ(事実、愚痴を言いに行っているのだが)。
 最初の夜は、買ってもらった『万延元年のフットボール』を読み始めたのだが、なかなかページが進まない。教科書も入院してしばらくは開くことはなかった。なかなか寝付けずに、ラジオドラマを聴きながら、一日目が明けた。
(とりあえず、つづく)

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