抗議行動を嘲笑する人々

抗議行動を嘲笑する人々が存在する理由を説明する。


反利他主義的は利他主義的行為を嘲笑する

結論から言えば、抗議行動を憎悪し嘲笑するのは、利害が相反する反利他主義的な人々である。この構造は単純で自明であるから、この文章で定義された概念に従わずとも、どのような形でも、社会に広く理解されることを望む。

抗議行動は利他主義的行為である

例えば、大きな公共事業が計画され、工事が始められ、進められようとしている。反対する地域の住民が、場合によっては、法律や秩序を破ってまでも、抗議し、妨害をしようとする。例えその手法が非暴力的であったとしても、現実的には様々な衝突があり、暴言が飛び交ったり、物理的な接触もあるかもしれない。何より、「決まりに従う」ことを徹底される日本の教育を受けた日本人には、理解し難い行為であることは間違いない。

こういった抗議行動は、常識では説明できない。非日常であり、天災や戦争と同様に、一種の極限状態であって、部分的局所的な善悪では説明できない、正義の問題である。社会は完全ではなく、その中の意思決定も完全ではなく、抗議行動も、参加者も、抗議の対象も、抗議の対象に関わる人々も、直接に間接に巻き込まれる人々も、様々な矛盾を孕んでいる。

抗議行動をする人々は、様々の矛盾と戦いながら、自分のため、自分達のためだけでなく、社会のため、未来のために行動を起こす。言うまでもなく、正当性の評価は、立場や視点によって変わり、完全に客観的に評価できるものではない。ただはっきり言えるのは、抗議行動は、自己犠牲を伴う、利他的な行為である、ということである。

反利他主義かつ反正義が反発する

一方、社会には、利他的な思想や行為に強く反感を持つ人が一定数存在する。社会における利他的な行為は、社会における自身の利害と相反し、自身の行動原理と完全に真逆の方向性であり、そういった行為に参加する人々は、自身に対する敵であると認識し、結果非難し、攻撃する。こういった性質を「反利他主義的」と定義する。

加えて、抗議行動のように、社会的利他主義的な行為で、かつ、法律や秩序を破る抗議行動は、正義とも呼べるわけで、反利他主義的な立場からすると、反発する動機が二重に強力に促されるから、「反利他主義的」は同時に「反正義的」と呼ぶこともできるだろう。

言うまでもなく、公共事業であれば、その事業を推進する勢力は、抗議行動を批判する。そして、その力は抗議する市民に比べてずっと強い。直接的批判に留まらず、正体を隠した、様々な間接的な批判がされることが想像できる。自らの利益のために、自らを正当化する集団の意思は、とてつもなく強い。

反社会的な言論態度によって印象操作する

抗議行動への批判の典型的な手法には、様々な反社会的言論態度、あるいは反社会的話法が駆使されるが、最も典型的には、偽情報の流布を含めた印象操作がなされる。新しい主張の拡散は容易だが、反論や収拾は手間がかかり困難である。しかも、こういった「まともでない」側と対峙すると、常に「まともな」側が回答し、説明し続けなければならないという、人間の心理を悪用した、非対称性を悪用する。

主張について追求されたときに、一方的に対話を破壊する手法は、カルトや反社会勢力が得意とする話法で、必ず逃げ切ることができる。言論に限らず、計画的な窃盗と同じように、反社会的勢力は、逃げ道を確保してから、逆算して行動する。反論してはぐらかす場合もあるし、反論を無視する場合もあり、様々であるが、まず反社会的な言論態度を認識することが大事である。

反社会的言論はまだ不可視化できない

残念ながら、2023年現在、日本に限らず、ここで説明したような反社会的な発言を、社会から不可視化し、無効化することはできない。具体的には、反社会的人格から、人権制限によって社会的発言権を奪う、普遍的な仕組みが必要である。この詳細は別記事で説明したい。とにかく、これらの反社会的な言論は、本質的には妥当な社会的言論ではなく、不適格で、広く可視化されてはいけない存在であるという共通認識を持ち、強い意志をもって無視するという、社会的合意がされる必要がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?