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残雪【エッセイ】六〇〇字

※画像は、Yamarecoサイトから。暑寒別岳しょかんべつだけの残雪
暑寒別岳は、北海道空知西部と、留萌東部の3郡4町にまたがる、標高1492mの山。小五から高二にかけて暮らした、北竜町・雨竜町・妹背牛もせうし町から見えた。

 朝カル「エッセイ講座」の3月のお題、「残雪」。大雪山系の旭岳や、雨竜沼がある暑寒別岳しょかんべつだけの残雪の記憶が蘇る。母の記憶の断片のように。
 母は、大正十二年(1923年)生まれ。瀬戸内寂聴のひとつ下。ことしが生誕100年。昨年末、義妹と姪が、五十周忌法要を執り行ってくれた。ここはやはり、母について語ることになる。

 大学二年の七月。両親がいた北海道・妹背牛もせうしに帰省し、帰京の日。バスの裏窓に、手を振り続ける母の姿があった。車窓から暑寒別岳しょかんべつだけを見やりながら、母を、追想していた。
 母は、十九から二年間、養女として東京の遠縁の家にいた。しかし、戦争が激化し、実家のある滝川に戻る。そして、終戦の翌年、海軍出身の父と、見合い結婚することに。
 母は、たびたび乱暴者の父の暴力を受けていたが、耐えていた。子たちに涙を見せることもなく。記憶にある母は、拭き掃除の姿。しかし、雑巾は、顔をふけるくらいに真っ白だった。大声で笑うことは、ほとんどなく、子たちに優しい笑みを浮かべるだけの、ひとだった。
 保育園児のころ。母が編み物をしている横で、絵を描いていた時。「マサ坊ぉ、紙を回せばいいっしょ」と、笑った。私が紙の周りを回りながら描いているのが、可笑しいと。
 高校二年の年末、結核を患い半年間、入院した時。週に二、三回、おかずを作って持ってきてくれたのだが、その時は嬉しそうだった。グチを言うために、実家に寄れるから。
 留年し入試も落ち、札幌での浪人中に政治運動に関り、失敗。それでも東京で再挑戦できたのは、東京の大学に入れたいと、母の強い思いがあったから。それを知ったのは、校章を渡した時。笑みを浮かべて小物入れに大切そうにしまいながら、母は言った。「銀ブラしようね」と。
 想いだしながら暑寒別岳を眺めていて、気づいた。頂上付近に、冬の欠片が残っていたのだ。消えていく想い出のように。
 母は、その五か月後に、劇症肝炎で逝った。憧れの東京に住む息子と「銀ブラ」することも、叶わずに———。

母、菊地テル(初公開)

(おまけ)

2023年3月3日

これはまるで、『日没』の世界だ。

平時でこのようなことが行われるのだから、戦時においては、どんな人間でも目を背けたくなるような行為を普通にやってしまうということだろう。軍事裁判があるわけでもないのに、上司に仲間に抗うことができなくなるものなのだろうか。獣よりも劣る目で人間を見ていたということだ。なにも罪を問われることなく、平然と生きている。


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