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台湾は中国なのか?③

前回の記事はこちら


台湾が日本だった時代があります。
台湾だけじゃなく、韓国や北朝鮮も
日本だった時代があります。

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20世紀初頭の地図を見たら一目瞭然ですね。

おなじみの日本列島の他
台湾や朝鮮半島まで含めての
大日本帝国の地図です。

今回は日清戦争後から日本統治時代までを
書いていきます。

日清戦争中は、
あまり台湾は関与しないので
省略します。

台湾が絡んでくるのは戦争後です。


日清戦争に勝った日本は
清から台湾を割譲させました。

これが1895年の「下関条約」ですね。

調印したのは、
あの初代総理大臣の伊藤博文です。

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懐かしぃ~千円札!

但し、当の台湾の住民には
日本に割譲されたことは
まったく知らされませんでした。

(そこまで放置状態~~😭)

当たり前のように反対行動が起きて
清から赴任してきていた官僚を
総統に持ち上げて、
「台湾民主国」の独立を宣言しちゃいます。

台湾


ところがこの官僚
公金を着服して本土へ送金しており
日本が上陸すると同時に
国外へ逃げてしまいます。


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いや、役に立ってないだろ!😆


残された住民たちは
部族の垣根を越えて
一枚岩の「台湾人」として
日本に抵抗を見せます。

ただ一説には
台湾の地方はヤクザが仕切っていて
日本人がくると、利益を脅かされるため
抵抗していた。という説もあります。

台湾の実業家の重鎮
許文龍氏によると

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当時の台湾人は、
秩序があって
治安の維持と
税金の引き下げをしてくれれば
誰がトップでもいい。

という意識だったそうです。


◆日本の功績

日本が台湾を統治していた時代は
1895年~1945年の50年間です。

それまでは武力による内部抗争や
ヤクザの往来、
役人の収賄、暴行、略奪などが
はびこってましたし、

風土病なども依然として
蔓延していました。

アヘンの吸引も問題でした。

台湾再興の足掛かりをつけたのは
4代目の総督に就任した
児玉源太郎(左)と
後藤新平(右)でした。

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多岐にわたって問題の多かった台湾を
後藤新平は、一気に解決する手段を打ちます。

ただし、現地の民情に合わせたやり方で。

例えば、
アヘン問題は
いきなり禁止にするのではなく
アヘンの取り扱いを免許制にして
政府が専売制にしていきます。

アヘンから得られた税収を
衛生事業に使い、
病院が建てられました。

一方で、アヘン仲介者へは
利益を上げさせる代わりに
ゲリラ対策や治安維持に協力させ、

新たな免許を交付しないことで
50年かけてアヘンを撲滅させました。


病原菌の温床となっていた
台湾の飲料水も
上下水道の整備に取り掛かります

これにも、抗日ゲリラを利用し、
過去をとがめないので投降させ
土木工事の仕事を与えました。

これには23年かかってます。

道路の建設、
南北縦貫鉄道の建設
港や橋の建設が
急ピッチで進められていきました

台風による水害を防ぐための造林
通貨の統一

これらのインフラ含めた整備により
治安は一気によくなり、
夜でもカギを締めずとも
大丈夫な状態になりました。

そして最も大きく
人の心を動かしたのが
教育の普及です。

バラバラだった言語は、
共通語として日本語を教え、
お互いの思いを通わせられるようになりました。

これに尽力した日本人教師6人は
当時、まだゲリラが横行していた中
殺害されてしまいます。

ただ、これも6人の先生を
祀るために、台北郊外にある景勝地
芝山巌に「六氏先生」として
教育の聖地として祀られています。

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これらが、日本が統治して
50年余りで改革できました。



以下、日本人が台湾に対して行った改革
いわゆるインフラ整備ですが、
多すぎるので、
有名どころだけ箇条書きにします。


●蓬莱米の開発

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末永仁により、

2毛作出来る台湾の気候で
日本人の口にも会う米を開発。
これには10年を要しました。
彼は「蓬莱米の母」と呼ばれています。

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磯永吉により、

蓬莱米の普及、増産を行い
輸出も増え、
大きな利益を生み出しました

彼は「蓬莱米の父」と呼ばれています。


●ダム建設

米の増産のためには、
干ばつ対策として、
灌漑設備が欠かせません。

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ここで出てくるのが八田與一です。
彼は嘉南ダムの建設を行い
当時アジア最大のダムを造りました。

