対話主義

真っ当な対話の場を構築する方法を考察する。


対話主義とは

対話は全ての人の権利であると同時に責任であることを「人権と対話と人格」で説明した。対話が民主主義の土台となること、平和な世界の構築に不可欠であることを認めない人はいないはずである。人権を尊重し、さらに対話の価値を尊重す態度を「対話主義」と呼ぶことにする。そして対話主義を自認する人を「対話主義者」と呼ぶ。

反対話主義とは

一方現実には、対話を破壊して放棄する、さらには対話そのものを否認する、反社会的な個人が存在し、かつ集団化、勢力化する。この「反対話主義」とも言える態度は、反社会的勢力の最も重要な要素であり、日本に限らず普遍的に見られる。そして、残念ながら、今の社会は反対話主義に対して有効な手立てがなく、社会の言論は著しく汚染されている。

反対話主義は反社会であって、社会に存在するべきではないが、現実的にはそれぞれの言論の場ごとに対策をして、反社会的言論を不可視化することを、まず目指すべきである。反対話主義と戦うにあたって、大きく二つの策が考えられる。一つは、反対話主義者を言論の場から排除する方法であり、もう一つは、対話主義者のみ言論の場に招待する方法である。この文章では後者の方法を考察したい。

対話主義の条件

対話主義は、先に書いたように、対話を尊重する態度である。ここでいう対話とは、政治を含めた社会的な論点を前提とする対話であるから、ただ「社会について」発言するだけでなく、「社会のために」発言しなければならない。そして、それぞれの発言は、個人の意見として、その人個人の人格(個人的歴史)に基づいて説明可能でなければならない。全ての発言の説明責任が担保されてはじめて(社会的)対話が意味のあるものになる。

対話主義者の宣言

一案として、ある(社会的)対話に参加する場合には、全ての参加者に、対話主義者であることを宣言させる。ここで対話主義者とは何か。

  1. 人権と対話を尊重すること。

  2. 自身の人格(個人的歴史)を説明できること。

  3. 自身の立場(利他的な関心事)を表明すること。

これらを満たした上で、はじめて対話に参加できるようにする。

対話主義者の宣言は、必ずしも実名で個人情報を開示する必要はなく、匿名でも可能であろう。全ての情報を匿名化したところで、時系列を守って整合性を持って話せば、真偽の判定は難しくない。

立場の意味について、まず社会のどこかに自分の位置を客観的に相対的に把握する。自分から社会の中の何か(問題)に(利他的な)関心を向けて、ある程度の時間をかけて思考しまた行動する。自分の視点から自分なりの考えを説明できる。自分中心で、自分の存在に意味を求めすぎて、自分の正当化から逆算して周辺(社会)を批判するのは、順番が逆であるから、妥当な社会的発言たりえない。

反対話主義の弊害

では仮に、反社会的な、反対話主義者が発言するとどうなるのか。そういった発言は、発言者が責任を持たない。人格に基づいて説明し尽くすことができない意見であるから、妥当な意見ではない。こういった偽意見が紛れ込むと、その後の対話の全てが汚染される。もしこういう偽意見について問い詰めたとすると、発言者は逃げるかごまかすしかないので、対話を破壊して放棄する。対話の場がそのものが壊れてしまう。

前述の、宣言の内容は、どれも当たり前のように思われるが、反社会はその当たり前を何のためらいもなく裏切る。善良な人は、性善説によって、目の前の他者が善良であることを本能的に期待するが、反社会はその期待を必ず裏切って、人間の心理の脆弱性を利用してくる。対話の場の破壊を避けるために、また、偽意見に汚染されないためにも、多少面倒でも明示的な宣言は必要である。

まとめ

対話は勝ち負けではなく、知識や知性の争いでもない。一人ひとりの異なる多様な立場から、社会のために社会について論点の周辺を往復する、建設的な共同作業である。よって年齢も性別も国籍も宗教も思想も、全て超越して、誰にでも参加する資格がある、開かれた話し合いである。だからこそ、お互いの人権や社会を尊重する宣言が必要である。宣言ができない反対話主義は反社会であり、反社会は普遍的に不適格である。宣言の上に成り立つ場でこそ、包摂的で平和的で民主的な対話が実現する。

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