人権と対話と人格


対話

全ての人には対話する権利がある

対話とは、文字通りに解釈すると、二人の人が向かい合って、対になって話すことである。辞書的な定義も様々で、文脈によって意味合いが異なるが、一般的に言えば、表面的な会話よりも、深く、互いに心をさらけ出して、本心で話し合うように捉えられる。さらに、「対話会」やオープンダイアローグのように、一対一に限らず、複数人で話し合う場合に使われても、意味は通じるであろう。

岩波新書「対話する社会へ」の著者である暉峻淑子は、対話は人権の一部であるとする。対話は、全ての人のそれぞれの個性や性格、生き様を全て尊重し、多様性を重視する。人が自分の考えを他者に伝える、もっとも根源的な手段であり、表現の方法であり、全ての人に与えられる権利であるといえる。人権はまず個人の権利を定義するが、社会における人権は対話なしでは成立しないし、権力は市民の意思疎通を抑制してはいけない。対話は民主主義に不可欠の要素である。

全ての人には対話する責任がある

対話には必ず相手が存在する。対話が成り立つには、その対話に参加する全員が対話する意思を持たなければならない。一人が対話する意思を持つときに、相手が対話する意志を見せず、一方的に信頼を裏切って嘘偽りを話すことは、発話者の人権を侵害する行為であるし、社会(憲法でいうところの公共の福祉)を毀損する。全ての人が対話する権利を持つと同時に、全ての人には、対話する責任があり、対話できる心構えが必要である。

対話とは全人格をかけた話し合いである

対話とは全人格をかけた話し合いである。それは知識の多寡でなく、勝ち負けでもない。ただ全人格をさらけ出し、お互い人権、人格を尊重する話し合いである。例えば、ある論点があり、それについて考えを述べる。その考えが、その時点の、その人自身の出した考えであることが、証明でき、説明し尽くすことができなければならない。

人には考えを表現する権利があると同時に、その考えを説明し尽くす責任がある。そのためには、その考えを自分の人格に基づいて説明すればよい。自分の人格が説明可能であれば、考えもまた説明可能である。すべての人は対話する権利と責任があり、自身の人格を説明する責任を持つ。

人格

人格とは個人的歴史である

人には必ずその人だけの人生があり、記憶があり、個人的歴史がある。人は考え、行動し、経験し、感じ、覚え、そして考えて、また行動する。これが生まれてから毎日繰り返された結果が、個人的歴史であり、蓄積された記憶の現在の形を(人権と対話の文脈における)人格と定義する。

人格には連続性がある。ある人の人格が、寝て起きたら別人に生まれ変わっている、などということは決してない。人は、自らの経験や思考によって変化するし、他者の思想に直接間接影響を受けることもある。いずれにしろ、人格は連続的で、その変化や経緯には理由があり、個人的歴史は例外なく本人によって説明可能である。

全ての人には自身の人格を説明する責任がある

人格すなわち個人的歴史は、本人だけが全て知っていて、本人にだけ説明可能である。自身の個人的歴史を正直に話すことは簡単であり、説明できることを証明するのも容易である。対話のために、つまり他者のために、正直であることは、他者の人権の尊重であり、利他主義的な行為である。全ての人は社会(公共の福祉)を尊重し、全ての他者の人権を尊重して対話するため、自身の人格を説明する準備をし、心構えを持つ責任がある。

もし悪意を持って個人的歴史を修正すれば、それは対話の放棄を意味し、社会に対する責任の放棄であり、同時に社会に向けた対話の権利、つまり言論の権利を放棄するに等しい。

反対話主義

反社会は対話を破壊して放棄する

残念ながら、社会には、悪意のある、反利他主義的で、反社会的な人間も一定の割合で存在する。彼らは基本的に対話を破壊して放棄する。それが利己主義的で反利他主義的な行動原理と一致し、彼らの利益になる。相手の人権を尊重しない。対話を破壊して放棄するので、当然彼ら自身の人格を説明しない。説明責任を放棄する。または、「偽りの人格」を演じ、相手に向き合わない。

反対話主義は人類の敵である

対話を破壊して放棄する「反対話主義」は、日本に限らず、普遍的に見られる。簡単に言えば「嘘つき」であり、常に利己的に行動し、相手の不利益を顧みない。そして、社会に対する責任を放棄する。反対話主義は、反利他主義者が意思疎通や言論で必ず用いる、反社会的反利他主義的話法である。

そこで述べられる言葉は、人格によって説明されない、底が抜けた、宙ぶらりんの言葉であり、誰も責任をとることができない。いうなればポイ捨てされたゴミのような、検討する価値がない言葉であって、言論としては不適格である。

偽言論は存在してはならない

こういった言論態度は、個人としても手に負えないほどに厄介であるが、反社会が連帯して集団化して勢力化し、彼らの言葉が(偽)言論として世に放たれると、言論が汚染され、不可逆性によって回収不能になり、著しく社会が劣化する。反対話主義は、普遍的な人類の敵であり、人権の思想とは相容れず、この世に存在してはならない。

反社会的言論態度や偽言論を根から立つには、当然反社会的人格を対象にした人権制限の社会制度が必要である。この問題の考察は別の文章に書く。

まとめ

人権と対話と人格は不可分である

  • 対話は全ての人がもつ権利(人権)であり、同時に責任である。

  • 他者の人権を尊重する対話が、民主的な社会を構築する。

  • 対話における言葉の責任は、人格に基づく説明で果たされる。

対話と人格という概念が、人権の体系の延長で説明可能である目処は立ったと思う。しかし実際にこれらを社会に適用するには、実効的な社会制度が必要である。世界の崩壊、人類の終焉までに間に合わなくとも、あるべき姿を考えたい。

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