水路の全長は万里の長城の6倍以上。
これにより、台湾の米作が発展したんですね。

感謝を込めて台南には
八田與一記念館があります。

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●発電事業

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7代目総督の明石元二郎は、
水力発電所を造り、
一気に生活形態が激変します

工業化も進められました。

彼は病で日本へ帰国後亡くなっていますが、
遺言により、骨は台湾の台北市に
埋められています。

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●工業化の波

最初に発展した工業は
砂糖づくり(製糖業)です。

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これには新渡戸稲造が指導に当たってます。

五千円札の人ですね。

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◆植民地政策?

台湾は日本の植民地?

もちろんその通りですが、
英国やスペインも
たくさんの植民地を抱えていました。

植民地を利用して国力の強さを誇示したり
利益を上げることが目的ですが、

日本が台湾に行った事は
英国などとは、ちょっと違ってました。

それまでは植民地にされた地域は
利益を生み出すための労働力。
住民は単なる駒。

折角、苦労して奪い取った地です。
戦争に投資した分、
早く投資回収したいわけです。

ところが、日本は台湾に
衛生医療と教育を施しました。

投資回収は何十年も先です。

台湾を日本の一部として
台湾人を日本人として
見なしていたのだと思います。

現に、日本の統治が始まって
10年もしない内に、
中国大陸から大量の移民が
流れてきました。

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仕事もあり、
収入もある
治安もいいという事ですから

自ら中国人を捨てて
台湾人になりたがる人が
増えました。


◆反面、日本の罪もある

こうやって書くと、
日本の功績が目立ちますが、

もちろん「功」もあれば、「罪」もあります。

日本が台湾に乗り込んで
先ずは政府を確立するために
台北市に総統府を建てました。

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日本でいう、国会議事堂ですね。

ここで、指揮を執るため

・台湾人独自の会社創設や経営を禁止
・大学教授、高級技術者、熟練工の育成も制限
・台湾人は日本人と同じ成果を挙げても
 同じ役職にはつけませんでした。

要は、「明らかな差別」がありました。

また、日本は朝鮮人は同胞ととらえて
陸軍士官学校などへの入学を認めていましたが、

台湾人は陸軍士官学校へは一人も
入学できませんでした。


台湾人は武力抵抗から
政治運動の形で抵抗を始めます。

その動きに尽力したのが
板垣退助です。

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彼も、昔の100円札に
肖像画がありましたね。

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台湾人の政治運動は
日本との「同化政策」を否定し、
台湾人の主義主張を発言できる
「台湾議会」設置要求でした。

ところが1923年、総統府は
治安警察法違反として
関係者を一斉逮捕。

「台湾人が同化政策に従わないのなら
この台湾から立ち去れ!」


それに対して、衆院議員の
清瀬一郎は、台湾を弁護します。

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「台湾に生まれて、台湾で生活し、
しかも、既に日本国民である台湾人を
同化政策に反対したからと言って、出て行けとは

国法、人道的に許せない暴言だ!

と、述べました。

これが大きな渦となって
1944年には、軍学校への入学も
台湾人にも国会議員になれる
道が開かれました。

ただ、その実現を見る前に
敗戦を迎えます。


ようやく台湾に光が見えてきました。
台湾人に親日が多いのは
このような事実があったから
なんですね。

それで記念碑なども
多く存在するんです。

(つづく)


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